なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(71)

     「鉄の軛」エレミヤ書28:10-17   2017年7月23日船越教会礼拝説教


・今日のエレミヤ書の箇所は、預言者エレミヤと偽預言者ハナンヤとの対決の場面の後半になります。前回の

繰り返しになりますが、前半の部分を想い起こしておきたと思います。ハナンヤは紀元前597年の第一回バ

ビロン捕囚後、バビロン捕囚から免れたエルサレム残留民に向かって、2年後にはバビロンの王ネブカドッレ

ツアルが持って行ったエルサレム神殿の祭具と共に、ユダの王をはじめ捕囚民もエルサレムに帰って来ると

預言しました。一方、エレミヤはバビロンの軛を負って、バビロン王に仕えよ、そうすれば命を保つことがで

きる(27:17)と預言していました。当然エルサレム残留民は、厳しいエレミヤの預言よりも、安心感を与え

るハナンヤの預言に希望を託したに違いありません。そのハナンヤの預言に対して、エレミヤは預言してこの

ように言いました。《あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災

害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者

であることが分かる》(28:8,9)と。エレミヤは、ハナンヤの預言はエルサレム残留にとっては耳触りの良い

ことばだが、《その言葉が成就するとき初めて、(ハナンヤは)まことに主が遣わされた預言者であることが

分かる》と言って、ハナンヤの預言に希望を託したエルサレム残留民に釘をさすような言葉を語っているの

です。そう語ることによって、エレミヤはハナンヤの預言に偽りの響きを読み取ったに違いありません。おそ

らくハナンヤ自身もエレミヤの言葉からそのように感じ取ったと思われます。

・そこで今日の箇所の場面になりますが、《すると預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から軛をはずして

打ち砕いた》(10節)というのです。エレミヤが軛を首に着けていたのは、預言者としての象徴行為であって、

ユダの国の民に向かって、バビロンの軛を負って、バビロンの王に仕え、生き延びよというメッセージを伝え

るためでした。そのエレミヤの軛を、ハナンヤはエレミヤの首からはずし、打ち砕いたというのです。《そし

て、ハナンヤは民すべての前で言った。「主はこう言われる。わたしはこのように、二年のうちに、あらゆる

国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドレツアルの軛を打ち砕く。」》(11節)と。

・ハナンヤはエレミヤと真向から対決して、引き下がろうとしません。むしろエレミヤの方がハナンヤのもと

を立ち去っていったというのです(11節b)。エレミヤが立ち去ったのは、その時、エレミヤにはまだハナン

ヤに対して確信を持って語るべき神の言葉が与えられていなかったからでしょうか。対決の為の対決というい

たずらな対決をエレミヤは避けて、ハナンヤのもとを立ち去ったのかも知れません。しかしその後、《主の言

葉がエレミヤに臨んだ》(12節)というのです。《「行って、ハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は

木の軛を打ち砕いたが、その代わりに、鉄の軛を作った。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わた

しは、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドレツアルに仕えさせる。彼らはその

奴隷となる。わたしは野の獣まで彼に与えた」》と。エレミヤは、あくまでもバビロンの軛を負って、ネブ

カドレツアルに仕えることが、ユダの民の生き延びる道だと預言したのです。そして預言者ハナンヤに、更

にこう言いました。《「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させよ

うとしているが、それは偽りだ。それゆえ、主はこう言われる。『わたしはお前を地の面から追い払う』と。

お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったからだ」》(28:15,16)と。すると、《預言者ハナンヤは、

