なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(10)

  「貧乏と心の貧しさ」マタイ福音書5:1-3、2018年5月13日(日)船越教会礼拝説教


・マタイによる福音書5章、6章、7章の3章には、イエスの山上の説教が記されています。今日の5章1節、

2節には、そのイエスの説教がどのような状況で語られたか、その場面が短く記されています。もう一度

その所を読んで見たいと思います。


・【イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこ

で、イエスは口を開き、教えられた】(1-2節)。


・【イエスはこの群衆を見て、山に登られた】とありますが、ここに記されています「この群衆」とは、

この言葉の前の記事に出ている、イエスが【御国(神の国=神の支配)の福音を宣べ伝え、民衆のありと

あらゆる病気や患いをいやされた】(4:23)、その評判を聞いて、イエスの所に集まってきた人々でありま

す。4章の25節には、【こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレムユダヤヨルダン川の向こう側

から、大勢の群衆が来てイエスに従った】とあります。ここに挙げられている地名は当時のほぼパレスチ

ナ全域を表していますので、パレスチナ全体からイエスの下に集まった群衆ということになります。その

中には様々な病や患いをもった人々もいました。そういう意味では、この群衆はこの世そのものであり、

この世を代表していると言えるのではないでしょうか。


・そのような群衆を見て、イエスは山に登られました。そして腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄っ

て来たというのです。【そして口を開き、教えられた】ということですから、イエスが直接教えられたの

は、イエスの近くに寄って来た弟子たちということになります。しかし、イエスを中心にして、その近く

に弟子たちが、そしてその周りには大勢の群衆がいて、イエスの教えを聞いていたのでしょう。


・イエスが山上で教えを語り終えた後、マタイ福音書の7章28節には、【イエスがこれらの言葉を語り終

えられると、群衆はその教えに非常に驚いた】と記されていますので、弟子たちだけでなく、群衆がイエ

スの教えを聞いたことは明らかです。


・〔イエスが語られたこの「山上の説教」の全体は、(もちろん)弟子たちに向けて語られたイエスの戒

めの言葉であります。弟子たる者がこの地上での生活の様々な局面で、何をなすべきか、いかに生きるべ

きかを教えられた言葉であると、言わなければなりません。…しかし私たちは、この説教の聴衆が単に弟

子たちだけではなかったこと ― 群衆もまた熱心な聴衆であったことを、忘れてはなりません。イエス

は、たしかに直接には、目の前にいる弟子たちに向かって語られるのでありますが、しかし彼らの背後に

いる大勢の群衆をもその視野の中に収めつつ、その説教を語られたのです。そして弟子たちも、その説教

を、群衆と共に聞いたのです。たしかにまだその自覚を持っていないとしても今すでに救いの光の中に入

れられた者たちとしての群衆と共に、彼らはイエスの言葉を聞いているのです。人間全体が聞くべき真理

の言葉を聞いているのです。彼らは、かつてこの群衆の中から召し出されて、イエスの弟子とされまし

た。そして彼らは、やがてまたイエスの福音をたずさえて、この群衆の中に赴かなければならないことを

知っているのです〕(井上良雄)。


・今言いましたように、イエスの山上の説教は、弟子たる者はかくあるべきだという、弟子のあり様・生

き様について語られた説教であります。その一つ一つの戒めは、とても実行できるとは思えない厳しい教

えに満ちています。例えば5章21以下には、<「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「殺すな。人

を殺した者は裁きを受ける」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだ

れでも裁きを受ける。「ばか者」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄

に投げ込まれる>(21,22節)と言われています。


・そのような通常では実行できないほど厳しい様々な戒めや要求が、5章から7章までの山上の説教の中

で、イエスの弟子たる者のあり様・生き様として語られているわけです。しかし、そのイエスの山上の説

教が、先ず弟子達に対する、「幸いなるかな」という祝福の言葉ではじめられていることに注意しなけれ

ばなりません。この祝福の言葉が最初にあるということは、「幸いなるか」という祝福の光の中で、弟子

たちのあり様・生き様を示す一つ一つの厳しい戒めや要求を理解する必要があるということです。つまり

弟子たちも群衆も、「幸いなるかな」という祝福を与えられている者なのです。


・イエスの山上の説教を聞いている弟子たちも群衆も、ただひとりで、悪の力がはびこるこの世に放置さ

れている者なのではありません。「幸いなるかな」という祝福を与えられている者は、悪の力がはびこる

この世の秩序の中に生きながら、そこから解放されて、既に新しい秩序の中に入れられているのです。


・今日の5章3節の第一の祝福の言葉は、【心の貧しい人々は、幸いである。/天の国はその人たちのもの

である】です。


・マタイ福音書のイエスの山上の説教は、ルカ福音書6章に「平地の説教」と呼ばれる並行記事があっ

て、そこでは、この第一の祝福の言葉は、【貧しい人々は、幸いである。/神の国はあなたがたのもので

ある】(あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである)】(6:20)となっ

ています。両者には違いが2か所あります。一つはマタイでは「心の貧しい人々」となっていますが、ル

カではただ「貧しい人々」となっているところです。もう一つは、マタイでは「天の国」となっています

が、ルカでは「神の国」となっているところです。後者の「天の国」は「神の国」のマタイ的な言い方

で、内容的には違いはありません。しかし、前者の「心の貧しい人々」と「貧しい人々」は明らかに違っ

ています。ルカの「貧し人々は」文字通り「貧乏な人々」を意味します。そしてイエスが元来語ったのは

ルカ版の方の祝福の言葉ではないかと考えられています。


・船越教会には聖餐式の礼拝式文があります。みなさんも覚えておられるかも知れませんが、その中にこ

のような一節があります。<司会「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱

え、パンを裂いて、弟子達に渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹し

た。」(マルコ6:41)。一同「主イエスは弟子達に『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。』(マル

