なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(35)

      「狭い門」、マタイ7:13-20、2019年5月12日(日)船越教会礼拝説教


・しばらく前までこの礼拝ではエレミヤ書による説教をしてきました。覚えておられる方もあるかも知れ

ませんが、そのエレミヤ書の21章8節にこういう言葉がありました。「あなたはこの民に向かって言うが

よい。主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く」と。


・私たちが生きて行くときに、私たちの前には神によって「命の道と死の道」が置かれているというので

す。


・皆さんはどうでしょうか。自分の日々歩いている道がどこに繋がっているのか、命に繋がっているの

か、死につながっているのか、考えたことがあるでしょうか。


・このエレミヤの言葉は、直接的にはエレミヤがエルサレムの住民であるイスラエル人に語ったもので

す。バビロニア軍が攻めてきたとき、降伏する者は生き残り、命だけは助かるが、降伏しない者はエルサ

レムの町と共に滅びてしまうという警告です。


・エレミヤの場合は「命の道と死の道」は大変具体的でした。事実エルサレムの住民であったイスラエル

人の中でバビロニア軍に抵抗してエルサレムに留まった人々は、エルサレムの破壊と共にバビロニア軍に

よって殺されてしまいました。けれども、バビロン軍に投降して、捕囚の民となったイスラエル人たち

は、生き残っていきました。


・力を頼ってバビロン軍と戦った人々は滅び、弱さを認めて、戦わずに敗戦を受け入れて、外国であるバ

ビロンの地で囚われの身として生き延びる道を選んだ人々は、命を繋いでいくことができたのです。


山本義隆は『近代日本150年』という本で、「この200年間の科学技術の進歩と経済成長は、強力な生産

力を生み出した」と言っています。そのことによって絶対的な貧困から私たちが解放されたということに

おいては、強力な生産力を生み出した科学技術の進歩と経済成長は、ある意味でわたしたちにとって「命

の道」だったかもしれません。しかし、「同時に地球を何回も破壊できるだけの軍事力を生み、少数国に

よる地球資源の収奪を加速させ、世界中の富をきわめて少数の人たちの手に集中させることになった」

と、山本は言っています。その意味で、この科学技術の進歩と経済成長のやみくもな追求は、「命の道」

ではなく「死の道」になってしまったのです。だから、「日本は、そして先進国と称されてきた国は、成

長の経済から再配分の経済にむかうべき時代に到達したのだ」。そして「限りある資源とエネルギーを大

切にして持続可能な社会を形成し、税制や社会保障制度をとおして貧富の差をなくして行くことこそが、

現在必要とされている。/かつて東アジアの諸国を侵略し、二度の原爆被害を受け、そして福島の事故を

起こした国の責任として、軍需産業からの撤退と原子力使用からの脱却を宣言し、将来的な核武装の可能

性をはっきりと否定し、経済成長・国際競争にかわる低成長下での民衆の国際連帯を追求し、そのことで

世界に貢献する道を選ぶべきなのだ」と言っているのです。この山本の指摘も、この日本という国が、今

まで歩んできた「死の道」から、「命の道」への転換を図るべきだというのではないでしょうか。


・マタイによる福音書の著者も、エレミヤと同じように、私たちの前に「命の道と死の道」があると言い

ます。命の道は細く、その命に通じる門は狭いと。死の道は広く、滅びに通じる門は広いと。そして命の

道を見い出す者は少ない、と言います(マタイ7:13,14)。


・マタイによる福音書の著者は、5章から7章にかけていわゆる山上の説教と言われます、さまざまな実践

の勧めを語ってきました。私たちはその一つ一つを学んできました。その中には「敵を愛しなさい」とい

うラディカルなイエスの要求もありました。「野の花・空の鳥を見よ(思い悩むな)」という教えもあり

ました。そして前回では「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこ

そが律法と預言者である」(7:12)という黄金律にも触れました。マタイによる福音書の山上の説教の一つ

一つのイエスの教えは、まさに私たちに「かくあれ」と言われている実践の勧め以外の何物でもありませ

ん。


・今日の箇所は、この山上の説教を締めくくるに当たっての総括的な勧告として記されているところで

す。7章13節から7章の終わり29節までは、山上の説教の「締め括りの勧告」(ルツ)になっていると言わ

れています。


・私はここで「門」とか「道」という表現に注目したいと思います。ここに語られていますように、

「門」は「入る」とか「出る」とか言われています。たとえば何かの力によって押し出されるとしても、

「入る、出る」というのは、その人の主体的な行動です。狭い門を入り、細い道を歩くということをイ

メージしていただければ、お分かりだと思います。本田哲郎さんは、信仰ということばを「信じて歩みを

起こす」と訳しています。また、ある人は「信仰とは責任ある主体を作るものだ」と言っています(荒井

献)。


・狭い門から入り、命に至る細い道を歩く。マタイによる福音書の著者は、山上の説教を締め括るに当

たって、このように語っているのです。しかも、「しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いこ

とか。それを見い出す者は少ない」と語っているのであります。


・ボンフェッファーは『主に従う』という山上の説教の講解の中で、「主に従う者の道は細い」と言っ

て、その細い道について縷々語った後に、このように述べています。


・わたしがこの道を、『行け』とわたしに命じられた道と認め、自ら恐れつつ行くかぎり、この道は不可

能な道である。しかし、一歩ごとに、イエス・キリストが先だちたもうことを見、この主のみを見つめ、

