なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

復活節礼拝説教

     「最も大切なこと」イザヤ書42:10-16、汽灰螢鵐硲隠機В院檻隠院
      
                         2014年4月20日(日)イースター礼拝説教

・みなさんは、自分にとって「最も大切なこと」は何だとお考えでしょうか。人は誰でも、その人が思っている、或は信じている「最も大切なこと」によって生きているのではないでしょうか。

パウロは、今読んでいただいたコリントの信徒への手紙一の箇所で、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」を言って、イエスの十字架死、葬り、復活、顕現についてのイエスの出来事を語っています。そして、この神の恵みとしてのイエスの出来事を宣べ伝えることにおいて、「しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」と言い換えていますが、自分は他のすべての使徒たちよりも多く働いたと言っています。そして、「ともかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした」と、コリントの教会の人たちに語っているのです。

・このように「最も大切なこと」としてイエスの出来事を宣べ伝え、それを信じたコリントの教会の人々の中に、その信仰をよりどころとして生きることから逸れていこうとする人々がいたのでしょう。そこで、もう一度コリント教会の人々にイエスの出来事という福音に固くたって生きることを促すために、パウロはこの手紙を書いているのです。

・「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」(15:1,2)。

・このように語って、パウロは、このコリントの信徒への手紙一の15章で、イエスの復活についていろいろと語り、最後に、「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(15:58)と勧めているのです。

・イエスの出来事としての福音をよりどころとして生活することは、キリスト者として当然なことだと思われるかもしれません。けれども、私たちの生活世界には、福音とは異なるさまざまな力が支配していますので、私たちは、そのことを見分けながら、しっかりと日々新たに福音をよりどころとして生きていかなければなりません。

・そこで今日は、私たちの中でイエスの出来事としての福音とは異なる「最も大切なこと」とされているいくつかのことを考えてみたいと思います。まず第一に、自分が最も大切だという私たちの中にある自己中心性についてです。バルトは、それを「自我の霊」と呼び、この自我の霊は私たちすべての者の中にあると言います。「われわれのうちほとんど誰もが、『私は特別に重要なものである。私は、私という人物は』という思いに、ほとんど抗いがた力でとらえられていると感じている。知らず知らずのうちにわれわれはわれわれを一つ小さな丘の上に置く。今やそこからわれわれは人生を観察し、そこから一切のものをわれわれの方へ引き寄せる」。そのように語って、そのような自我の霊という色眼鏡をもって、私たちは神についても考え、神に祈るであろうと言うのです。「しかし私たちはその時神を求めているであろうか。御国の来ることが、み意(こころ)のなることがわれわれにとっての問題なのだろうか。われわれの神への願いは神に完全に服従するところにあるのであろうか。それとも、われわれは神をもわれわれの自我という小さな丘からながめているのではないであろうか。われわれは神をわれわれの願望にしたがって想像する。われわれは、神に、われわれの願いと思いの小さな御国が来るように、われわれの意志がなるように乞い求める。われわれの神への愛は隠れた自己愛である」と言っています。

・私は「主の祈り」を祈るたびに、ますますこの祈りは大変な祈りであることに、驚かされることがあります。主の祈りは、「天にましますわれらの父よ、ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来らせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。われらの日用の糧を、今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなれなり」。この主の祈りは、私たちが自分の思いではなく、神のみ心に従って生きるようにさせてくださいという祈りだからです。

・第二番目には、お金です。お金が最も大切なものであると、大ぴらに言う人はあまりいないかもしれませんが、私たちは誰もが密かにそう思っているのではないでしょうか。お金への渇望は、明治以降の日本の国家の歩みを決定づけたということができるでしょう。富国強兵こそ、明治政府がとった方針でした。そのことによって、日本の国は、どれだけ正義を踏みにじり、混乱と対立を生み出してきたかは、明治以降の日本の近代史を振り返れば、一目瞭然のことです。一市民である私たち自身が苦しむだけでなく、主にアジアの人々の命を奪い、生活をどれだけ破壊してきたか。その結果が、日本の敗戦でありました。敗戦後は、貧しい時代から、政府が所得倍増を掲げ、エコノミック・アニマルと世界の人から言われながら、経済を最優先にしてやってきて、バブル崩壊後、結果的に現在の格差社会の広がりを生んでいます。

