なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(108)

   「聞こうとせず」エレミヤ書42:7-22、2018年10月28日(日)船越教会礼拝説教


・先週の日曜日に連れ合いが秦野西教会の礼拝に出席した時に、秦野西教会のS牧師のお連れ合いから、

私が夏期休暇の後半の日曜日、9月16日に秦野西教会の礼拝に出席した時に、私の落ち込んでいる姿を見

て、声もかけられなかった、と言われたというのです。私はその時に、連れ合いが船越教会の礼拝に来れ

ないときに出席している秦野西教会にも、彼女の病気のことを話しておいて欲しいと、連れ合いから頼ま

れていましたので、その日の礼拝後に連れ合いの状態を話させてもらいました。恐らくその時の私の姿を

見て、S牧師のお連れ合いは、私に声もかけられなかったほど、私が落ち込んでいたと思われたのだと思

います。


・自分ではそんなに落ち込んでいるとは思っていないのですが、他の人から見ると、私が相当落ち込んで

いるように見えたのだと思います。9月16日と言いますと、連れ合いが入院してから17日目で、その間毎

日病院に通っていましたので、心身共に疲れがたまっていたのではないかと思います。その根底には、連

れ合いの命がどうなるのかという不安が、私の中にあったのかも知れません。


・個人にしろ、集団にしろ、命への不安を抱えていますと、無意識の内に死の恐怖に支配されて、生きる

意欲がそがれてしまうのかも知れません。


・ユダ残留民は、自分たちの歩むべき道、なすべきことを神に示してもらうために、預言者エレミヤに頼

んで祈ってもらうことにしました。その答えがエレミヤに示されるまで、十日間を必要としました。エレ

ミヤは預言者とは言え、神の言葉を常に自分の中に持っているわけではありません。その都度祈りと黙想

を通して、神の意志が示され、神の言葉が語られるまで待たなければなりませんでした。預言者は神の言

葉を取り次ぐのであって、自分の考えを語るのではないからです。


・この十日間という時間は、ユダ残留民にとっては、ある意味で決定的な時間となりました。ユダに残留

して、バビロンの支配下において生きていくのか、エジプトに逃れていくのか。この十日間に、人々はエ

レミヤの所に行って、神によるその回答がまだかと催促したかもしれませ(木田献一)。しかし、その二

者択一を、エレミヤからの回答を待ちきれずに、ユダ残留民は、エジプト行に自分たちで決めてしまった

のです。


・おそらくこの十日間をユダ残留民は、エレミヤからの回答が来るまで静かに待つことができなかったと

思われます。何時バビロンの報復が迫って来るか分からないという緊迫した状況の中で、残留民の中には

焦りと不安が増していったことでしょう。一度は全員でエレミヤを訪ねて、神に祈って自分たちの歩むべ

き道、なすべきことが何かを示してもらいたいと頼んだにも拘わらず、ユダに留まるか、エジプトに逃げ

ていくかで、残留民の中で対立が激化していったに違いありません。そしてエレミヤからの回答を待ちき

れずに、エジプト行を決めてしまったのでしょう。


・そのように神の示しを待ちきれずに、自らの判断でエジプト行を決めてしまった残留民の中には、自分

たちの命がどうなっていくのかという不安と焦燥が支配していたに違いありません。それは、カルデヤ人

=バビロンの報復への恐れであったと思われます。自分たちの命を脅かす力への恐れは、私たちから真実

に生きる力を奪います。ヴァイザーは、「自分たちの命に関わる不安は、彼らから政治的状況を冷静に判

断する力を奪うだけではない。それはまた彼らから、自分たちを救う神の可能性に対する信頼と、神の意

志に従う力を奪う。このことこそ、今彼らが恐れるべきことであらねばならないのである」と言っていま

す。


・ユダ残留民が本当に恐れなければならないのは、自分たちの命を脅かす恐れではなく、自分たちの命を

脅かす恐れによって、彼らが真実に生きる力を奪われて、漂流する船が難破するように、彼らが歩むべき

道、なすべきことを見失ってしまうことなのです。


・ユダ残留民は、ユダに留まれば、カルデヤ人の報復によって再び戦争状態に陥り、バビロン軍によって

包囲されたエルサレムで経験した食糧難という過酷な体験を再び味わわなければならないのではないか。

豊かなエジプトに行けば、平和で心配のない暮らしができるのではないかという幻想を抱いて、この十日

間に、エジプト行を決めたに違いありません。


・《十日たって、主の言葉がエレミヤに臨んだ。そこで、エレミヤはカレアの子ヨハナンと、彼と共にい

るすべての軍の長たちをはじめ、身分の上下を問わず、民の全員を招集し、次のように語った》と言うの

です。この時既に残留民はエジプト行を決めていました。その彼らにエレミヤは語りかけます。


・《「あなたたちは、わたしを主のもとに遣わし、あなたたちの願いを受け入れて下さるよう求めさせた

が、そのイスラエルの神、主はこう言われる。もしあなたたちがこの国にとどまるならば、わたしはあな

たたちを立て、倒しはしない。植えて、抜きはしない。わたしはあなたたちに下した災いを悔いている。

今、あなたたちはバビロンの王を恐れているが、彼を恐れてはならない。彼を恐れるな、と主は言われ

る。わたしがあなたたちと共にいて、必ず救い、彼の手から助け出すからである。わたしはあなたたちに

憐れみを示す。バビロンの王もあなたたちに憐れみを示して、この土地に住むことを許すであろう。もし

あなたたちが『我々はこの国にとどまることはできない』と言って、あなたたちの神である主の声に聞き

従わず、また、『いや、エジプトの地に行こう。あそこには戦争もないし、危険を知らせる角笛の音もせ

ず、食べ物がなくて飢えることもない。あそこへ行って住もう』と言うなら、今、ユダの残った人々よ、

主の言葉を聞くがよい。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。もしあなたたちが、どうしてもエジ

