なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(111)

   「滅亡の預言」エレミヤ書44:1-19、2018年12月2日(日)船越教会礼拝説教


・今日はアドベント第一主日です。いよいよ今年もクリスマスが近づいて来ました。前回申し上げました

ように、このアドベントの今日を入れて3回の日曜日の礼拝では、エレミヤ書をテキストにさせてもら

い、エレミヤ書45章をもって、エレミヤ書による説教を終えたいと思います。


・先程司会者に読んでいただいたエレミヤ書44章は、エレミヤのエジプトにおける最後の預言です。今日

はその前半部分から私たちに対する語りかけを聞きたいと思います。


・このエジプトにおけるエレミヤの預言は、エレミヤの最後の預言ですが、この預言の内容を見る限り、

エレミヤが神の召命を受けて最初に語った預言の内容とほとんど変わりません。


エレミヤ書1章を見ますと、神の召命によって預言者として立てられたエレミヤが、神によって最初に

与えられたのは、北からの災いの預言でした。1章16節にはこのように記されています。≪わたしは、わ

が民の甚だしい悪に対して/裁きを告げる。/彼らはわたしを捨て、他の神々に香をたき/手で造ったも

のの前にひれ伏した。≫と。


・その預言をもって、≪わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて/堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城

壁として、/ユダの王やその高官たち/その祭司や国の民に立ち向かわせる≫(1:18)という神の召命に応

えて、その時まだ若者であったエレミヤは預言者として行動したのです。


・今日のエジプトにおけるエレミヤの最後の預言でも、エルサレムとユダの町々が廃墟と化したのは、預

言者たちを繰り返し派遣したにも拘わらず、ユダの人々が悪を行って神ヤハウエを怒らせ、異教の神々に

香をたいて礼拝したからかだと言われています。


・そしてエジプトに寄留したユダの人々も同じことをして、≪今日に至るまで、だれひとり悔いて、神を

畏れようとはせず、またわたしがお前たちと父祖たちに授けた律法と掟に従って歩もうとはしなかった。

≫(10節)≪/それゆえ、・・・わたしは、必ずお前たちに災いをくだし、ユダをことごとく滅ぼす。ユ

ダに残っている者で、あくまでエジプトへ行って寄留しようとする人々をわたしは取り除く。彼らはひと

り残らずエジプトの地で滅びる≫(11-12節)と言われているのです。


・ですから、≪エジプトの地へ移って寄留しているユダの残留民には、難を免れて生き残り、ユダの地に

帰りうる者はひとりもいない。彼らは再びそこに帰って住むことを切望しているが、少数の難を逃れた者

を除けば、だれも帰ることはできない≫(14節)と言われています。すなわち、≪少数の難を逃れた者を除

けば≫は後からの付け加えられたものと思われますので、これは、前回にも触れましたが、神の民再生を

担うのはエジプトのグループではないということを意味します。


・このように、エレミヤの最初の預言も、最後の預言も、悪を行って、異教の神々に香をたき、神ヤハウ

エを捨てたユダの民に対する審判預言です。


・ヴァイザーは、「民は再び偶像崇拝に陥ったが、エレミヤの任務は、このことに対する空しい戦いであ

る。」と言って、エレミヤのエジプトにおける最後の預言を「空しい戦いである」と言っているのです。


・そして「民の再度の偶像礼拝によって、エレミヤは人生の終わりにさいして、初めに立っていた場所に

連れ戻される。民が偶像礼拝に陥ったという表面の結果を見ると、彼の人生を賭けての仕事は、意義がな

かったのではないかとさえ思われる。それにもかかわらず、彼はこの見込みのない状況にあっても、神か

ら課せられた預言者の義務に忠実であり続け、「青銅の城壁」(1:18)として、破壊に向かう展開の流れ

に抵抗する。彼は最後まで、生涯仕えた神の言葉の真実を証しする証人であり続ける。このことこそが、

バルクが44章に、エジプトにおけるエレミヤの活動を書き記したことの目的である」と言っています。


・「空しい戦い」、徒労に思われるエジプトにおけるエレミヤの預言活動を、あえてバルクがここに書き

記しているのは何故かという問いに対して、ヴァイザーは、破壊に向かう展開の流れという、見込みのな

い状況にあっても、それに抵抗し、エレミヤが最後まで、生涯神の言葉の真実を証しする証人であり続け

たことを書き残すためだったと言うのです。


・ユダの民の救済を願う神からすれば、罪による破滅という真逆の道を進んでいるエジプトにあるユダ残

留民に対して、エレミヤに裁きを告げさせることによって、彼ら・彼女らに自らの過ちに気づかせようと

されたのです。エジプトに逃げて、今も悪を行い、偶像崇拝に陥っているユダ残留民の中に、そのように

今も生きて現在する神の言葉に、エレミヤは自ら耳を傾け、それをユダ残留民に取り次いだのだと思いま

す。


・人間が造り出す歴史に、神の創造の歴史が内在していることを信じる者は、悲劇的な人間の歴史におい