・最も大切なものとしてきたお金によって、どれだけ私たちが苦しんでいることでしょうか。福島第一原発の事故による放射能の拡散という、取り返しのつかない事故が起きたのも、元をただせばお金の問題がその根底にあると思われます。原発安全神話をつくって、原発によって金儲けする人々がそこに群がっていったと思われます。また、原発を誘致した市町村も、原発誘致による経済の活性化を求めたに違いありません。

・お金さえあれば、何でもできるという信仰が、私たちの中に広く行き渡っています。確かに人はお金によって多くのことをすることができます。場合によっては、法律さえゆがめることができるかも知れません。しかし、神がかく生きよと私たちに命じる神の定めを曲げることはできません。

・お金を最も大切にすることによって、お金では、ある程度までは和らげることはできても、根本的に解決できない人間の苦しみや死への備えを私たちはないがしろにしてきたのではないでしょうか。現在のこの社会の中にあるさまざまな苦しみや困難は、私たちが何を大切にしてきたかによる、その結果の現れということもできるでしょう。

・自分やお金だけではなく、その時代の流れを最も大切なこととする見えない強制にも注意を向けなければなりません。今の政権は、教科書をはじめ教育への干渉を強くしていますし、最近の皇居を民間人に開放する動きも、天皇制の強化の目論見と連動していると思われます。身近な皇室というイメージづくりによって、天皇制による国造りが行われていると考えられます。在日コリアンへのヘオトスピーチも、国を愛する愛国心教育とどこかで繋がっているに違いありません。このようなある種の思想統制だけではなく、時代精神と言われるような、「思想、習慣、ものの見方においてもいつもまさに現在の時点で広く行われているものを受け入れ、それを真実で正しいものとして承認するよう強制しようとする隠れた力」(バルト)のもとに私たちは立ってます。その力に、多かれ少なかれ、私たちは知らず知らずに従っているのではないでしょうか。そのことによって、私たちはそれとは違う思想、習慣、ものの見方をする人たちを排除差別してしまうのです。

パウロが語っています「最も大切なこと」としてのイエスの出来事としての福音は、自分やお金や時代の流れとは違って、結果的に人を苦しめたり死に追いやったりする力とは根本的に違います。イエスの生涯と死と復活の出来事は、私たちと同じように、自己やお金や時代の流れの影響を受けながら、イエスが、その支配から自立して神の国と神の義を何よりも大切にした生を貫いたことを物語っています。

・(以下の内容はバルトによっています)。イエスは他人の罪責のただ中にあってそれから純粋でありつづけました。もちろんそれは、イエスが他人から逃避したことによってでもなければ、自らを罪びとから分離したことによってでもありませんでした。むしろイエスは彼らのもとに赴きました。そして、彼らの罪を赦し、彼らを新しい道に導き、そのようにしてイエスは彼らの罪責を克服したのです。悲しみがその最も厳しい形式において彼に近づきました。人がほとんど体験したことのないような魂と肉体の悲しみとして近づいてきました。イエスはそこでくずおれませんでした。イエスは十字架を負いました。そして十字架において、悲しみよりも強い何ものかが存在することを、自ら示したのであります。死が、われわれすべての者の身に一度はふりかかってくるように、イエスの身にふりかかってきました。イエスはそれを迎えました。しかし、死はイエスをみずからのもとにとどめておくということができませんでした。たしかにイエスは死にました。しかしイエスの死の中にすでに甦りが隠されていました。終わりが、霊においてイエスの生の始めとなりました。そのようにして、イエスは、われわれの前に勝利者として立っていたもうのです。この勝利者の像がわれわれの魂の中に刻み込まれるならば、その時勝利の力はわれわれの生の中にも入ってくるでしょう。<わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です>(フィリピ4:13)。パウロがこう言ったのは誇張ではありませんでした。われわれもイエスから、罪から自由になり他人の罪を赦すこと、苦しみをにない死において勝利することを学びます。われわれはただ個人的にそうするだけではありません。われわれがイエスについての使信を外に運び出し、この世の生において妥当せしめる時、またわれわれがイエスをしてわれわれの教会の中だけでなく、われわれの人間関係や状況の中に語らしめ、足を踏み入れさせる時、そこでも、イエスは、克服の力として、イエスによって困難に過ぎるものは何もない勝利者として登場するのであります。どんなに多くの神ならざるもの、死せるものを、すでにイエスは掃討したことでありましょう。どんなに多くのものをわれわれはイエスから期待することが許されていることでしょうか。

・この復活節に当たり、そのようなイエスの勝利をもう一度かみしめたいと思います。