船越通信癸械苅亜 。横娃隠掲11月26日 北村慈郎
・今日(11月26日)は教会歴では終末主日です。来週12月3日の日曜日からアドベントに入り、教会歴で
は新しい一年が始まります。この時に当たって、私は一つのインスピレーションを与えられました。長い
間疑問にも思い、アポリア(一般に解決できぬ難問)でもありました、キリスト教を含めた宗教の問題に
ついて、自分なりに一つの答が見出されたように思っています。そのヒントになったのが、先日11月23日
に紅葉坂教会で行われた戦責告白50年の集会で講師の一色哲さんのおっしゃっていた一言です。それは
「ホンド(沖縄に対する大和を辺見庸は本土や「本土」という表記でもなくホンドと記しています)のキ
リスト教を信じる人が、今は全人口の1%も切っていますが、先島諸島・沖縄島や奄美群島では現在でも3%
を越えている。そのことは信仰を求めている人がそれだけいるからだ」という言葉です。これはホンドよ
り、先島諸島・沖縄島や奄美群島での生活が苦しいということと、古くからの伝統が近代化され都市化さ
れた地域よりも、今も濃厚に残っていることを示しているものと思われます。この「求めている人がい
る」という事実の重要さです。反面現在の日本基督教団の教会の宣教は、そのような信仰を求めている人
に答え得ているのかという問題です。良い悪いという評価を超えて、調べているわけではありませんが、
旧植民地地域が現在キリスト教を信じる人が増えていて、将来的にはアフリカのキリスト教が世界のキリ
スト教をリードする時代が来るのではということも、正確な情報ではありませんが、耳に挟んだ記憶があ
ります。「信仰を求めている人がいる」ということからしますと、日本基督教団を含めて日本の教会の信
徒は、どれだけ先島諸島・沖縄島や奄美群島で信仰を求めている人と言われる方々と同じなのでしょか。
・「信仰を求めている人」とは、極端に言えば「信じなければ生きていけない人」と言ってよいでしょ
う。生きることと信じることが密接不可分な人のことだと思われます。その点日本基督教団に限って言え
ば、私たち信仰者の信仰は、生きることと切り離し得ないほどに信じることが密接不可分でしょうか。も
しかしたら、私たちの信仰は、あってもなくてもいい程度にアクセサリー化してはいないでしょうか。私
は説教者として信仰と生活が密接不可分な信仰を求める人に応え得る説教をどれだけ語ってきたのだろう
かと、今から振り返ってみると、反省しなけならない点もあるように思っています。/聖書によれば、キ
リスト教信仰の起源はイエスの出来事にありますが、その前史には出エジプトの出来事があります。ルカ
版のイエスの「幸いなるかな」の教えは、「貧しい人々」「今飢えている人々」「今泣いている人々」が
幸いであり、「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる
とき、あなたがたは」が幸いであると言われています。反対に「喜んでいるあなたがた」「今満腹してい
る人々」「今笑っている人々」は不幸であると言われています。このイエスの「幸いなるかな」の教えか
らしても、「信仰を求めている人」とは前者ではないでしょうか。勿論前者の人間と後者の人間を単純に
二分化はできませんが、後者の立場の人が、信仰を求めるという場合には、前者の人々を幸いであると語
られたイエスに従って、前者の人間を幸いであると言い、後者の人間を不幸であると語られたイエスの福
音宣教の働きに与かっていくことになるのではないでしょうか。いずれにしろイエスの福音は、苦しむ
人、悲しむ人、泣く人に対して語られていることを見失ってはならないと思います。この社会の中に苦し
む人、悲しむ人、泣く人は本当に沢山おられます。そのような人々に語られているイエスの福音を、弟子
集団化している教会が自分たちの者として収奪してはいなかどうか、沖縄教区を切り捨てて成り立ってい
る現在の日本基督教団に属する私たちは、よくよく考えなければなりません。米国と日本政府による沖縄
の植民地化を許している私たちホンドの人間は、沖縄の人びとが被植民者であるとすれば、植民者です。
このホンドの人間である私たちの政治的な立ち位置、自分の立場性(ポジショナリティー)に無自覚で
あってはならないと思います。(アイデンティティーは、くだいて言うと、自分が自信をもっているこ
と、自分自身のよりどころ、のようなことです。ポジショナリティーは立場性です)。ホンドの人間が植
民者であるということに対して、ホンドの人間の誰を言うのか。全てなのか。北海道の人間も、東北の人
間も、路上生活者もか、という問いはあります。ここでは日本基督教団における「合同のとらえなおしと
実質化」の問題を踏まえて、私たち日本基督教団に属する者たちという限定で言っておきます。
・と言うことで、一色哲さんの講演を聞いて、「信仰を求めている人」は格差社会が拡大しているホンド
にも潜在的に沢山いるのではないかと思いますので、そのような人の求めに応え得る福音宣教について、
これからの残された時間を今まで以上に真剣に探究していかなければならないと思った次第です。
・先週は大変忙しく、また中身の深い一週間を過ごしました。上記の一色哲さんの講演は11月23日(木・
祝)10:30-16:00紅葉坂教会で行われました「第二次大戦下のおける日本基督教団の責任についての告
白」50年を覚える記念集会でのものです。この集会では午前中に記念礼拝があり説教者は関田寛雄先生で
した。午前中雨で参加者が少ないのではと実行委員の一人として心配しましたが、約110人の参加者があ
り、午前の礼拝もお昼の交流会も午後の講演も恵まれた集会になりました。
・11月19日(日)は礼拝後すぐに連れ合いと船越教会を出て、新横浜から岩国に行き、午後7時から
岩国教会で開催せれる「沖縄から米軍基地撤去を求め、教団『合同のとらえなおし』をすすめる連絡会」
2017年度全国集会に参加しました。私は岩井健作さんの後を継いでこの会の共同世話人代表をしています
ので、会の初めの挨拶をすることになっていましたので、どうしても集会に間に合うようにいかなければ
ならなかったのです。岩国米軍基地の反対運動を長年続けています岩国教会の大川清牧師の発題と、20日
(月)午前は岩国基地見学をし、午後に全体協議をして午後3時に終了しました。21日(火)は急遽名古
屋時代の信徒の方の葬儀に名古屋に日帰りで出かけました。この方は私が紅葉坂教会に転任してから紅葉
坂の礼拝に三重の津から何度も来てくださっていた方です。