なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(79)

    「解放」エレミヤ書31:7-14、2017年11月26日(日)船越教会礼拝説教

・今日の船越通信にも書いておきましたが、先日戦責告白50年集会で講演をしてくださった一色哲さんに

よりますと、キリスト教徒の人口比は、ホンドでは1%弱ですが、沖縄島では3%くらいだそうです。一色さ

んは、それは「求める人がいるからだ」とおっしゃいました。講演後私はこの言葉の意味について思いめ

ぐらしました。

・米ワシントンに本拠を置く「ピュー・リサーチ・センター」が出した報告書によりますと、<2010

年の世界総人口69億人の中で、キリスト教信者は21億8000万人と32%を占める>と言われます。

また、<キリスト教は「世界的な宗教」とされるものの、欧米など伝統的なキリスト教世界が不振なのに、

発展途上国では信徒数が急増しており、キリスト教の中心と呼べる大陸や地域はなくなった>と言われて

います。<サハラ砂漠以南のアフリカでは1910年の9%から今では63%にまで増加している。ナイ

ジェリアのキリスト者は8000万人で、宗教改革の始まったドイツよりプロテスタントが多い状況。/

「歴史的な宣教活動とアフリカ住民による固有のキリスト教運動の結果、サハラ砂漠以南では1910年

の10人に1人から、今日では10人の内6人がキリスト者だ」と(この報告書の)ハッケット主任。ヨ

ーロッパを見ると94%がキリスト者だった1910年より、宗教的には多様化が進んでいる。それでも

今日なお住民の76%がキリスト者を自認している。/「キリスト者だという人の率はもっと小さいとい

う印象を持つ人が多いだろう」と同氏は言う。/報告書は、中国のキリスト者の数も推定していますが、

それによりますと、中国の人口の5%、6700万人と>と言われています(クリスチャン・トゥデイ、

インターネット)。

・この報告からも分かりますように、アフリカでも中国でも「求める人が多い」ということではないでし

ょうか。日本ではホンドよりも沖縄島の方が求める人が多いということです。求める人とは、現状に満足

するのではなく、むしろ現状を何とか変えたいと思っている人のことではないでしょうか。そういう人が

多いということは、その人たちが住んでいる現状には矛盾や不条理が多いということでもあります。また、

その矛盾や不条理によって死んでいったり、殺されていったりする人が多いということでもあります。

キリスト教の歴史を振り返ってみますと、紀元後2-3世にキリスト教は爆発的にローマの支配するヘレ

ニズムの世界に広がったと言われます。その時期はキリスト教の受難の時期で、弾圧による殉教者も多く

出ました。一色哲さんも仰っていましたが、九州長崎や五島列島のような弾圧が厳しかったところでは、

キリスト教信者が少なくなったかと言えば、むしろ反対に、弾圧をされればされるほど、キリスト教信者

は少なるどころか、多くなったというのです。まさにローマ帝国の弾圧下にあった紀元後2-3世紀のキリ

スト教も、人々の中に爆発的に広がったのです(ハルナック)。そしてその中心は、ローマ社会での奴隷

階層の人々だったと思われます。彼ら・彼女らは、弾圧、抑圧が厳しく、矛盾と不条理に満ちたローマ帝

国の社会の中で苦しみ、悶え、叫びながら救済と解放を切実に求めた人々ではなかったでしょうか。

・実は、エレミヤの預言が向けて語られたバビロンの捕囚の民、イスラエルの人々も同じように求めている

人々だったに違いありません。ただ彼ら・彼女らは神に選ばれた自分たちが、何故異邦の地バビロンでの捕

囚生活をしなければならないのかという疑問にぶつかり、その信仰が揺らぎかけたこともあったようです。

けれども、バビロンの寛容な宗教政策もあり、神殿を失った彼ら・彼女らは会堂(シナゴーグ)による安息

日礼拝と律法の遵守によって、何とかその信仰を守り抜いていったのです。捕囚の民はどんなにかバビロン

からの救い、解放を求めたことでしょうか。これはアッシリアに滅ぼされ、捕囚となった北イスラエルの場

合も全く同じだったと思われます。

・今日のエレミヤの預言は、救いと解放を真剣に求めている捕囚の民に向かって語られた預言です。エレミ

ヤは、「主はこう言われる」と言って、8節9節にこのように語っています。<見よ、わたしは彼らを北の国

から連れ戻し/地の果てから呼び集める。/その中には目の見えない人も、歩けない人も/身ごもっている

女も、臨月の女も共にいる。/彼らは大いなる会衆となって帰って来る。/彼らは泣きながら帰って来る。

/わたしは彼らを慰めながら導き/流れに沿って行かせる。/彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことは

