「廃墟」エレミヤ書7:29-8:3 2015年11月15日(日)船越教会礼拝説教
・エレミヤは神の言葉をイスラエルの民に語るように、預言者として立てられました。その預言者として
活動しているエレミヤに、神はこのように告げたというのです。それは、エレミヤが語りけるイスラエル
の民の頑なさのゆえに、エレミヤが語る神の言葉は、イスラエルの民によって聞かれることはないと。何
ということでしょうか。神はエレミヤにイスラエルの民に預言せよと命じられるのに、その神がお前の語
る預言をイスラエルの民は絶対に聞きはしないと言うに等しいわけですから。
・7章29節に<お前の長い髪を切り、それを捨てよ。/裸の山々で哀歌(悲しみの歌)をうたえ。/
主を怒らせたこの世代を、/主は退け、見捨てられた>。
・イスラエルの民の絶望的な姿を見て、自分は彼ら・彼女らを「見捨てる」と言うのです。ただ7章29節に
よれば、「主を怒らせたこの世代」と言われていますから、イスラエルの民を世代を超えて完全に見捨てる
ということではありません。神に見捨てられた世代の次の世代からは、また新しい契約の民としてのイスラ
エルの民が、彼ら・彼女らの先祖を奴隷であった出エジプトの地から解放してくださった神ヤハウエの下に
立ち、誠実に神の民としてこの歴史の中を歩むようになる、という可能性は残されているのです。
・エレミヤは、そのような頑なで、彼の言葉に耳を傾けることのない人々に向かって、神の言葉を語らざる
を得なかったのです。神によって見捨てられた世代のイスラエルの民の中で、見捨てられないでいる者がい
るとすれば、預言者エレミヤ自身であったのかも知れません。その意味で、エレミヤの存在は、神とイスラ
エルの民との契約を指し示す象徴的な存在として、頑なで、不信の民の中にあって、イスラエルの民が本来
どのように生きるべきかを証言していると言えるでしょう。預言者は、その語る言葉が全て拒絶されたとし
ても、神の召命に応え、神の期待に応えていくのです。
・<まことに、ユダの人々はわたしの目の前で悪を行った、と主は言われる。わたしの名によって呼ばれる
この神殿に、彼らは憎むべき物を置いて、これを汚した>(7:30)と言われています。
・私たちは、ヨシヤ王の宗教改革について、今までも何回か触れてきましたので、知っていると思います。
ヨシヤ王は、それまで地方にもあった聖所を廃止して、エルサレム神殿に聖所を集中させて、祭儀(礼拝)
改革を断行しました。ヨシヤ王にあっては、異教の神々を礼拝するのではなく、イスラエルの神ヤハウエを
礼拝することが押し進められました。そして、異教化していた当時の祭儀礼拝を、本来のヤハウエを神とす
る礼拝に改革したのです。ですから、本日のテキスのエレミヤの預言は、ヨシヤ王の時代のもではありませ
ん。エジプト王ネコによる進軍を迎え撃つたカルケミシの戦いで、戦死したヨシヤ王の後の時代のものです。
急死したヨシヤ王の後、ユダの人々はヨアハズを王に立てますが、エジプト王ネコはヨアハズを3か月で王位
から降ろし、ヨヤキムをエジプトの傀儡の王とします。ヨシヤ王の宗教改革は頓挫してしまいました。エレ
ミヤはヨシヤ王の死後、再びエルサレム神殿の異教化だけではなく、一般の家庭でも異教の礼拝が行われる
ようになり、イスラエルの民全体がヨシヤ王以前に戻ってしまうことを恐れたに違いありません。
・その代表的な祭儀行為が、<彼らはベン・ヒンノムにトフェトの聖なる高台を築いて、息子、娘を火で焼
いた>(7:31)と言われています、子どもの人身供犠(人身御供、人身を犠牲として神に供えること、人柱)
であります。
・<歴代誌によれば、ユダの王アハズとマナセは自分の子らをベン・ヒンノムの谷で火の中を通らせたとあ
ります(歴代誌下28:3,33:6)。列王記は、アハズについてベン・ヒンノムの谷に言及はしていませんが、や
はり自分の子を人身供犠にしたことが記されています(列王記下16:3)。そのようなことがありましたので、
ヨシヤ王は、ベン・ヒンノムの谷にありました聖なる高台のトフェトを破壊して、もはやそのようなことが
行われないようにしたと記されています(列王記下23:10)>(新共同訳註解416頁)。
・エレミヤは、この悪しき習慣がヨヤキムの時代に復活することを恐れました。7章32節以下は、この人身供
犠という悪習に対する審判の言葉であります。その時、ユダとエルサレムは廃墟となり(7:34)、トフェト
に葬られた人びとの骨が掘り起こされ、彼らが礼拝した異教の神々の前にさらされ、撒き散らされて、地の
肥やしとなる、と言われているのです(8:1-3)。
・このエレミヤの預言を読みながら、私は、今の日本の状況に重ねて、自分の中に一つのイメージが膨らん
でいきました。「子供の人身供犠」は、日本の社会も同じですが、日本よりも更に過激と言われている韓国
社会の大学受験の様子をテレビで観ながら、この大学受験競争は世俗的な人身供犠ではないかと思わされま
した。自分の子供が自分たちの考える良い大学に進学し、一流企業に就職して、安定的な生活ができるよう
にという考え方です。この考え方は、金、つまり資本を神とする宗教における人身供犠と言えるのではない
でしょうか。日本で言えば、一流と言われる大学を出て、国家公務員や大企業に就職していくということに
なりますが、そうすることによって、資本を崇拝する宗教を支えていると言えるのではないでしょうか。そ
のような人々によって、この社会の中に「正義と平和」が生み出されることはあり得ないと言えるでしょう。
安倍首相にしても、菅官房長官にしても、テレビで観ていて、この人たちからは、一人ひとり、特に社会的
