なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(96)

   「自己正当化」エレミヤ書36:20-26節、 2018年6月17日(日)船越教会礼拝説教


・どんなに小さな国にあっても、古代の世界では王は絶大な権力者でした。


エレミヤ書36章に登場しています、ユダの王ヨヤキムも然りです。

・けれども古代の国家においては、民衆が民主化運動のような形で、権力者を批判し、権力者をその権力

の座から引き降ろすことは、ほとんどあり得なかったと思われます。

・ところが、エレミヤの場合のように、「ベニヤミンの地アナトトの祭司ヒルキヤの子であった」(エレ

ミヤ書1:1)、一介の祭司を親に持つ人が、ほぼたった一人で、「預言」という言葉をもって王を批判す

ることが、古代イスラエル民族にはあったのであります。


・今日のエレミヤ書36章20節から26節の箇所には、エレミヤが書記バルクに筆記させて巻物に書かせた預

言の朗読を、王ヨヤキムは拒絶したことが記されています。


・王の宮殿には、日当たりのよい冬季用の部屋があったようです。

エルサレムは海抜800メートルの高地にありましたので、冬の時期には雪も降る寒さになるために、

「冬の家」があって、暖炉がたかれていたと言われています。

・当時のユダの国は、春のニサンの月を新年とする暦で第九の月は、現在の12月に当たります。

・《王は宮殿の冬の家にいた。時は九月で暖炉の火は王の前で赤々と燃えていた》(22節)と記されてい

ます。


・ですから、王の命令で巻物が納められていた書記官エリシャマの部屋から巻物をとって来たユディが、

《王と王に仕えるすべての役人が聞いているところで読み上げ》(21節)た時、《ユディが3、4欄読み

終わるごとに、王は巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物全てを燃やしてしまった》

(23節)と言われているのです。


・巻物に記されたエレミヤの預言は、ユディによる王の前での朗読を含めて、3回朗読されています。

・第一回目は、バルクが神殿に来た参拝者全てに《書記官シャファンの子ゲマルヤの部屋から》(10節)

読み聞かせました。

・第2回目は、同じバルクがヨヤキム王の役人たちに向かって読み聞かせています(15節)。

・おそらくバルクの読み聞かせたエレミヤの預言には、王ヨヤキムに対する災いの預言も含まれていたで

しょうから、《その言葉をすべて聞き終わると、彼らは皆、おののいて互いに顔を見合わせ》、彼らは

「この言葉はすべて王に伝えねばならない」とバルクに言った(16節)というのです。

・エレミヤの預言を聞いた役人たちは、《彼らは皆、おののいて互いの顔を見合わせた》と言われていま

すから、畏敬の念をもってエレミヤの預言を聞いたと思われます。

・第3回目が、ユディによる王ヨヤキムの前での朗読です。


・しかもこの時、ヨヤキム王がエレミヤの預言が記された巻物をすべて燃やしてしまった後、《このすべ

ての言葉を聞きながら、王もその側近もだれひとり恐れを抱かず、衣服を裂こうともしなかった》(24

節)というのです。


・けれども、25節には《エルナタン、デラヤ、ゲマルヤの三人が巻物を燃やさないように懇願したが、王

はこれに耳を貸さなかった》と言われていますから、側近ではない役人たちの中にはエレミヤとバルクを

かばった人たちがいたことを意味します。

・彼らは、エレミヤの預言を畏敬の念をもって聞いた役人であり、バルクやエレミヤに「急いで身を隠す

ように」(19節)勧めた人たちです。

・しかし、26節をみますと、《かえって、王は、王子エラフメエル、アズリエルの子セラヤ、アブデエル

の子シェレムヤに命じて、書記バルクと預言者エレミヤを捕えようとした》というのです。

・《しかし、主は二人を隠された》とあり、神がそれをゆるさなかったと言われています。


・バルクとエレミヤに対する神と王の思いが真逆であることを、今日のエレミヤ書の箇所は語っていま

す。


・ヨヤキム王はエレミヤの預言を否定し、エレミヤとバルクを捕えさせようとしています。

・一方神は、そのヨヤキム王からエレミヤとバルクを隠して、二人を守られたというのです。


福音書のイエスの説話の中にも、「皇帝への税金」に関する説話があります(マルコ12:13-17、マタイ

22:15-22、ルカ20:20-26)。マルコ福音書のその個所を読んで見ます。


・《人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派のひとを数人イエス

のところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれ

をもはばからない方であることを知っています。人々を.分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えて

おられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないで

しょうか。納めるべきでしょうか。納めてはならないのでしょうか」。イエスは、彼らの下心を見抜いて

言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」。彼らがそれ

を持ってくると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と

言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスの答に

驚き入った》(マルコ12:13-17)。


・この「皇帝への税金」に関するイエスの説話の「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と

いう言葉もまた、政治的権力者である皇帝と神とでは、それぞれ属するものが違っていることが暗示され

ています。


・イエスは「二人の主人に仕えることはできない」と言い、「神と富とに同時に仕えることはできない」

と語っています。


・王と神、エレミヤ書ではエレミヤに託された神の預言は、王の権力さえも超えて、王に対する審判預言

が語られています。

・政治的権力者である王と神と、どちらがより深く私たちが耳を傾けなければならない存在なのでしょう

か。


・エレミヤは明らかに王でさえ第一に神に聞かなければならないと語っているように思われます。

・そのために、それを不服としたヨヤキム王はエレミヤを捕えようとしたのです。


・このエレミヤ書には、「王権」というこの世の世俗的権力に対して、「神権」という別の権威がこの世

には存在することが暗示されているように思われます。

・それは、私たちキリスト者にとっては、「歴史を導く神の支配とイエス・キリストの福音」への信頼を

意味する者と思われます。


第二次世界大戦の時、日本の教会には戦前の日本の天皇制国家に対する批判と抵抗はほとんどありませ

んでした。むしろ、日本の教会は天皇制国家の中に組み込まれて、戦争協力を強いられ、それに積極的に

従ってしまったのです。

・そのことによって、教会もキリスト者も、「歴史を導く神の支配とイエス・キリストの福音」への信頼

を失ってしまいました。戦後の日本基督教団という教会にとって、戦責告白は「歴史を導く神の支配とイ

エス・キリストの福音」への信頼の回復を意味したのではないでしょうか。


・ご存知のようにドイツでは、ナチスの時代にも一部「歴史を導く神の支配とイエス・キリストの福音」

への信頼を失わなかったキリスト者がいました。その一人が、ドイツ人ではなくスイス人でありますが、

バルトです。


宮田光雄さんは『本のひろば』7月号で、1945年初め、ナチ・ドイツの敗北を目前にした時点で、ドイ

ツ人といかに関わるかを論じた、バルトの「ドイツ人とわれわれ」という講演を取り上げて解説していま

す。それを紹介したいと思います。


・「バルトは、教会闘争以来、大戦中も、いわば《孤立した預言者》としてヒットラー支配を批判し抵抗

してきた第一人者である。しかし、この講演で、一見、驚くべき立場の転換を示している」と言って、こ

のように述べています。

・「これまでナチの脅威や侵略にさらされてきた人びとが今や抱かざるをえないドイツへの不信や復讐心

にたいして、政治的な告発や断罪ではなく、『誠実な友人』となることを提案しているのだ」と。

・「むろん、バルトは、誠実な友情には他者のために必要な『異議』を唱える責任も含まれていることを

知っている。ドイツ人特有の大国主義や歴史哲学的。宗教的な『深淵さ』好みなどを棄て、『自由な国

民』『成人した市民』として生きよ、と忠告する。しかし、その際にも、彼ら自身の歴史の中で、これま

で抑圧されてきた『別種の〔=良き〕幾つもの出発点が存在していた』ことに注意を促し、新しい出発へ

の励ましも忘れない」。


宮田光雄さんは、「こうしたバルト発言の背後にあるのは、ナチズムの汚物と恥辱にまみれた今日のド

イツにとっても味方となり『われに来たれ』と呼びかけておられるイエス・キリストの福音にほかならな

い。この福音から彼らのための『隣人とは誰か』と問いただされるとき、『われわれはほとんど同じ穴の

むじななのだ』という厳然たる反省、『われらを憐み給え』という共なる祈りを口にする人間への連帯意

識が生まれるのである」と言っています。


・今日私たちは、もし核を保持した国家間での戦争が起きれば、世界が滅んでしまうことを知っていま

す。

・それにも拘わらず国家間の政治的・経済的軋轢を、核の保有を盾にして、自国に有利に導こうとする悪

しき国家主義が、まだ超えられていません。

・安倍政権による現在の日本の国もそうですが、自国の安全保障を理由にして、軍事力の増強をめざして

いる国も少なくありません。


・戦争をしたら、世界が滅ぶようになるかもしれないということが分かりながら、軍事力を盾にする国家

の存在がなくなろうとしない矛盾の中で、その国家と国家の背後にある資本の力に支配されない、イエ

ス・キリストの福音によって示される道を私たちは歩んでいきたいと願います。


・バルトは、『我に来たれ』と呼びかけておられるイエス・キリストの福音は、国家や民族の違いを越え

て、ひとりひとりの人間に、『われわれはおほんど同じ穴のむじななのだ』という反省を与え、『われら

を憐み給え』という共なる祈りを口にする人間への連帯意識を生み出すと言っています。そのことによっ

て私たちが繋り、平和な世界を求めていきたいと思います。