なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(53)

「立場を鮮明にして」マタイ10:32-39、

                           2019年10月20日(日)礼拝説教

 

  • 分裂を恐れず立場を鮮明にすることは、言葉で言うほど簡単なことではありません。むしろ自分の立場は曖昧にして、分裂の抵抗を受けないでいくことの方が楽です。それが生きる知恵と考えている人も多いのではないでしょうか。特に私たちの日本社会の伝統的な価値観によれば、和をもっと尊し、というところがあって、自分の立場を鮮明にすることは、逆に和を崩すので、よくないという評価がなされたりするのです。

・ どちらかというと、個々人の考えや行動よりも、個々人が属している、国家や民     

  族、会社や学校、組合や様々なグループ、家族、教会もその中の一つと考えてよ 

  いと思いますが、その集団の秩序の方が、私たちの中では今でも重んじられている 

   ところがあるのではないでしょうか。

  • しかし最近は、私たちが属しています集団がよりよいものとなるためには、その組織集団のトップの考えにみんなが自分を殺して従うことではなく、その集団に属する個々人が自分の考えをしっかりもって行動することの大切さが強調されてきています。

 

  • 今日本でラクビーのワールドカップが行われています。日本のチームは今まで突破できなかった1次リーグを4戦全勝で突破し、初めて決勝トーナメントに進み、今日南アフリカとの試合が行われます。

 

  • ラクビーワールドカップは5チーム一組で4組20チームが参加し行われます。1次リーグはその4組で5チームが総当たり戦をして、上位2チームが決勝リーグに出ることができます。4年前のワールドカップでは、日本チームは1次リーグ3勝したのですが、スコットランドに負けて、決勝リーグには進めませんでした。

 

  • 現在の日本チームのヘッドコーチはジェイミー・ジョセフさんという人ですが、この人は個々人の選手の自主性を重んずる人で、日本チームはそれまで前任のヘッドコーチの指導に忠実に従って強くなってきたので、選手は最初だいぶ戸惑ったそうです。しかし、選手の自主性を重んじる現在のヘッドコーチの指導が浸透し、試合の中でもそれぞれの選手がその状況に合わせて自分の考えで判断して行動するようになって、強くなってきていると言われています。

 

  • 私たちは自分一人で生きていくことはできません。他者である隣人と共に生きています。当然現代社会では国家をはじめ様々な集団に私たちは属して生きています。

 

  • 神がもし集団主義的な秩序の神であるとするならば、私たちが個人の立場を鮮明にして秩序を崩すことは、私たちに望まれなかったでしょう。しかし、神は聖書によれば秩序の神であるよりも、「義(正義と公平)と平和と喜び」を何よりも大切にされる神です(ローマ14:17)。
  •  
  • パウロはコリントの信徒への手紙14章33節で、「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」と語っています。ここでパウロは、「神は無秩序の神ではなく、秩序の神である」とは言っていません。「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」と語っているのです。

 

  • このパウロの言葉は、コリントの教会で信徒がそれぞれ勝手に何だかんだよくわからない異言を語って、無秩序状態になっているのに対して語られた言葉です。その無秩序な状態は好ましくないとパウロは思って、「神は無秩序の神ではない」と語ったのだと思います。しかし、個々人の自主性を否定するような言い方ではなく、むしろ神の下にある個々人の自主性は尊重して、「神は平和の神である」と語ったのではないかと思います。

 

  • しかし、パウロはこの言葉を語った後に、女性を差別する発言をしています。≪聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちは語ることが許されていません≫(Ⅰコリント14:33,34)と。ですから、パウロは一面では、当時の父権制社会であるローマ社会の秩序を教会共同体においても容認しているところがありますので、現代からしますと、批判しなければならないところもありました。

 

  • さて、神の国は神の支配したもう国ですから、その神の国聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのですから、義と平和と喜びこそが神が最も大切にされていることに違いありません。

 