に弱い立場の人たちの命と生活に思いを寄せているという感じは、私には全く伝わってきません。
・エジプト脱出後シナイ山でイスラエルの民は、彼ら・彼女らをエジプトの奴隷状態から解放してくれた神
ヤハウエと契約を結び、契約の民としてこの歴史を生きて行くことを誓いました。その彼らの生きる道を示
す定めとして「十戒」が彼ら・彼女らに授けられました。その十戒とは、「わたしは主、あなたの神、あな
たをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という前文にはじまる十の定めです。「➀あなたに
は、わたしをおいてほかに神があってはならない。△△覆燭呂いなる像も造ってはならない。あなたの
神、主の名をみだりに唱えてはならない。ぐ詑日を心に留め、これを聖別せよ。イ△覆燭良稱譴魴匹─
殺してはならない。Т淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。
・ 安倍首相や菅官房長官には、イスラエルの民の、この出エジプトによるシナイ契約のめざしている
人間社会ではなく、エジプトやメソポタミイアの覇権主義的な国家に追随するものしか感じられません。
・エレミヤがもしこの時代とこの国に現れて、預言を語ったとすれば、エレミヤの時代にイスラエルの民に
語ったと同じように、このまま進んでいけば、8章3節の言葉 <わたしが他のさまざまな場所に追いやった、
この悪を行う民族の残りの者すべてにとって、死は生よりも望ましいものとなる、と万軍の主は言われる>
の<死は生よりも望ましいものとなる>が現実となっていくのではないでしょうか。福島東電第一原発事
故への対応が不十分なまま、原発再稼働を許し、辺野古新基地建設を、反対する沖縄の方々を海上保安庁や
機動隊を導入して力で封じ込めて進め、安保法制による戦争のできる国造りに邁進する安倍政権とそれを支
持する人々の目論見が通るとするならば、「残りの者」すなわちこれらに反対し、一人ひとりの命と生活を
大切にすることを求めている人々すべてにとって、「死は生より望ましいものとなる」のではないでしょう
か。
・その意味で、わたしたちの置かれている状況は、エレミヤ自身が置かれていた状況と、深い所では繋がっ
ているように思えてなりません。すでに今の日本の状況は、人々の中には、<死は生よりも望ましいものと
なる>というエレミヤの預言が、文字通りそのように感じられ、自ら死を選んで行く人々も出ているのでは
ないでしょうか。どんでもない状況の中でわたしたちは日常を過ごしているのではないでしょうか。しかし、
私たちの中には、この厳しい状況とは無関係を決めて、私的生活を享受できる人もいるに違いありません。
明治以降の日本の歴史の中で、富国強兵を天皇制国家によって築いてきたわけです。その中で豊かさを享受
していた人もいたに違いありません、けれども、敗戦という出来事は、富国強兵という国家的幻想の結末を
明らかにしました。
・敗戦によって、絶対に戦争はダメという認識と決意が多くの人々の中に生まれました。戦争放棄をうたう
憲法第9条を、私たちの礎として、再び戦争をすることのない社会を造ろうという思いで、戦後を生きて来た
人々が圧倒的に多かったと思われます。戦後70年、戦争の悲惨さを体験した人が少なくなり、それを全く知
らない人々が多数となって行く中で、戦中戦後の貧しい時代から豊かな社会を造り出したことによって、豊
かさへの幻想にしばられて、経済優先の考え方が、今平和を求める人々の思いを押しのけているのではない
でしょうか。原発も武器も他国に売ることによって、日本の経済を活性化するという政策が勧められている
のです。政府が、自らが犯した侵略戦争への反省もなく、再び富国強兵の道に進めようとしている時、この
エレミヤの預言から、主イエスを信じてここに集まっている私たちは、何を聞かなければならないのでしょ
うか。
・「死は生よりも望ましいものになる」と言われていますが、そのようになってはなりません。そうならな
いために、私たちなりに、その流れに抗い続けて行くことではないでしょうか。最後に、少し長くなります
が、コリントの信徒への手紙一、15章50節以下を朗読して、終わりたいと思います。<兄弟たち、わたした
ちはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐ
ことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありませ
ん。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない
者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死な
ないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なな
いものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。/死よ、
お前の勝利はどこにあるのか。/死よ、お前のとげはどこにあるのか」。死のとげは罪であり、罪の力は律
法です。わたしたちは主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしたち
の愛する兄弟たち、こういうわけですあkら、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主
に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです>。