一歩一歩従うならば、この道にあってわたしは守られるであろう。わたしのわざの危険さを見、わたしに

先だってこの道を行きたもうかたの代わりにこの道をみつめていては、わたしの足はもう滑っている。彼

ご自身がまさに道であり、主こそは細い道、狭い門でありたもう。見い出すとは、この主のみに当てはま

るのである。これを知るならば、われわれはイエス・キリストの十字架という狭い門、細い道を行って生

命へと至るのであり、まさに道の狭さこそがわれわれに与えられる確かさとなるのである。われわれが二

つの国の市民としてこの世と天の国との境を行かねばならない。地上における御子の道が、どうして広い

道でありえようか。細い道こそ正しい道でなければならない」(下線筆者)。


・私はある時期から高所恐怖症になりました。ですから、とても両側が絶壁となっているような山の尾根

を歩くことはできないと思います。以前名古屋にいた時に、岐阜の金華山という観光客が誰でも行けるそ

んなに高くない山ですが、家族と行ったときに、高所恐怖症でほとんど歩けなくなったことがありまし

た。それまでは、自分が高所恐怖症だとは感じていませんでしたが、それ以来ダメです。黒部ダムに行っ

たときも、足がすくんでしまいました。両側が絶壁の尾根のような細い道を歩く時は、自分の足元を見て

いたのではダメなのでしょう。目標をしっかり見つめて一歩一歩歩いていくと、その細い道を歩くことが

出来るのではないでしょうか。山歩きをしている人に聞いて見てください。多分そうだと思います。


・山の細い尾根を歩くのは遠慮しますが、マタイによる福音書が語る狭い門を入り、細い命に至るイエス

さまの道は歩いていきたいと願っています。


・さて、マタイは15節から20節で、「偽預言者を警戒しなさい」とも語っています。先ほどボンフェッ

ファーの言葉を引用しましたが、その中に、「われわれが二つの国の市民としてこの世と天の国との境を

行かねばならない」と言われていました。これはイエスを主と信じる信仰共同体である教会がこの世にお

いて歩むべき道を示しています。ここで、キリスト者はこの世と天の国の二つの国の市民であると言われ

ています。ということは、その境界を生きるキリスト者にとって、偽預言者の存在は大きな誘惑です。高

価な恵みを安価な恵みに変えてしまうからです。キリスト者が味を失った塩になってしまうことは常にあ

りえます。


・洗礼を受けたからということで、神の命が保証されるわけではありません。洗礼はイエスに従うという

私たちの信仰的な応答であって、洗礼そのものに神の命があるわけではありません。神の命はイエスにあ

るのです。ですから、イエスを脇に置いて、いつの間にか集まっている人間の思いが教会という信仰共同

体の中でも勝るということが起こり得るのです。特にキリスト者の姿をしてその中身はこの世そのものだ

ということは私たち自身においてもありえるのです。マタイがいうところの「偽預言者」です。


・そういう人の影響力によって教会がサロン化してし、この世の国の中に解消してしまうという誘惑が常

にあります。それを避けて、キリスト者キリスト者として、教会が教会として世の光、地の塩としての

主体性を失わずに生き続けるには、「狭い門から入り、命に至る細い道」「自由を得させる真理に留まり

続けていく」以外にはありません。


・マタイは、山上の説教を文字通り、イエスを見つめて実践していくことが、私たちの信仰ではないかと

語っているのです。


・ヘンリー・ナウエンは、このように語っています。「ナザレのイエスという無力な者となって、神はわ

たしたちに現れ、力という幻想を取り除き、この世を支配している闇の支配者の武装を解除し、分裂した

人類に新しい一致をもたらしました。まったくの徹底的な無力さによって、神はわたしたちに天来の慈し

みを示されたのです。/この思い切った神の選択は、完全に力を脱ぎ捨てることにより、また脱ぎ捨てる

ことの中に、神の栄光、美しさ、真理、平和、喜び、とりわけ愛そのものを示すという選択でした。わた

したちにとって、この聖なる神秘を理解することは不可能とは言えないにしても、きわめてむずかしいこ

とです。/わたしたちはいつも、『全知全能にして力強い神』に祈りを捧げます。しかし、わたしたちに

神を現された方、すなわち、『わたしを見た者は、神を見たのである』と言われた方の中に、あらゆる点

で全能や力強さを見ることはできません。/もしわたしたちが本当に神を愛したいなら、その生涯が弱さ

で覆われているナザレ人、イエスに目を注ぐべきです。その弱さは、神の心へとわたしたちを導きます」

(『わが家への道』26頁)。


・イエスがそうであったように、わたしたちが「貧しい人々に目を注ぎつつ、わたしたちに必要なものを

神が与えてくださるという信頼の心を持ち、思いがけない喜びにいつも気づくならば、わたしたちはまこ

との力を体験し、神の奇跡を見ながらこの暗闇の谷を歩き通すことができます。神の力はわたしたちのも

のとなり、どこに行こうと、どんな人に出会おうと、わたしたちの内から流れ出るからです」(同上42-

44頁)。


・わたしたちは、状況の厳しさ、困難さに目を奪われがちですが、おそらくどの時代、どの場所であって

も、そこに生きるキリスト者には、常に状況の厳しさ、困難さが付きまとうのではないでしょうか。その

ような中で、敢えて滅びに至る広い門ではなく、命に至る狭い門から入ることを、私たちは主体的に選び

たいと思います。何故ならイエスがその道を既に選び取って歩んでおわれるからです。そのイエスの背中

をしっかり見ながら、この世の恐れから解放されて、イエスが幸いだと言われた、貧しい人々、悲しむ

人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐み深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために

迫害される人々との交わりの中で、共に神の与えたもう不思議喜びを味わいたいと思います。