コ6:37)と言われました。パントぶどう酒はまず飢え渇いている人人々に与えられるべきものです。その

ために私達は貧困と飢えを無くすべく、政治的、社会的改革に目を向けるように主イエスから問われ、依

頼されました。人間の生命を維持するために日々必要とする食物がある人々には欠けている不平等な社会

はイエス神の国にふさわしくありません」>。この礼拝式文の一節は、明らかに貧困や飢えで苦しむ人

があってはならない。「そのために私達は貧困と飢えを無くすべく、政治的、社会的改革に目を向けるよ

うに主イエスから問われ、依頼されました」と語っております。


・以前紹介したことがありますが、田川建三さんは、アフリカのザイールの神学校で教えていた2年間の

経験で、「貧しい者をつかまえて、『幸いなるかな、貧しい者』と宣言してみたとて、何の意味があるの

か。貧困は苦痛なのだ、幸福であるわけはない。しかし、幸いなのは豊かな者だけなのか。そうであって

はならない。この世でもし誰かが祝福されるとすれば、貧困にあえぐ者を除いて誰が祝福されるというの

か。この言葉には、そのようなイエスの思いが・・・・こもっている」といっています。


・船越教会の礼拝式文の一節も、田川建三さんも、イエスが文字通り「貧しい人々(貧乏な人々)」を

「幸いなるかな」と言ったとすれば、逆説と見ています。


・イエスが何故、私たちには逆説としか思えない、このような祝福の言葉を語ることができたのでしょう

か。この社会の現実では、貧しい人が幸福であるなどとは言えないにも拘わらず、「貧しい人々は、幸い

である」(ルカ版)と語ったのでしょか。「なぜなら、神の国は今すでにあなたがた貧しい者のものだか

ら」とイエスは言っているのです。


・このイエスの眼差しは、貧しい人が生きている現実を、ただ単なるこの世の社会的な現実として見てい

るのではありません。このイエスの眼差しから分かることは、その人は気づいていないかも知れません

が、この世の社会的な現実とは別に、貧しい人が立っている、既にあなたがたの下に到来している神の国

の現実があるということです。そして、その神の国の現実は貧しい人々たちのものなのだと、現在のこと

なのだと、イエスは語っているのです。マタイによる福音書の著者は、この「貧しい人々」に語られた祝

福の言葉を、「心の貧しい人々」へのイエスの祝福の言葉として語っているのです。マタイは明らかにル

カのイエスの言葉を精神化しています。「心の」は言語では「霊において」です。「霊において貧しい

人々」とは、ユダヤ教の伝統では、自分や所有に依存するのではなく、ひたすら神に信頼を寄せる人のこ

とを意味します。マタイは、そのようなひたすらに神に信頼を寄せる人々、すなわち弟子たちに対して、

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と言っているのです。


・もちろん、イエスが語っている神の国がすでにこの世に、私たちの現実の只中に到来しているというこ

とは、始まりであって、終わり・完成ではありません。井上良雄さんはこのように述べています。<その

意味では、神の国は、私たちにとってもまだ将来のことである。私たちは ―弟子たちは、イエスにおい

てすでに到来した神の国から出発して、それがやがてすべての者の目に見える現実となる日に向かって進

む途上にある。それを「中間時」と呼び、「終末時」と呼ぶならば、私たちは、また弟子たちは、そのよ

うな中間時を歩み、終末時を歩んでいる。もちろんそのような時間の中を歩んでいるのは私たちだけでな

く、弟子たちだけではない。すべての者が、みずからは知らずしてそのような時間の中を歩んでいる。し

かし私たちキリスト者は、イエスの弟子である者は、自覚を持って、信仰をもって、心貧しい者として、

この時間の中を歩んでいる。(マタイ福音書の)「こころの貧しい人たちは、さいわいである」とは、そ

のような者たちへの主の祝福の言葉である>と。


・私たちは、そのような祝福されている者として、この世の現実のただ中にあって、既に到来している神

の国の現実に立ち、その終わり=完成をめざしつつ、それにふさわしいあり様・生き様をしていきたいと

思います。そういう私たちにとっても、貧しい者の命や生活が脅かされるこの社会のあり様は放置するこ

とはできません。「パントぶどう酒はまず飢え渇いている人々に与えられるべきものです。そのために私

達は貧困と飢えを無くすべく、政治的、社会的改革に目を向けるように主イエスから問われ、依頼されま

した。人間の生命を維持するために日々必要とする食物がある人々には欠けている不平等な社会はイエス

神の国にふさわしく」ないからです。