プトへ行こうと決意し、そこに行って寄留するなら、まさに、あなたたちが恐れている剣が、エジプトの

地で襲いかかり、心配している飢えがエジプトまで後を追ってとりつき、あなたたちはそこで死ぬ。エジ

プトへ行って寄留しようと決意している者はすべて剣、飢饉、疫病で死ぬ。わたしが臨ませる災いを免

れ、生き残る者はひとりもいない。‥‥」》(7~17節)。


・エレミヤは、既にエジプト行を決意しているユダの残留民に対して、このように神の言葉を取り次いで

語ったというのです。エレミヤの心には、この言葉をユダの残留民に語ることによって、エジプト行を決

めている彼らがその決意を翻し、ユダの地にとどまるようにという切なる願いがあったに違いありませ

ん。


・けれども、エレミヤの願いに反して、ユダ残留民はエレミヤも引き連れて、エジプトに逃れて行くこと

になります。そして、エレミヤはエジプトで死にます。エレプトに逃れたユダ残留民も、バビロン王ネブ

カドレツアルのエジプト攻略の煽りを受けて、彼らがエジプトで期待した平和と生活の安定を得ることが

出来ないまま、一部の少数の者を除いて、エジプトで滅んでいったと思われます。


エレミヤ書にユダ残留民のことが描かれているのは、彼らにも信仰の民としてのイスラエルの残りの者

の可能性があったにも拘わらず、彼らは自らその芽を摘んでしまったことを伝えているのではないかと思

われます。そのことによって、信仰の民イスラエルの残りの者は、バビロンに連れていかれた捕囚民なの

であるということを、間接的に語っているのではないかと思います。


・今日のエレミヤ書の箇所から、私たちが聞くことのできるメッセージは何でしょうか。私は、私たちが

恐れる必要のないものを恐れ、本当に恐れなければならないものを恐れないで生きていくならば、その私

たちが選んだ道は滅びの道以外の何ものでもないということではないかと思います。


・ユダ残留民は、エレミヤの預言に従って、神を恐れ、神の言葉が示す道に従って生きていくべきでし

た。それが彼らにとっての命に至る道であったのです。ところが、ユダ残留民は神を恐れる代わりに、バ

ビロン王ネブカドレツアルの報復を恐れて、ユダの地に留まって、バビロンの支配を受け入れて生きよと

いう、エレミヤの預言に逆らって、エジプト行を決めてしまったのです。その道は滅びに至る道でありま

した。


・バビロン捕囚民が、バビロン捕囚に抗って、バビロンに最後まで抵抗して自滅する道ではなく、バビロ

ン捕囚を神の示しと受け取ったこと。そして、バビロンで生活の場を築いて生きよという、エレミヤの預

言を受け入れて、バビロンに徹底抗戦することなく、捕囚を受け入れたのとは対照的です。


・私たちの前には、二つの道があるのではないでようか。一つは命に至る道であり、一つは死に至

る道です。


・明治政府は富国強兵を選択しました。封建制から脱皮して、近代国家に変貌していく中で、列強の植民

地支配に日本も割り込んでいく道を選んだのです。その結果が敗戦という悲惨な現実となったわけです。

一番になる競争には、必ず他者を蹴落とす者と、他者から蹴落とされる者が出ます。勝利者だけが命を得

るのでしょうか。


・私は競争における勝利者が命を得ているとは思えません。でも私はテレビでスポーツを見るのが好きで

すので、私の中にはある種の一番主義が根深くあるのかも知れません。小さい頃学校の成績が良いと言っ

て、褒められている自分を誇りに思っていた自分がいたようにも思います。しかし、競争からはみんなを

生かす命は生まれません。


・イエスは、恐れるべき者は誰かという教えの中で、《体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを

恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい》(マタイ10:28)と語っていま

す。


・そして、偉くなりたいと、一番を望む弟子たちに対して、イエスはこのように語っています。《あなた

がたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権

力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、

仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためで

はなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである》(マルコ1

0:42-45)と。


・このイエスの示した仕える道は、現在私たちが生きている現実において、どのような道として私たちの

前にあるのかを問い、それぞれに与えられている、自分を含めてすべての者が命に至る仕えの道を、さま

ざまな恐れから解放されて、真に恐るべき方を恐れつつ、歩んでいきたいと願います。


・《今、あなたたちはバビロンの王を恐れているが、彼を恐れてはならない。彼を恐れるな、と主は言わ

れる。わたしがあなたたちと共にいて、必ず救い、彼の手から助け出すからである。わたしはあなたたち

に憐れみを示す》(エレミヤ42:11,12節)と、ユダ残留民に語られたエレミヤの言葉が、現在の私たち

にも語られていることを力にして。