ても、語りかける神の言葉に耳を傾けます。エレミヤはその神の言葉を聞いて、それをエジプトに逃げた

ユダ残留民に取り次いだのです。


・人間の造り出す歴史に、神の創造の歴史が内在しているという歴史観は、信仰の民であるユダの人々が

本来は共有しているはずです。エレミヤはその同じ経験をエジプトにおけるユダ残留民と共にしていると

信じていたと思われます。そうでなければ、神の言葉を取り次ぎはしなかったでしょう。


・ところが、15節以下を見ますと、エジプトにおけるユダ残留民は、エレミヤとは全く違う経験を持ち出

して、エレミヤに対する反論をしています。「彼らの主張は、異教の神々に香をたいていた時代には繁栄

を享受していたのに、それを止めてから事態は悪化したのだ、だから再び過去の異教礼拝を復活して繁栄

を取り戻すのだ」というのである。


・少しユダ王国の歴史を振り返って、エジプトにおけるユダ残留民の言い分の根拠を見てみたいと思いま

す。


・異教礼拝を止めたというのは、紀元前621年に開始されたヨシヤ王による、神殿で発見された律法によ

宗教改革をさすと考えられます。


・それ以前のマナセ王の長い治世下(紀元前696-642年)では、もっぱらアッシリア帝国に従属し、その

保護下で、文化・宗教をも積極的に受容し、安定と繁栄を見たのでありました。


・ところが、ヨシヤの改革以後のユダ王国の歴史は、改革者たちの描いた理想や期待とは裏腹に暗澹たる

ものとなりました。


・紀元前609年には、ヨシヤ王がメギドで戦死し、改革は挫折、ユダはエジプトの支配に屈します。


・紀元前605年のカルケミシュの戦いでファラオ・ネコが敗れる(46:2)と、ユダは今度はバビロンの支配

下に置かれました。


・しばらくはバビロンに従順であったエホヤキム王が紀元前601年に反旗を翻したため(王下24:1)バビ

ロンは報復に出て、紀元前598年にエルサレムを攻め、翌年には第一回の捕囚に至ります。


・さらに、ゼデキヤ王の反乱に対する報復として紀元前587年に第二回の捕囚とともに、エルサレムが焼

き払われて国家の滅亡となったのでありました(39:1-10)。この辺の経緯についてはエレミヤ書でも言

及されています。


・従って、いまエジプトに逃れて住んでいるユダの人々にとっては、「ヨシヤの改革こそが、ユダ王国

苦難から滅亡に至る歴史の発端であり、それは天の女王に香をたくのを止めたことに原因があると考えら

れたのであります」(木田献一)。


・「17節の『天の女王』とは、アッシリアバビロニアで崇拝されていたイシュタルのことで、カナンで

はアシュタロトと呼ばれた豊饒の女神です。


・7:18によれば、ユダの町々やエルサレムでは、家族がそろって役割を分担して天の女王の礼拝に参加し

ていました。(今日の)この箇所で、妻たち、女たちが登場するのは、こうした礼拝では、女たちが主要

な役割を果たしていたことを反映しています。


・・・・子供の数の多いことが一族の存続の条件であった古代社会では、多産を約束する豊饒の宗教が広

く人々に受け入れられていました。出産の危険や、嬰児死亡率の高かった事情から考えてれば、当時の女

性たちが安産と多産の女神に香をたき、誓願をすることも当然とみられたでしょう。


・ユダの人々が国家滅亡のあと離散の民として外国における寄留者の状況の中で生きようとする場合、そ

の土地の既存の豊饒祭儀の誘惑は避けられない問題となったと思われます。


・エレミヤが挑戦している問題は、エジプトに逃れたユダの人々の深刻な問題であると同時に、後々の世

代にとってもきわめて重大な信仰上の問題であり続づけたのである」(木田献一)と言えるでしょう。


・その意味でエレミヤに対するエジプトにあるユダ残留民の反論は一理あると思われます。安定と繁栄が

豊穣の宗教によってもたらされるなら、ヤハウエ神への信仰でなくてもいいではないかというのです。


・ヨシヤ王によるヤハウエ神への信仰の回復という改革がうまくいかず、ヨシヤ王の戦死によって、途中

で挫折したことも、その後の破局的な時代を生き抜いてきた、エジプトにあるユダ残留民に、そのような

思いを抱かせるようになった原因かもしれません。


・しかし、どんな形にしろ、安定と繁栄が第一なのか? それとも神を愛し、自分のように隣人を愛す

る、神の真実を歴史の中で求めて生きることなのか? この二者択一は、エレミヤの時代だけでなく、私

たちの普遍的な課題ではないでしょうか。


・10節に≪今日に至るまで、だれひとり悔いて、神を畏れようとせず、またわたしがお前たちと父祖たち

に授けた律法と掟に従って歩もうとしなかった≫と言われていますように、豊饒神信仰による安定と繁栄

も、現在の富・至上主義も、人間の定めからすると外れていると思われます。一部の人たちの安定と繁栄

であって、そこでは苦しんでいる人々は見棄てられているのではないでしょうか。


・私たちはエレミヤが預言し続けた神の真実が、イエスによって受肉したことを信じています。ですか

ら、イエスに従って、偽りの安定と繁栄に誤魔化されることなく、エレミヤがめざした神の真実をこの世

の現実の中で求め続けていきたいと思います。