なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(66)

  「思い直させる」エレミヤ書26:12-19、2017年5月28日(日)船越教会礼拝説教

・私はこの4月から、また、寿地区センターを支える神奈川教区の寿地区活動委員会の委員長になりまし

た。実は寿地区活動委員会の委員長には2002年の4月からなって、2015年3月までずっとしていました。

しかし、2年前に神奈川教区で各委員会の委員長は3期連続してしてはならないという決まりが出来まし

たので、2015年4月から一期2年間寿地区活動委員会の委員の一人である、横浜大岡教会の信徒で、明

治学院大学の教授を定年退職されたHさんが委員長をしてくださいました。Hさんもお年ですので、一期で

辞めるということで、また私が委員長に返り咲いたわけです。この4月から2期委員長を務めますと、私も

80歳近くになりますので、これが最後のお勤めと思って、お引き受けしました。

・そこで委員長としての抱負を今度出すセンターのニュースに書いて欲しいと頼まれて、その原稿を書い

て送りました。実はその原稿には、船越教会で聖餐式の時に使う礼拝式文の中の一部分引用しました。以

下の部分です。

・《司会:「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子

達に渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。」(マルコ6:41)/主イ

エスは弟子達に「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(マルコ6:37)と言われました。パンとぶど

う酒はまず飢え渇いている人々にこそ与えられるべきものです。そのために私達は貧困と飢えを無くすべ

く、政治的、社会的改革に目を向けるように主イエスから問われ、依頼されました。人間の生命を維持す

るために日々必要とする食物がある人々には欠けている不平等な社会はイエス神の国にふさわしくあり

ません。

 一同:主イエスの招きにあずかることによって私達は「万人の命が尊ばれる社会、生命(せいめい)の

維持を保障される社会」の形成に向かっていきたいと願うものです。どうか主よ、この私達の祈りと願い

に祝福と導きを与えてください》。

・そしてこのように書きました。「私は年に数回この船越教会の聖餐式に与かっている者として、神奈川

教区が設置している寿地区センターの日雇い労働者や野宿者支援の活動に参加し、この活動を支えていき

たいと思っています。また、神の国には軍隊は必要ないと思っていますので、世界の軍事費総額1兆6866

億米ドル(2016年度、ストックホルム国際平和研究所世界レポートによる)が世界の貧困をなくし、地雷や

核兵器化学兵器の撤去のために使われることを希望する者として、安倍政権の戦争のできる国造りには

反対で、この十数年は沖縄辺野古の新基地建設反対の運動に参加しています。/私にとっては日雇い労働

者・野宿者支援と戦争のない平和な社会造りとは、コインの裏表のように一体となっているのです。本年

4月から、また寿地区活動委員会の委員長をお引き受けしました。貧困からの解放と戦争のない平和な社

会の建設に皆さんと一緒に励んでいきたいと願います」と。

・この私の思いは、どこからでているかと言えば、イエスを通して語られている神の思い、神のみ心、神

の言葉と言ってよいと思います。船越教会の礼拝式文に、先ほど紹介しましたように、「人間の生命を維

持するために日々必要とする食物がある人々には欠けている不平等な社会はイエス神の国にふさわしく

ありません」ありますが、私もその通りだと思います。だからどんな人でもその人の命や生活が脅かされ

ることない社会をつくっていくことが、神から私たちに与えられている務めだと思っています。また、世

界の国々の軍事費を貧困で苦しんでいる何億もの人々のために、また、地雷や核兵器化学兵器という恐

ろしい武器をこの地球上からなくすために用いることこそ、神のみ心にふさわしいことではないかと、私

は思っています。

・けれども、そういう私たちが信じています神のみ心を言葉に出して語ったり、実際にその神のみ心にふ

さわしく私たちが生きて行こうとすると、様々な抵抗にぶつかるのも事実ではないでしょうか。そのよう

な抵抗を避けるために、語るべきことも語らず、為すべきこともなさず、神のみ心とは明らかに反するこ

の時代や社会の流れに流されていくことを選んでしまうのも、私たちがよく犯してしまう過ちではないか

と思います。

・そのようなことを考えますと、私たちに必要なのは、信仰の勇気ではないかと思うのです。私たちが抵

抗を恐れて、この時代や社会に流されていくとすれば、神のみ心はこの世の中のどこにも見出せません。

神のみ心は、人によって語られ、生きられることによって、私たちの中で露わとなるからです。

・今日のエレミヤ書の箇所は、神殿が崩壊し、エルサレムの町が廃墟となるということを、主の名によっ

て預言したエレミヤが、ユダの高官たちの前で裁判を受けているところです。エレミヤがそのような預言

をしたのは、エレミヤの時代のユダヤの人々が、王をはじめとして民の中にも神のみ心に背いて、道を踏

み誤っている人々がほとんどだったからです。ここでエレミヤを訴えているのは祭司や預言者たちです。

彼らは、このような預言をしたことをエレミヤの罪であるとして、エレミヤが死に当たると訴えているの

です。エレミヤにとって、祭司や預言者たちは抵抗勢力でした。

・11節:《祭司と預言者たちは、高官たちと民のすべての者に向かって言った。「この人の罪は死に当た

ります。彼は、あなたがた自身が聞かれたように、この都に敵対する預言をしました」。」》と。「この

