なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(98)

    「王の依頼」エレミヤ書37:1-10、2018年7月1日(日)船越教会礼拝説教


エレミヤ書37章から44章までは、一つのまとまりをなしていて、エレミヤの預言活動の最後の時期に当た

ります。


・年代からしますと、紀元前589年の前半から、エレミヤと書記バルクがエジプト亡命グループに強いられて

エジプトに移り住んだ紀元前587年の冬ごろまでの約一年半の出来事をほぼ年代順に記していると考えられて

います(木田献一)。


・紀元前587年という年には、第2回のバビロン捕囚があり、エルサレムはバビロン軍によってエルサレム神殿

も完全に破壊されてしまいます。


・少し煩わしいかもしれ知れませんが、このエレミヤの預言の歴史的背景を簡単に見ておきたいと思います。


・37章の1節に、≪ヨヤキムの子コンヤに代わって、ヨシヤの子ゼデキヤが王位についた。バビロンの王ネブカ

ドレツァルが、彼をユダの国の王としたのである≫と言われていますが、これはこういうことを意味します。


・コンヤとはヨヤキンのことです。彼は、36章1節の「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第4年に」と記されて

いましたヨヤキムの子で、父ヨヤキムの後に18歳で王に即位しました。しかし、3か月後にバビロン軍に敗れて

捕囚として連れて行かれました。コンヤに代わって、バビロンの王ネブカドレツアルは、コンヤの叔父である、

ヨシヤ王の末子であるゼデキヤを王位につけたのです。


・ですから、ゼデキアはバビロンの傀儡として立てられた王であった言えます。ところが、ユダの国の王に仕

える役人たち、今でいう官僚の中には、エジプト寄りの人もいたと言われています。ですから、ゼデキヤは王

として微妙な立場に立たされていたと思われます。


・37章の3節で、≪どうか、我々の神、主に祈って欲しい≫と使いを遣わしてエレミヤに頼んだのが、このゼ

デキヤ王なのです。


・南ユダの国の歴史を振り返りますと、紀元前701年に、アッシリアの王センナケリブエルサレムを包囲し

たとき、ヒゼキヤ王の祈りに応えて、エルサレムが滅ぼされることなく助かったということがあり、ユダに国

の人々は、その時神がエルサレムを奇跡的に救ってくださったと信じていました(列下19章)。ヒゼキヤの時

と同じことが、今回も起こらないかという期待を込めてゼデキヤは使いを遣わして預言者エレミヤに祈っても

らおうとしたのかも知れません。


・4節、5節を見ますと、≪エレミヤはまだ投獄されておらず、人々の間で出入りしていた。折しも、ファラオ

の軍隊がエジプトから進撃して来た。エルサレムを包囲していたガルデヤ軍(バビロン軍)はこの知らせを聞

いて、エルサレムから撤退した≫と言われています。


・大国であるバビロンとエジプトの影響が、ユダの国があったパレスチナにどのように及ぶかによって、ユダ

の国の政治的な選択が問われることになります。ユダの国がバビロンの影響下に入れば、ユダの国はエジプト

とは敵対関係にならざるを得ません。逆にエジプトの影響下に入れば、バビロンと敵対関係になります。小国

ユダにとって、その政治的選択を誤れば、何時でも国家滅亡の危機に遭遇せざるを得ません。預言者エレミヤ

は、そのような状況の下で預言活動を続けていたのです。


・けれども、預言者エレミヤにとっては、国としてのユダよりも、ユダの国の民であるイスラエルの人々が、

神に選ばれた民であること、神と契約を結んでいる神の民であるということが、より大切なことでした。エレ

ミヤが今まで繰り返し、神の審判の預言を語り、ユダの国の滅び、破滅を預言してきたのも、神の契約から逸

れて、神の契約とは相反する方向に進んでいる王を初めユダの国の人々が、悔い改めて神に立ち帰って生きる

ようになることを期待し、祈り、願っているからです。


・エレミヤにとっての真実とは、神を礼拝し、神がかく生きよと言ってモーセに示してくれた、律法の道、自

分と共に他者である隣人の命と生活を脅かし、奪うことなく、互に大切にし合って生きることです。人である

私たちが互いに愛し合うことによって、私たちが神にいかに愛されてある存在であるかを証言することです。

そのことによって、この肉の姿で生きる私たち人間が、神の愛を証しすること、それがエレミヤにとっての真

実でした。エレミヤは神に在るこのイスラエルの民の真実を、何よりも大切にして、その神の真実を預言によ

って語り続けたのです。


・6節に「このとき」と言われています。この時とは、≪ファラオの軍隊がエジプトから進撃して来た。エル

サレムを包囲していたガルデヤ軍(バビロン軍)はこの知らせを聞いて、エルサレムから撤退した≫(5節)、

そのようなときを意味します。≪このとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ≫と言われて、ゼデキヤのエレミヤ