  • 抑圧・差別によって苦しむ人々が存在する正義と公平が踏みにじられている不義なる世界に、すべての人の尊厳が認められる義を、争いのあるところに平和を、恐れのあるところに喜びをもたらす神の業に忠実であろうとするならば、現代社会と言えども抑圧・差別はまだ克服されてはいませんので、分裂をおそれては何も出来ません。

 

  • 福音書のイエスの物語りを読みますと、イエスは、病める者を癒し、悪霊に憑かれた者から悪霊を追放し、彼ら彼女らに喜びをもたらしました。差別されていた徴税人や遊女のような人々とも、偏見差別無しに交わりました。たとえ法で決まっていても、それが正義にもとるものであれば、イエスは法を破ってまでも正義や公平を求めました。イエスは神の平和(シャローム)の実現を信じ、人々の中で神が直接働いていることを、身を持って示しました。

 

  • そのように神の義と平和と喜びをもたらしたイエスは、時には町から追放されることもありました。当時のユダヤ人の指導者たちと論争し、権力者たちからは世を乱す者として、逮捕され裁判にかけられました。家族から疎んじられもしました。そしてついにローマの権力によって十字架に架けられて殺されてしまいました。

 

  • 福音書に物語られているイエスの生涯は、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20)と言われているほど、孤独な闘いでありました。弱く小さくされている人々と共に生きることを大切にされたイエスは、そのように立場を鮮明にして生きたために、イエスとその生き様を好まない人々と対立し、その分裂に命を落とすまで苦しまれたのです。

 

  • しかし、そのイエス神の国の宣教と、イエスご自身の苦しみ、十字架がなければ、病気や貧しさで苦しむ人々、社会の偏見と差別に苦しむ人々、経済的な搾取によって苦しむ人々の解放もなかったかもしれません。

 

  • また、そのような苦しむ人々を再生産する社会で、その矛盾にも気づかず、多くの人々の苦しみの上に安穏と暮らしいる人がその無理解と怠惰から解放されることもなかったかもしれません。

 

  • エスは、私たちに対して、≪人々の前で、自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしの天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしの天の父の前で、その人を知らないと言う≫(マタイ10:32-33)と仰っています。

 

  • そして、そのように自らをイエスの仲間の一人だと、人々の前で言い表す(告白する)者は、イエスと同じような苦しみを受けることになるのだというのです。

 

  • ≪わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと、思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。/人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。/こうして自分の家族の者が敵となる。/わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである≫(マタイ10:34-39)。
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  • 「人々の前で、自分をイエスの仲間であると言い表す」こと、これが私たちの信仰告白ではないでしょうか。
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  • 今日「自分をイエスの仲間であると言い表す」ということは、具体的にどのようなことなのでしょうか。それはイエスの十字架への道行きに共に与ることではないかと思います。

 

  • そのイエスの十字架への道行きを内容的に示す物語がマタイによる福音書25章26節以下の終わりのときに羊飼いが羊と山羊にわけるように、神に祝福される人たちとそうでない人たちに分けられるという終末の記事の中に記されています。「・・・お前たちは、わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸の時に着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」・・・「はっきり言っておく、わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである」(マタイ25:35,36)。 

 

  • ここでは、飢え渇いている者、宿がない者、着るものがない裸の人、病気の人、獄中の人を、イエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さな一人」と言っています。そして、「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである」と。

 

  • このことからして、「人々の前で、自分をイエスの仲間であると言い表す」ことがどのようなことなのかが、自ずからわかるのではないでしょうか。イエスはこの世で小さく弱くされている人を通して私たちに関わっておられるということです。イエスを神に祭り上げることによって、崇拝の対象とするのではなく、日々私たちが出会う他者である隣人、特にこの世で小さく弱くされている人を通して、私たちとかかわっておられるのです。イエスを主と信じることは、そのようなイエスの仲間として私たちが生きることです。

 

  • そのことを見失わないようにしたいと思います。私たちに対して、≪人々の前で、自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしの天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしの天の父の前で、その人を知らないと言う≫(マタイ10:32-33)と仰っていますイエスの言葉をかみしめて、イエスの仲間の一人として日々の生活を全うしてきたいと願います。