人の罪は死に当たります」とか、「彼は、あなたがた自身が聞かれたように、この都に敵対する預言をし

ました」というのは、社会的にエレミヤを葬ろうとする、ある種の恫喝、脅しです。

・この祭司、預言者たちの恫喝、脅しに対して、エレミヤは沈黙しませんでした。12節から15節までが

エレミヤの弁明です。このところで注目したいのは、最初と最後にこのように言われていることです。

《主がわたしを遣わされ、お前たちが聞いたすべての言葉をこの神殿とこの都に対して預言させられたの

です》(12節)。《確かに、主がわたしを遣わし、これらのすべての言葉をお前たちの耳に告げさせられ

たのだから》(15節)。エレミヤは神の代理人のような存在として自分自身を受け入れていたのかも知れ

ません。自分を通して神が語る。神がエレミヤに神の言葉を語るように強いたというのです。それを強い

られた恩寵としてエレミヤは受け止めたのでしょう。そしてエレミヤはこのように語ったのです。

・《今こそ、お前たちは自分の道と行いを正し、お前たちの神、主の声に聞き従わねばならない。主はこ

のように告げられた災いを思い直されるかもしれない。わたしはお前たちの手中にある。お前たちの目に

正しく、善いと思われることをするがよい。ただ、よく覚えておくがよい、私を殺せば、お前たち自身

と、この都とその住民の上に、無実の者の血を流した罪を招くことを》(13-15節a)。

・エレミヤは、自分を裁くために王の宮殿から神殿に上って来て、裁きの座についていたユダの高官たち

と、「この人の罪は死に当たります」と自分を告発する祭司や預言者たち、そしてその時神殿に来ていた

民のすべての人々の前で、このように正々堂々と弁明したのです。すると、《高官たちと民のすべての者

は、祭司と預言者たちに向かって言った。《「この人には死に当たる罪はない。彼は我々の神、主の名に

よって語ったのだ。」》(16節)と言って、祭司や預言者たちの訴えを退けたというのです。更にそこにい

た長老たちが数人立ち上がって、《民の全会衆に向かって》、100年前の時代の預言者ミカもエレミヤと

同じように預言したが、《「・・・/ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺したであろう

か。主を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか。我々は自

分の上に大きな災いをもたらそうとしている。》と語って、エレミヤを弁護したというのです。

ルカによる福音書にイエスの語った言葉として、このような言葉があります。《会堂や役人、権力者の

ところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言

うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる》(12:11,12)。エレミヤも裁きの座で聖霊の導き、すな

わち神の助けを得て、語るべきことを語ったのだと思います。・ そしてこの時には、エレミヤの言

葉によって、人々は神に立ち返り、災いをくだそうとした神を思い直させたというのです。こういうこと

が起こり得るということに、私たちは注目したいと思います。エレミヤが裁きの座に立たされた時に、弁

明しないで沈黙してしまったとすれば、このような人々の神への立ち帰りも、主が彼らに告げた災いを思

い直されることもなかったでしょう。このような出来事が起こったのは、エレミヤの弁明があったからな

のです。

・《わたしはお前たちの手中にある。お前たちの目に正しく、善いと思われることをするがよい。ただ、

よく覚えておくがよい、私を殺せば、お前たち自身と、この都とその住民の上に、無実の者の血を流した

罪を招くことを》というエレミヤの言葉からしますと、エレミヤは自分の命をかけて弁明をしていること

が分かります。勇気あるエレミヤの言葉です。けれども、そのエレミヤの勇気は信仰の勇気であって、エ

レミヤがなによりも神ヤハウエとの関わりの中で生きているから、エレミヤに与えられた勇気ではないで

しょうか。

・イエスは弟子たちに対してこのように語ったと言われています。《・・・だれでも人々の前で自分を私

の仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人を私の仲間であると言い表す。しかし、

人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う》(マタイ1

0:32,33)。そして《わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではな

く、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁

をしょうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしより父や母を愛する者は、わたしのふさ

わしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担っ

てわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたし

のために命を失う者は、かえってそれを得るのである》(同10:34-39)と。

・神は神の証言者を通して、われらと共にいましたもう、イエスはイエスの証言者をとおして、我らと共

にいましたもうというのです。新約聖書では証言と殉教者は同じ言葉です。エレミヤの信仰の勇気に見

倣って、この時代と社会の中で神とイエスを指し示す一人の証言者として生かされたいと願います。