への依頼「どうか、我々のために、我々の神、主に祈って欲しい」に対する預言が語られているのです。その

内容は、バビロンによるエルサレム滅亡の預言が必ず成就することが重ねて確認されているのであります。


・≪「イスラエルの神なる主はこう言われる。わたしの言葉を求めて、お前たちを遣わしたユダの王に言うが

よい。お前たちを救援しようと出動したファラオの軍隊は、自分の国エジプトへ帰って行く。カルデヤ軍が再

び来て、この都を攻撃し、占領し火を放つ。主はこう言われる。カルデヤ軍は必ず我々のもとから立ち去ると

言って、自分を欺いてはならない。カルデヤ軍は決して立ち去らない。たとえ、お前たちが戦いを交えている

カルデヤ軍の全軍を破り、負傷兵だけが残ったとしても、彼らはそれぞれの天幕から立ち上がって、この都に

火を放つ」(6-10節)と。


・エレミヤは、神の真実を、「主はこう言われる」という預言という言葉をもって語り続けました。王に対し

ても、臆することなく堂々と神の真実を語ったのです。イエスはどうだったのでしょうか。


・イエスは、エレミヤが語った神の真実を、神の福音としてこのように宣べ伝えました。「時は満ちた。神の

国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:14,15)と。イエスは、預言者エレミヤと同じように

神の真実を、神の福音として語りましたが、同時にその福音を信じて生きたのです。神の国について語るだけ

でなく、神の国を今ここで、病を負い、悪霊に憑かれて、貧しく、小さくされた苦しむ人びとと共に生きたの

です。そして弟子達を「私に従って来なさい」と招かれました。その弟子達にイエスが教えた主の祈りを本田

哲郎さんは交読文にしています。


・一昨日から昨日にかけてこの船越教会で行った寿地区センターの委員の修養会がありました。そこで、寿地

区センターの主事であるMさんが、その本田哲郎さんの主の祈りの交読文を用意してきて、最初の礼拝でみん

なで交読しました。その一部「御国がきますように」と「御心が行われますように」の部分を紹介したいと

思います。


・【司祭(司会者):「御国が来ますように、」、みんな:「神の国は、聖霊によって与えられる正義と平

和と喜びです」(ロマ14:17)。/私たちが、あわれみや施しを受けたり/与えたりすることでよしとするこ

となく、/正義の実現を大切にし、/仲間の痛みを共感し、人権を守るために立ち上がり、/神と人を大切

にする/平和と喜びに満ちた社会を作ることができますように。

司祭(司会者):「御心が行われますように、」みんな:あなたの御心、それは、/小さくされた者が一人

も切り捨てられることなく/かえって人々の交わり(連帯)の核となり、/永遠の命を力強く生きること。

(マタイ18:10~14,ヨハネ6:39-40)/私たちに力と勇気を与えてください。】


・イエスは、神の国を言葉として宣べ伝えただけでなく、神の国を生きた方ではないでしょうか。また、永

遠の命を語るだけでなく、永遠の命を生きることを私たちに示して下さっているのではないでしょうか。


・私たちは、自分が生きていくために、日々の糧をこの社会における労働を通して得て行かなければなりませ

ん。ですから、どこかの会社か学校か役所に勤めるか、或は自営業で、アルバイトで生活の糧を稼がなければ

なりません。それができなければ、家族や知人、国や自治体からの支援で生きていかなければなりません。し

かも私たちが生きている現実社会では、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなるような不公

平な、正義の実現からは、およそ遠い世界です。弱肉強食の社会で、強い者に都合の良い社会です。資本の力

が支配し、それに国家権力が同調していて、弱い人が切り捨てられていく社会です。


・本田哲郎さんの主の祈りの交読では、「私たちに必要な糧を、きょう与えてください」のところでは、その

応答としてこのように言われています。【私たちが少しずつもっているものを、/きょう出しあってみんなが

食べることができるような、/私たち自身の連帯と行動を起させてください。/多くの財産をもつ者が、/人

の苦しみに無関心にさせるぜいたくを捨て、/貧しい人々に「返す」気持ちで/分かち合いますように】とな

っています。ここに「私たち自身の連帯と行動を起させてください」とありますが、この「私たち」は主の祈

りを祈る私たちであります。この私たちとは、キリスト者である私たちであり、その交わりである教会を意味

します。


・最も小さく弱くされている人を核とした人の連帯と行動を起す人の集まりが教会ではないかと、本田哲郎さ

んは考えているのではないかと思います。私もそのように考えています。イエスを中心とした人の集まり、そ

れが礼拝共同体であり、教会ではないでしょうか。そのイエスを中心とした人の集まりは、最も小さくされた

人を核とした人の連帯と行動を呼び起こすイエスの福音が語られ、信じられ、共に生きていく群れではないで

しょうか。


・エレミヤが国家滅亡という危機的な状況の中で、神の真実である、神によって選ばれた民として、神との契約

に基づいて生きるイスラエルの連帯と行動をよびおこすべく、神の言葉である預言を語り続けたように、私たち

もイエスの福音の灯を、この時代と社会の中で、ともし続けていきたいと思います。何よりも神の真実を大切に

して、共に生きていきたいと思います。