「告げ知らせる」エレミヤ書36:1-8、2018年5月27日(日)船越教会礼拝説教
・先程司会者に読んでいただいたエレミヤ書の冒頭に記されています、<ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキム
の第4年>とは、紀元前605年の春から604年の春までの一年間のことです。この年は、<(バビロンの
王)ネブタドレツアルが北シリアのカルケミシュにおいてエジプト軍を撃破した年(46:2)です。そのため
に、それまでエジプトに従属していたユダは窮地に立たされることになりました。当然エジプト軍を撃破
したネブカドレツアルの軍隊がユダに攻めて来るからです。そのような状況において、エレミヤに<主
(なる神)からこのような言葉が臨んだというのです。そのエレミヤに臨んだ神の言葉が、2節、3節に記
されています。
・<巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで(約20年間)、イスラエルとユダ、および諸
国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。ユダの家は、わたしがくだそうと考えて
いるすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪
と咎を赦す>と。
・<ヨシヤの時代から今日に至るまで>のエレミヤの初期の預言は、エレミヤ書1章から25章に含まれ
ていると言われます。その預言の基本的なトーンは、ユダの国の「滅亡の到来」です。「北からの災い」
の預言です。しかし、神は民の滅亡を望んでいるのではありません。預言者の言葉を警告として聞き、ユ
ダの民が悔い改めて神に立ち帰り、神を信じて生きるように招いているのです。警告による神の招き、そ
れがエレミヤの初期の預言です。
・<ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るか
もしれない>というのは、「民の側に残されたわずかな可能性に神がなお期待して待つ意味が込められて
い」ます。木田献一さんは、「主なる神は、歴史を支配する全能の神であるが、民の悔い改めは、どこま
でも民の自由で自発的な悔い改めでなければならず、神がこれを強制することはないのである」と言って
います。
・エレミヤの時代のユダの民は、神に与えられたその自由によって、災い即ち滅亡への道を歩んでいたと
いうのです。エレミヤは神によって預言者に立てられ、約20年間繰り返し、そのまま進んで行けば、ユダ
の国は滅亡し、ユダの民は国が滅ぶという災いに遭遇しなければならない。悔い改めて神に立ち帰り、軍
隊をもった強い国でなくても、弱くても武力によらず、神がかく生きよと示しているトーラーの道がある
ではないか。ひとりの神を信じ、自分と対等同等な隣人としての他者と共に、互に暴力によって他者の命
と生活を奪うことなく、分かち合い、支え合って生きる契約の民としての道が。その道に従って生きるな
らば、滅亡しないで生き延びることができると。
・しかし、約20年間エレミヤが語る預言の言葉は、ユダの王とユダの民によって無視され続けてきたので
す。そのようにして、ユダの民は、<ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第4年>を迎えているのです。バ
ビロンによるユダの民の第一回捕囚が紀元前597年ですから、この年は、それから7,8年前ということに
なります。カルケミシュでエジプト軍を撃破したバビロン王ネブカドレツアルの軍隊がユダの国を征服す
べく、ユダの国の滅亡がいよいよ迫って来た時です。覇権主義的な大国から自分の国を守るために、ユダ
の王は当時パレスチナを支配していた一方の覇権主義的な大国エジプトに従っていたのです。ユダの国は
エジプトの属国となっていました。しかし、その頼りにしていたエジプトが、カルケミシュでバビロン軍
によって撃破され、パレスチナの支配からエジプトは撤退せざるを得ませんでした。弱小国ユダは、バビ
ロンによって滅びる時が迫ったのです。まだ、第一回バビロン捕囚までには7,8年時間がありました。エ
レミヤは、いよいよバビロンによるエルサレム滅亡が近づいて来た時には、その預言において、ユダの王
とユダの民に対してバビロンへの投降を勧めます。そして捕囚の地バビロンで、バビロンの人々の為にも
執り成しの祈りをしつつ、生き延びる道を選ぶようにと言うのです。このエレミヤの預言については、こ
の説教でもすでに触れています。しかし、今日のエレミヤの預言は、まだそこまで状況が切迫した時のも
のではありません。
・エレミヤは、<巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸
