「泣く声が聞こえる」エレミヤ書31:15-20、2018年1月7日船越教会礼拝説教
・今日は2018年の最初の日曜日です。12月の私が担当しました4回の日曜日は待降節と降誕節の聖書日課
の中から選んだ聖書箇所によって説教をしましたが、今日からまた、エレミヤ書の続きに戻りたいと思い
ます。第2日曜日の礼拝説教はマタイ福音書で行います。
・今までのエレミヤ書による説教からも分かりますように、預言者エレミヤが直面した同胞イスラエルの
民の状況は、大変厳しいものでありました。先ほど司会者に読んでいただいたエレミヤの預言は、初期の
もので、南北に分裂していた一方の北イスラエルの国が、紀元前722年にアッシリヤによって滅ぼされ、
主だった人々が捕囚の状態にあった時のものだと言われています。
・15節に<ラマで声が聞こえる。/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。/ラケルが息子たちのゆえに泣いてい
る。>とあります。ラケルはイスラエルの民の父祖ヤコブが愛した妻です(創29:30)。ラケルは、創世
記のヨセフ物語の主人公である、兄弟たちによってエジプトに売られたヨセフとヨセフの弟のベニヤミン
の母です。そしてヨセフの子らがマナセとエフライムです。エフライムは、18節、19節に記されています
エフライムの嘆きの当人です。ですからラケルは、捕囚の民北イスラエルを意味するエフライムの祖母に
なります。
・このエレミヤ書のラケルの嘆きの箇所は、マタイによる福音書のイエス誕生物語のヘロデの幼児虐殺の
記事の中にも出てきます。2章16以下です。そのところを読んで見たいと思います。<さて、ヘロデは占
星術の学者たち(イエスを礼拝に来て、黄金、乳香、没薬を捧げた東方の博士たちです)にだまされたと
知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとそ
の一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われてい
たことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰
めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」>(マタイ2:16-18)。
・このマタイ福音書の箇所では、ラケルの嘆きを記すエレミヤの預言が、ヘロデの幼児虐殺という酷い出
来事によって実現したと言われているのです。ヘロデによって虐殺された幼子の母親たちの嘆き悲しみと
ラケルの嘆き悲しみが同じものとして見られているのです。エレミヤ書の箇所では、<彼女は慰めを拒む
/息子たちがもういないのだから>と言われています。アッシリヤによって連れて行かれてしまった捕囚
の民イスラエルのことを、自分の息子がいなくなった母親の嘆き悲しみとして、ラケルの嘆き悲しみは<
慰めを拒む>ほど、深いものとして描かれているのです。
・預言者エレミヤは北イスラエルのアッシリヤによる滅亡とイスラエルの民の捕囚という出来事を、その
ようなラケルの嘆きに値するものとして受け止めたのです。例えばシリヤの内戦によって子供を殺された
母親のことを想像すれば、エレミヤが直面していた現実が少しは分かるのではないでしょうか。シリヤの
内戦で子供を失い、難民キャンプに命からがらたどり着いた母親の悲しみは、それこそ<慰めを拒む>ほ
どに、深く大きいのではないでしょうか。この母親の嘆き悲しみの涙には、心底から自分の子供を殺した
ものへの怒りが込められていると思われます。同時に、内戦状態の中で子供の命を守ることが出来なかっ
た自らの無力さにも打ちのめされているのではないでしょうか。ヘロデ王によって幼い子供を虐殺された
母親も、シリヤの内戦で子供を殺された母親と同じだったでしょう。
・もしそのような状況に私たちが置かれたならば、子供を殺された母親にどんな言葉をかけることができ
るでしょうか。おそらくかける言葉を見いだすことができないのではないでしょうか。
・ラケルの嘆き悲しみ、その泣く声を、エレミヤも聞いたのです。しかし、エレミヤはそこで沈黙したま
まではいませんでした。彼はラケルの嘆き悲しみ、泣き声に応える神の言葉を聞いたのです。<主はこう
言われる。/泣きやむがよい。/目から涙をぬぐいなさい。/あなたの苦しみは報いられる、と主は言わ
れる。/息子たちは敵の国から帰って来る。/あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たち
は自分の国に帰って来る>(16節、17節)と。ここには、「苦しみは報いられる」「あなたの未来には希
望がある」そして「息子たちは敵の国から帰ってくる」と言われているのです。