その年の七月に死んだ》(28:17)というのです。これがエレミヤと偽預言者ハナンヤの対決の結末です。

・さて、この物語が記されたのは、エレミヤとハナンヤという、真の預言者と偽りの預言者の対決という出

来事の単なる記録ではありませんでした。このエレミヤ書の物語が記された時には、読者であるイスラエル

の民は、紀元前587年の恐るべきバビロンによる第2回捕囚という出来事を経験して、その影響のもと捕囚の

地バビロンで生きていたのです。第2回バビロン捕囚によって、バビロンに連れてこられたイスラエルの民に

とりましては、このエレミヤとハナンヤの対決は第一回捕囚後のエルサレム残留民としてエルサレムで起こ

ったことでした。その時エルサレム残留民がエレミヤの預言を信じて、バビロンの軛を負って、バビロンの

王ネブカドレツアルに仕えていれば、第2回バビロン捕囚は起こらなかったのです。彼ら・彼女らはエレミ

ヤの預言ではなくハナンヤの偽りの預言を信じて、バビロンの軛を負わない道を選んだのです。その結果

第2回バビロン捕囚に至ってしまったのです。

・彼ら・彼女らが捕囚の地にあって、編集されたこのエレミヤ書のエレミヤとハナンヤの対決の物語を読ん

だとき、自分たちは、エレミヤによって語られた神の言葉を拒絶し、偽預言者たちによって堕落させられて

しまっていたと、自らの不信仰に気づかされたのではないでしょうか。そして捕囚の地でもハナンヤのよう

な偽預言者の活動があったと思われますが、彼ら・彼女らは、二度と再び偽預言者の言葉に騙されてはなら

ないと、過去の過ちへの悔い改めを通して、気をしきしめて、不信仰に陥らないようにと努めたと思われ

ます。

・それと共に、捕囚というイスラエル共同体にとっては大変厳しい状況にも拘わらず、イスラエルの神が、

バビロンを含め、諸国民の運命を支配しているという、歴史を支配する神ヤハウエへの信仰に立ち戻って、

バビロン捕囚の地にあっても信仰の民として自分たちは生き延びて行くのだという、現在に対する勇気と

将来に対する希望を、このエレミヤの預言によって与えられたのではないでしょうか。

・私は、今日のエレミヤ書の預言を読みながら、敗戦後の日本の教会の歩みについて考えさせられました。

戦争犯罪を犯した戦前の日本の天皇制国家の中枢にいた人びとは、最大の戦争犯罪者である天皇裕仁は、

占領軍の日本支配に利用されて、戦争責任を問われることなく、延命しましたが、東京裁判では東条英機

はじめ7名が死刑になり、絞首刑が執行されました。東京裁判には日本の戦争責任だけが一方的に問われた

という問題があるとしても、少なくとも日本の国家としての戦争責任が問われたのです。けれども、日本

基督教団の富田統理は戦後も、何の罪も問われることなく、教団の指導的立場に立ち続けたのです。日本

基督教団が国家の要請の下に成立し、戦時下には積極的に戦争協力をしたにも拘わらずです。日本基督教

団の戦争責任告白を議長鈴木正久さんの名前で出したのは、1967年イースターです。戦後22年経ってから

です。その戦責告白についても、出た当時から反対の意見の人も多く、日本基督教団の教会全体の告白に

は未だに至っておりません。戦時下国家の要請の下に出来て、戦争協力に邁進した日本基督教団は、聖書

の使信に忠実に従ったというよりは、偽預言者の言葉に翻弄されたと言えるのではないでしょうか。にも

拘らず、敗戦を契機に戦時下の戦争協力という日本基督教団の過ちを悔い改めることなく、日本基督教団

の教会は戦後の歩みを始めたのです。マッカーサーの占領軍が支配する戦後の日本社会では、キリスト教

がある種のブームになり、そのブームに乗っかって教団の教会は教勢を拡大していったのです。

・バビロン捕囚の民が、エレミヤの預言に接して、偽預言者の安易な言葉に信頼してしまった自らの不信

仰を反省して、神への信頼を取り戻してバビロンの軛を負って生きて行こうとしたことと比べても、敗戦

後戦責告白以前の教団の教会は、悔い改めがないまま、戦前の教会の延長線上を歩んでいたと言えるので

はないでしょうか。

・私たちは、偽りの言葉と真実な言葉とを見分ける信仰を与えられたいと願うのであります。そのために

は、神の言葉として受肉したイエスとの関係を大切にしたいと思います。ガラテヤの信徒への手紙でパウ

ロは、神の言葉としてのイエスの福音に加えて割礼と律法も必要とするユダヤ主義者に対して、《肉にお

いて人からよく思われたがっている者たちは、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、

あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています》(6:12)と言って、《しかし、このわたしには、

わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るべきものが決してあってはなりません。この十

字架によって、世はわたしに対して、わたしは世に対してはりつけにされているのです》(6:14,15)と

言っています。そして《わたしは、イエスの焼き印を観に受けているのです》(6:17)と断言しているの

です。ここには、《十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かな者ですが、わたしたち救われる者に

は神の力である》(汽灰1:18)というパウロの信仰が明確に言い表わされています。

・私たちには、真偽を見分ける基準としてのイエスがおられるのであります。そのイエスを主と告白しつつ、

偽りの言葉の誘惑がひしめいている教会においてもこの世の現実においても、一人のキリスト者としてその

歩みを全うできるように、神の助けを祈りつつ歩んでいきたいと思います。