なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「蛇のごとく、鳩のごとく」マタイによる福音書10章16節(2017年3月農伝卒業式説教)

いろいろ整理をしていましたら、農伝機関誌に私の卒業式の説教が載っていました。データを調べましたら、その原稿がありましたので、ここに掲載します。

 

「蛇のごとく、鳩のごとく」マタイ福音書10章16節

              2017年3月1日農村伝道神学校卒業式礼拝説教

 

 今年農伝を卒業していく方、或いは数年後に卒業していく方は、何らかの形で「み言葉に仕える」働きに携わっていくものと思います。私が牧師になって15年位たった頃、中学生の息子とぶつかったときに、その息子からこのようなことを言われました。「お父さんは、善良な市民から説教を食っちゃべってお金を巻き上げているんだ」と。

『時の徴』最新号の「聖書随想」を書いています上野玲奈さんという方が、その最初の所にご自分の体験を書いています。それを紹介させていただきます。

 《10年ほど前、真剣に牧師の道を目指し始めてまもなく中学時代の恩師にこう言われたことがある。・・・「俺のような教師やお前の目指そうとしている牧師って職業は、何も生み出さない仕事なんだぞ。人間に関わっていくだけの仕事なんだ。人の人生に関わっていくんだ。それだけなんだ。」》と。

「み言葉に仕える」働きに関わり、そのことによって飯を食う牧師という仕事は、人が食うために必要な生産を何も生み出さないばかりか、人が命をけずって得た生業(なりわい)の一部をいただいて自分が飯を食うということなのです。そのようにして人間に関わり、他者の人生に関わっていく牧師の仕事が、人をだまして儲けるペテン師ではなく、まともな仕事と言えるとすれば、それはなぜなのでしょうか。みなさんには、まずそのことをよく考えていただきたいと思うのであります。

 私は現在日曜礼拝でエレミヤ書の連続講解説教をしていますが、最近23章のエレミヤの預言者批判を扱っています。この預言者批判のところで、エレミヤが預言者の何を批判しているかというと、一つは預言者の振舞いです23:12,14)。もう一つは、預言者が語る言葉、彼らの宣教の内容そのものへの批判です(23:16,17)。つまりエレミヤが批判している預言者たちは、「平和がないのに『平和だ平和だ』と言う」偽りの預言をして、人々を神にある解放と救いから遠ざけてしまっているというのです。

 「み言葉に仕える」働きを担う者にとって、このエレミヤの預言者批判は自らに向けられている言葉として読まざるを得ません。自らの振舞いとその語る言葉によっては、神にある解放と救いから人々を遠ざけてしまうこともあり得るのです。そのような形で他者の人生に関わっていくとすれば、私たちは誰よりも厳しく神に裁かれるに違いありません。私の3人の子供たちは、自分で稼いで、ほとんど言葉をもって他者の人生に関わることもなく、つつましく生きています。そのような子共たちの生き方が時々うらやましく思うことがあります。自分はなぜ牧師などという道をえらんでしまったのかと。それでも私が牧師の仕事を続けているのは、聖書の語るイエスの出来事には、人間と全ての自然にとって究極的な解放のメッセージがあると信じているからです。ヨハネ黙示録の著者が語っているような、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(21:3,4)という終末的な世界がイエスによってこの世の現実に突入していることを知らされているからです。ですから、パウロと共にこのように信じたいと思っています。「神の国は、・・・聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」(ローマ14:17-19)と(傍点筆者)。

そのように「み言葉に仕える」働きを担う者の業を考えるときに、マタイ福音書10章16節の弟子派遣の文脈に出てくる「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」という言葉が心に響きます。マタイ福音書10章の「十二弟子派遣」の記事はマタイ教会の状況が反映されていると思われますが、ここで重要なことは、派遣された弟子たちがなすべきことは、イエスの業の継承にあるということなのです。神の国の宣教と病者の癒し、悪霊の追放というイエスの業は、あらゆる抑圧と差別からの解放のメッセージです。このイエスの業の継承こそが、弟子の働きであり、また「み言葉に仕える」働きを担う者のなすべきことではないでしょうか。

私たちはこの世にあって覆いをかけられているこのイエスの真理が、必ずや覆いを取り除いて現れてくることを信じ、イエスの業を継承する弟子の働きに、「み言葉に仕える」働きを担う者として、多くの兄弟姉妹と共に参与していきたいと願います。