・この神の言葉を聞いたエレミヤは、ラケルの嘆き悲しみに胸を打たれつつも、ただ沈黙してラケルの傍
らに佇んでだけではいませんでした。嘆き悲しみ、泣き叫ぶラケルに向かって語り掛ける神の言葉を聞い
て、それを語ったのです。
・私はこのエレミヤの預言を思いめぐらしながら、イエスの母マリヤのことを想い起さざるを得ませんで
した。マリヤは夫ヨセフと婚約中にイエスを身ごもりました。その時も周りの人々からは不倫の子を身ご
もったという非難を受けながら、イエスを産んだと思われます。イエスの公生涯の時には、イエスが理解
できずに、他の子ども達と一緒になってイエスを家に連れかえろうとしたほどに、マリヤは戸惑っていた
と思われます。そのイエスが十字架に架けられて殺されてしまいました。マリヤの嘆き悲しみの深さを思
わずにはおれません。しかし、イエスの死後、弟子たちを中心にして教会が誕生すると、エルサレム教会
ではある時期から弟ヤコブが中心的な指導者になっていきますが、おそらくマリヤも何らかの形で最初期
の教会に関わっていたのではないかと思います。自分の息子イエスがローマ帝国の政治犯の処刑である十
字架刑によって殺されたことで、嘆き悲しみ、泣き続けて、絶望に捕らえられてその後の生涯を過ごした
というのではないと思います。マリヤも、何らかの形でその絶望から立ち上がって生きていったに違いあ
りません。カトリックの聖母マリヤは、カトリックの創作だと思いますが、歴史的な人物としてのマリヤ
にも、神の言葉を信じて、絶望から立ち上がった信仰の人という側面があったのではないかと思います。
不条理に思われる息子イエスの殺害という現実に直面して、その現実に打ちひしがれたまま、泣きながら
生きていくのではなく、その嘆き悲しみから立ち上がって、その不条理な現実に抗って、希望をもって生
きていくようになっていくマリヤを想像できるとするならば、です。私はそのようなマリヤを想像できる
ように思います。そこに信仰の人マリヤを見ることができるんではないでしょうか。
・エレミヤもただ神の言葉としての預言をラケルに、エフライムに取り次いだだけではないと思います。
エレミヤも自分が語ったその預言によって、北イスラエルのアッシリヤによる滅亡と捕囚と、その後の南
ユダのバビロンによる滅亡と捕囚の時代を、未来に向かって希望をもって生きたのではないでしょうか。
・18節以下のエフライムの嘆きに対する神の言葉は、放蕩息子の物語を彷彿とさせるものです。捕囚の民
をあらわすエフライムは、その捕囚を、自らの神への背きに対する神の懲らしめと受け止めて、<どうか
わたしを立ち帰らせてください。/わたしは立ち帰ります。/あなたは主、わたしの神です>と訴えま
す。それに対する神の答が20節です。<エフライムはわたしのかけがえのない息子、/喜びを与えてくれ
る子ではないか。/彼を退けるたびに/わたしは更に、彼を深く心に留める。/彼のゆえに、胸は高鳴り
/わたしは彼を憐れまずにはいられないと/主は言われる>。何という神の言葉でしょうか。
・31章3節に、<わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ>とあり
ましたが、私たちがどのような態度でいようとも、神は<とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わるこ
となく慈しみを注ぐ>と言うのです。もしこの言葉を私たちが受け止めることができるとすれば、あなた
は<わたしのかけがえのない息子、/喜びを与えてくれる子ではないか>と語りかける神の前に、不条理
な現実の厳しさの中で、この神の言葉に耳を傾けない人々も多くいたとしても、そのような一人一人にも
この神の言葉が与えられていることを信じて、神に向かって生きていくことが許されているのではないで
しょうか。
・この神の言葉を聞いて、不条理な現実の社会の中で神の前に生きるということは、今日の通信に書きま
した、ある種の共生感を与えてくれる「想像の共同体」としての教会共同体や神の国を作り上げて、そこ
に逃げ込むことではありません。死んだら天国にいけるのだから、不条理な現実に抗うのではなく、経済
的にある程度恵まれた自分の特権的な立場に無自覚に安住して、クリスチャンライフを楽しんで生きると
いうことでもありません。ヘロデによる幼児虐殺によって嘆き悲しむ母親の存在を無視することなく、沖
縄や福島の人々を無視することなく、また、自殺願望を持つ人が殺されてしまう現実を無視することな
く、神の言葉を聞いて、そのような現実を造り出す悪の力も、ベルリンの壁が崩壊するように崩壊する時
があるのだと信じて、神の前に、神の永遠の愛によって生かされている一人一人の尊厳を大切に、2018年
も歩んでいきたいと切に願います。