なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(84)

   「神の絆」 エレミヤ書31:35-40、2018年2月4日船越教会礼拝説教


・今私たちは、バビロンの捕囚民である古代イスラエル人の置かれた状況と、ある面では共通した状況に

あるのではないでしょうか。閉塞した状況の中で、なかなか将来への希望が見えないで、これからどう

なっていくのかという不安をかかえている。それが私たちの現実であり、またバビロン捕囚民の現実なの

ではないでしょうか。


・船越通信にも書きましたように、先週金曜日に寿の炊き出しに朝の野菜切込みから、ボランティア交流

会、そして午後1時の配食、その後の報告会まで、一日参加してきました。この日の炊き出し雑炊は600食

弱出ました。最後の雑炊が配られた時にも、まだ沢山の人の列がありました。雑炊がなくなって、その人

たちは列を離れて散っていきました。600食弱の雑炊が配られたということは、600人弱の人が食べたとい

うことではありません。中には何回も列に並んで食べる人もいますので、実際に食べた人は150人から200

人の人かも知れません。或はもう少し少ないかも知れません。配食開始時の午後1時には、まだ小雨が

降っていましたが、配食中に雨も上がっていました。


・寿では1993年から、炊き出しをしなくてよい社会になることをめざして炊き出しを始めていますが、炊

き出しを始めて25年になります。なかなか炊き出しをしなくてよい社会にはなりません。むしろ貧困層

人は多くなっていて、生活保護費の引き下げもあり、ますます厳しい状況になっています。反面安倍政権

下で防衛費の予算は増大しています。沖縄の民意を交付金というお金と機動隊や海上保安庁による力で抑

えつけて、辺野古新基地建設を進めています。東電福島第一原発事故についての処理も被害を受けた人々

への対処も不十分な段階で原発再稼働に動き、沖縄と共に福島を切り捨てるかのような安倍政権の政策で

す。


・それでもこの現状を何とか打破したいと願って、様々な運動がいろいろな人々によって展開されていま

す。現状を変えるほどまでには至っていませんが、平和な社会を造り出すために、また人の命の尊厳が大

切にされる社会を造り出すために活動しています。神の国の実現を信じ、希望をもって、神の国の住民と

して教会に連らなっている私たちキリスト者は、平和と人の命の尊厳を大切にする社会の建設に、その思

いを共有する非キリスト者の人たちと共に携わっていかなければなりません。


・バビロンの捕囚民であった古代イスラエル人は、現代の私たちのように社会を変えるための運動を行動

としてバビロンにあってすることは、ほとんど不可能だったと思われます。捕囚から解放される時が来る

のをじっと待っていたに違いありません。何らかの政治的行動を起せば、バビロン王によって弾圧される

に違いないからです。バビロンの宗教的寛容政策によって、捕囚の民イスラエル人のヤハウエ信仰は奪わ

れることはありませんでした。彼ら彼女らは祭司たちを指導者にして、礼拝や律法教育をバビロンにあっ

て守り続けたと思われます。また、第二イザヤやエゼキエルの存在が示しているように、捕囚期にも預言

者の活動は途絶えることなく続きました。エレミヤの預言も捕囚の民イスラエル人を励ましました。


・政治的社会的には自立した国家をもたず、捕囚の民イスラエル人は他国の支配の下で、ある意味で奴隷

的な生活を強いられていたと思われます。自由な活動は極端に制限されていたでしょうが、神ヤハウエと

の契約の民としての彼ら・彼女らのアイデンティティーは、捕囚の状態になってからは、返って再確認さ

れてきたのではないでしょうか。バビロン捕囚となって、それまで数百年の間王国として存在していたイ

スラエルの民には、王国も王も滅んでしまったのです。捕囚の民である彼ら・彼女らを一つにするのは、

神ヤハウエとの契約共同体としてのイスラエル以外には、何もなかったのです。むしろ神ヤハウエとの契

約共同体としてのイスラエルというアイデンティティーが、伝統として捕囚の民イスラエルにはありまし

たので、バビロン捕囚の中でバビロンに同化して、イスラエルの民としての一体性を崩壊してしまうこと

から守られたと言えるでしょう。


・そのような捕囚の民にとって、捕囚という過酷な現実の中で、将来への希望は何に見いだしていたので

しょうか。それは、預言者によって語られた神の救済の約束に対する信頼でありました。捕囚の民イスラ

エル人は、バビロンでの生活を積み重ねる中で、自分たちがバビロンに捕囚されたのは神ヤハウエに背い

た自分たちの不信、背信に対する神の審判だと受け止めるようになっていました。しかし、神ヤハウエ

は、そのような自分たちが犯した罪を赦してくださり、この捕囚の状態から解放してくださるという、預

言者が語る神の救済の約束に信頼するようになっていったのです。


・その神の救済の約束を語る預言の一つが、先ほど司会者に読んでいただいたエレミヤ書31章35-37節の

言葉です。そのところをもう一度読んで見たいと思います。


・<主はこう言われる。/太陽を置いて昼の光とし/月と星の軌道を定めて夜の光とし/海をかき立て、

波を騒がせる方/その御名は万軍の主。/これらの定めが/わたしの前から退くことがあろうとも/主は

言われる。/イスラエルの子孫は/永遠に絶えることなく、わたしの民である>(35,36節)。ここで

は、神の救済に対する信頼を、世界とその秩序の造り主としての神の全能によって根拠づけているので

す。神が創造した自然界の秩序が、神の前から退くことがあろうとも、<イスラエルの子孫は/永遠に絶