ない。/わたしはイスラエルの父となり/エフライムはわたしの長子となる>。

・ここには、神が捕囚の地から連れ戻すと言われるイスラエルの民の中に、<目の見えない人も、歩けない

人も/身ごもっている女も、臨月の女も共にいる>と言われているのです。捕囚の地から連れ戻されるのは、

健康で強健な体の人だけではありません。<目の見えない人も、歩けない人も/身ごもっている女も、臨月

の女も共に>連れ戻されると言われているのです。

・日本の敗戦によって満州開拓民は日本に引き揚げてきますが、日本の軍隊は彼ら・彼女らを守って最後に

撤退したのではなく、まず最初に日本の軍隊が撤退し、開拓民は取り残されたと言われます。名古屋時代に

その引揚者の一人の方からお話を聞きましたが。それはそれは悲惨な状況であったようです。その方は涙な

がらに、死んだ赤ちゃんを抱いている母親を見棄てて行かなければならなかった引揚者の状況を語っていた

のを忘れることは出来ません。

・エレミヤの預言では、連れ戻される捕囚の民の中には、<目の見えない人も、歩けない人も/身ごもって

いる女も、臨月の女も共にいる>というのです。このような神の徹底した救済の預言を語ったエレミヤは、

この預言を何の根拠なく、出まかせに語ったのではありません。エレミヤは、かつてイスラエルの民の先

祖が奴隷の地エジプトから神によって解放された出エジプトの出来事を知っていました。歴史を導く神の

み業への信頼を、預言者エレミヤは持っていたのです。10節以下にはこのように語られています。

・<諸国の民よ、主の言葉を聞け。/遠くの島々に告げ知らせて言え/「イスラエルを散らした方は彼を集

め/羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」/主はヤコブを解き放ち/彼らは喜び歌いながらシオンの

丘に来て/主の恵みに向かって流れをなしてくる。/・・・・・そのとき、おとめはよろこび祝って踊り/

若者も老人も共に踊る。/わたしは彼らの嘆きを喜びに変え/彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる>

(10-13節)。

・主なる神は、捕囚の民の嘆きや悲しみという桎梏から彼ら・彼女らを解き放ち、喜びに変えて下さるとい

うのです。バビロン捕囚から約半世紀後に、バビロンからペルシャに覇権が移行することによって、ペルシャ

の王クロスから解放令が出て、捕囚の民はエルサレム帰還が許され、一部の捕囚民はエルサレッムに帰って、

新たな出発をしていきます。そしてユダヤ教団として、エルサレムに帰還したイスラエル人は国家という形

態をとらずに、この歴史を生き抜いていくことになります。エレミヤの救済預言は捕囚の民のエルサレム

還によって、ある意味で実現したと言えるでしょう。

・けれども、嘆きと悲しみが喜びに変えられるべき、救済と解放を求める人は、バビロン捕囚民のエルサレ

ム帰還以降現在まで、世界のあちこちに存在し続けています。今もそうです。今生存している人々だけでは

なく、嘆きと悲しみを喜びに変えられることを願って、たくさんの死者たちも叫んでいるのではないでしょ

うか。エレミヤの救済と解放の預言の言葉は、捕囚の民であるイスラエル人だけではなく、バビロン捕囚の

状況を共有するすべての人々に向けられています。その救済と解放のために、イエスは生涯を捧げました。

・関西には1960年代から関西労働者伝道委員会の活動が続いています。具体的には神奈川教区の寿地区セン

ターのように寄せ場である釜ヶ崎での活動を支える委員会です。この関西労働者伝道委員会を「関西労伝」

と略称で言いますが、この関西労伝が最近『イエスが渡すあなたへのバトン』という表題の60年史を出し

ました。その中に、神学生時代関西労伝のインターンとして釜ヶ崎に関わり、その後九州の筑豊で伝道さ

れて、数年前に隠退された犬養光博さんが投稿した文章が載っています。犬養博光さんはその文章の最後

に、「『関西労伝』の存在意味は、消される側に立ち続けて、国や資本に抵抗し続けることにあると、ま

すます思う」と書いています。この文章の「関西労伝」を「教会」に置き換えてみますと、「教会』の存

在意味は、消される側に立ち続けて、国や資本に抵抗し続けることにあると、ますます思う」となります。

・イエスは、「飢えている人」「喉が渇いている人」「旅をしている人」「裸の人」「病気の人」「獄中

の人」を指して「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなの

である」(マタイ25:40)と語ったと言われています。「飢えている人」「喉が渇いている人」「旅をし

ている人」「裸の人」「病気の人」「獄中の人」とは、犬養光博さんが言うところの「消される側」の人

と言ってよいでしょう。イエスは当時のユダヤ社会の中で権力やユダヤ教の律法主義によって消される側

の人々の立場に立って、その消す力に抗って、十字架の人となったのです。

・救済と解放を求める人がいること。そのような人を救済し解放する神の御業の確かさへの希望によって、

エスは消される側に立ち続けて、彼ら・彼女らを消そうとする力に抗ったのです。それが「イエスから

のあなたへのバトン」ではないかと、関西労伝の方々は言いたいのだと思います。

・イエスから私たちに渡されているバトンをしっかり引き継いで、私たちも歩んで行きたいと思います。