国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。ユダの家は、わたしがくだそうと考えて
いるすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪
と咎を赦す>という主なる神の言葉を聞いて、ネリヤの子バルクを呼び寄せます(4節)。そしてエレミヤ
の口述に従って、バルクが<主が語られた言葉をすべて巻物に記した>(4節)というのです。この時エ
レミヤは何らかの事情によってエルサレム神殿に入ることを禁じられていたと思われます。「神殿破壊の
預言(7,26章)などの不穏当な言動が祭司たちの反発を招いたためか、たまたまその時に何かの原因で
不浄とされる状態にあったためか」、いろいろ推測されていますが、確かなことは分かいません。
・断食の日にはエルサレムに沢山の人々が集まります。この頃はまだ断食の日は定まっていなかったよう
です。その日が定まったのは捕囚期以後と言われます。それ迄は、敵の来襲による民族の危機とか、自然
災害ために、緊急に布告されていたようです。エレミヤがバルクに巻物に預言を記させたのは、もしかし
たら、この断食の日が布告されて、実施するまでの間だったかも知れません。エルサレム神殿に入ること
のできなかったエレミヤは、自分が口述して筆記させた巻物から、バルクに、神殿に集まったユダの人々
とユダの町々からエルサレム上って来るすべての人々に、主なる神の言葉を読み聞かせるように命じま
す。<そこで、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤが命じたとおり、巻物に記された主の言葉を主の神
殿で読んだ>(8節)というのです。
・私は、このエレミヤ書の箇所から、今日の説教題を「告げ知らせる」としました。エレミヤは、その当
時のユダの国とユダの民が、歴史認識を見誤って、自ら滅びの道を邁進している現実を直視していまし
た。そこでユダの国とユダの民がめざすべき道を、神によって与えられ、その災いの預言を告げ知らせる
ことによって、ユダの民に悔い改めを迫りました。今日のところでは、その告げ知らせは、エレミヤが直
接したのではなく、エレミヤの預言を記した巻物をバルクに読ませることによって、断食の日にエルサレ
ムにやってきた沢山の人々に告げ知らせたのです。この預言の告知は、真実を人々に語り、それぞれに与
えられた自由をもって人々がその真実の道を選び取って行くことを促すことです。
・今日の私たちの教会にとっても、この預言活動、つまり真実を告げ知らせることは大切な務めではない
かと思います。教会は、神の国の福音を宣べ伝える器として立てられているのだと思います。ですから、
私たちは聖餐式の礼拝式文で、「人間の生命を維持するために日々必要とする食物がある人々には欠けて
いる不平等な社会はイエスの神の国にふさわしくありません」と宣言しています。また、「私たちは他者
を、また隣の国の人々を支配してきた歴史を心から反省し、また今もなお様々な形で隣の国の人々を苦し
めている現実を直視します」と言い、「どうか主よ、私たちが他者とともに、また隣の国の人々と助け合
い、手を結んで生きてゆく者となりますように」と祈っているのではないでしょうか。
・今日の船越通信にも少し書いておきましたが、関田先生がわざわざ集会案内を送ってくださったので、
25日(金)にありました「今こそ日朝対話を、国交正常化の時」神奈川集会に参加しました。その集会の
メインスピーカーの元外交官の浅井基文さんは、現在の国際状況の中で私たちと私たちの国が選ぶべき政
治的責任における真実の道は何かを明快に語ってくださいました。浅井さんは、丸山眞男の「他者感覚」
の大切さ語りました。丸山眞男の「他者感覚」は「相手になり切る努力で、他者を尊重し、他者の発想で
ある」とおっしゃいました。
・その上に立って、「主権者・国民の政治責任」として「平和・安全保障に関する基本姿勢を正す」とし
て、浅井さんは、三つの事を指摘してくれました。21世紀世界の本質的特徴を認識する。・ 国際相互
依存の不可逆的進行は20世紀までのパワー・ポリティックス(戦争)を歴史的遺物とした。・ 人間の尊
厳の普遍的確立は戦争を根源的に否定する。▲僖錙次Ε櫂螢謄ックスに固執するアメリカに引導を渡す
ことは、アメリカの友好国を自認する日本の最大の責任である。曖昧を極める平和観・安全保障観を徹
底的に正す。・ 9条の基本(「ポツダム宣言の嫡出子」)に立ち返る。
・エレミヤの預言は政治的な発言でもありました。古代のエレミヤの預言を現代に継承するならば、今申
し上げた浅井さんの主張と重なるのではないかと思われます。「幸いなるか、平和をつくり出す者
は!」。イエスのこの言葉を噛みしめたいと思います。