えることなく/わたしの民である>と言われているのです。


・<主はこう言われる。/もし、上においては、天が測られ/下においては、地の基が究められるなら/

わたしがイスラエルのすべての子孫を/彼らのあらゆる行いのゆえに/拒むこともありえようと/主は言

われる>(37節)。この二つ目の比喩では、天の高さと地の深さが究明できないことが前提となっていま

す。それが究められるなら、<わたしがイスラエルのすべての子孫を/彼らのあらゆる行いのゆえに/拒

むこともありえようと/主は言われる>というわけですから、天の高さと地の深さが究明できないので、

<わたしがイスラエルのすべての子孫を/彼らのあらゆる行いのゆえに/拒むことはあり得ない>という

のです。


・この救済預言に、38節から40節までのエルサレム再建に関する言葉が加えられることによって、この救

済預言の適用範囲をエルサレムの新しい状況にまで広げ、再建後のエルサレムの町に相応の地位を保証し

ようとしたのであろうと言われています。


・実はこの神の救済の約束への信頼によって、あの捕囚という他国の支配の下で奴隷的な生活を強いられ

ながら、絶望に陥ることなく、彼ら・彼女らが神ヤハウエの契約の民の一員であるとの自覚をもって捕囚

期を乗り切っていくことになるのです。その意味で、このエレミヤの救済預言は捕囚の民にとって大きな

力となっていったに違いありません。


・私たちもまた、国家権力と資本の横暴の中で、捕囚の民イスラエルと同じように無力な人間としてこの

社会に生きているのではないでしょうか。他者のことは無視して、自分だけのことを考えて生きていけ

ば、経済的にある程度余裕のある人は、社会がどうあろうと、私的な楽しみを見いだして、自己満足的に

生きていけるかも知れません。けれども、国家権力と資本の横暴の犠牲になっている人々は、黙っている

ことはできません。叫びを上げ、抵抗しない限り、ただ押しつぶされていってしまうからです。自分たち

は何者なのか。自分が作り出したのではないこの贈り物として与えられた命が、自分の命も他者の命も虫

けらのように粗末にされる、戦争につながる新基地建設には反対・抵抗せざるを得ない。寿でも越冬では

「黙って野垂れ死にしないで、やりかえせ!」というスローガンが掲げられます。黙っていれば、この日

本の社会は特に冬場は行き倒れの人が沢山出るのです。体力のある時には、日雇い動労者として酷使させ

られ、体力が衰えたり、病気になったりして働けなくなると、そのような人々のセイフティーネットが充

分に整っていないために、路上に投げ出されて、命を落としていく。そのような現実があるのです。自然

災害や原発事故による被災者の方々の中にも、同じような現実が現れているに違いありません。他にもい

ろいろなところで、同じような非人間的な権力と資本の横暴が人々を苦しめているに違いありません。


・権力も資本もない市民の一人として、私たちは神を信じ、イエス・キリストを信じて生きていこうとし

ている者たちではないでしょうか。ヨハネ福音書の著者は、<神は、その独り子をお与えになったほど

に、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に

遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである>(3:16,17)と語って

います。


・また、マタイ福音書の著者は最後に審判の記事でも、このように語られています。<人の子は、栄光に

輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そしてすべての国の民がその前に集められる

と、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側

にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意

されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたと

きに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ね

てくれたからだ』。すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるの

を見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をし

ておられるのを見てお宿を貸し、裸であるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢

におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか』。そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わ

たしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』。>(マタ

イ25:31-40)。


・私たちは、最も小さく弱くされている人が最も大切にされる神の国の完成を待ち望みつつ、今ここで神

の国を生きていきたいと願います。そうであるが故に権力と資本の横暴を見過ごすことはできません。否

を否としつつ、すべての人が対等同等に、互に助け合い支え合う仲間として、共に生きることが出来る神

の国の実現という希望を失わずに、それぞれの場に立っていきたいと思います。主がそのように私たちを

導いてくださるように祈ります。