なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(28)

  「命の言葉を聞く」エレミヤ書11:1-14、2016年2月7日(日)船越教会礼拝説教

・私たちがイエスを信じて、イエスに従う者として、どのようなアイデンティティーを持っているのか、

ということは大変重要なことです。

アイデンティティーとは何かといいますと、辞書ではこのように言われています。<1、自分が独自性

を持った存在であるという明確な意識。主体性。2、組織、民族、国家などの共同体の、観念的な同一性。

国家(民族)の場合、ナショナル・アイデンティティーと呼ぶことが多い>。

・イエスを信じて、イエスに従う者は、実際には単独で、たったひとりで存在しているのではありません。

エスに招かれ、呼び集められた者の群れの一員として存在します。イエスに招かれ、呼び集められた群

れを、私たちは教会と呼んでいます。ですから、教会は一つの共同体です。私たちは今このように礼拝を

共に捧げているのでありますが、このような私たちの集団を礼拝共同体と呼ばれることがあります。この

礼拝共同体はこの船越教会の礼拝に集まっている私たちだけでなく、全世界の諸教会の礼拝に集まってい

る人たちすべてもこの礼拝共同体の一員であるということもできるでしょう。

・そういう礼拝共同体でもある教会という共同体のアイデンティティーは何なのでしょうか。

・エレミヤはイスラエルの民のアイデンティティーを、伝統に従って先祖の出エジプトの出来事に見いだ

しています。その中心にはイスラエルの民を奴隷の地エジプトから解放した神ヤハウエとの契約がありま

した。先ほど司会者に読んでいただいたエレミヤ書の箇所に、<この契約の言葉を聞け>(2節)、<この

契約の言葉に聞き従わない者は呪われる>(3節)、<この契約の言葉を聞き、これを行え>(6節)、<

今、わたしは、この契約の言葉をことごとく彼らの上に臨ませる>(8節)と言われています。ここに<

契約の言葉>とあります。この<契約の言葉>は、4節、5節によれば出エジプトの出来事におけるモーセ

を介して神とイスラエルの民との間に結ばれたシナイ契約に遡ると言われています。<「・・・これらの

言葉はわたしがあなたの先祖を、鉄の炉であるエジプトの地から導き出したとき、命令として与えたもの

である。わたしは言った。わたしの声に聞き従い、あなたたちに命じるところをすべて行えば、あなたた

ちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる。それは、わたしがあなたたちの先祖に誓った誓

いを果たし、今日見るように、乳と蜜の流れる地を与えるためであった」>。シナイ契約における神の

命令とは、イスラエルの民を奴隷の地エジプトから解放した神ヤハウエのみを神とし、隣人の命と生活

を奪うことなく互いに互いを大切にし合って生きよという十戒を意味しました。この十戒は、かく生き

よ、そうすれば祝福した人生をイスラエルの全ての人が生きることが出来るという神の定め、律法でし

た。このエレミヤ書の箇所の<契約の言葉>は、そのシナイ契約の神の命令に遡る契約の言葉が記され

ている「申命記の律法」を指していて、このエレミヤ書の預言で語られているのは、ヨシヤ王の宗教改

革へのエレミヤの批判であります。ヨシヤ王はエルサレム神殿から発見された申命記の律法に従って、

ヤハウエ信仰を捨て異教の神々を礼拝していた当時のイスラエルの民が神ヤハウエとの契約に基づいて

生きる契約の民に立ち戻るように宗教改革を行いました。エレミヤもこのヨシヤ王の宗教改革に積極的

に参加しました。しかし、このヨシヤ王の改革運動は、エレミヤからすると、厳しい批判を避け難い現

実を伴うようになっていったようです。

・9節、10節にはこのように言われています。<主はわたしに言われた。「ユダの人々とエルサレムの住

民が共謀しているのが見える。彼らは昔、先祖が犯した罪に戻り、わたしのことばに聞き従うことを拒み、

他の神々に従ってそれらを礼拝している。こうしてイスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの先祖と

結んだ契約を破った」>と。さらに11節以下には、<それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしは彼

らに災いをくだす。彼らはこれを逃れることはできない。わたしに助けを求めて叫んでも、わたしはそれ

を聞き入れない。ユダの町々とエルサレムの住民は、彼らが香をたいていた神々のところに行って助けを

求めるが、災いがふりかかるとき、神々は彼らを救うことができない。ユダよ、お前の町々の数ほど神々

があり、お前たちはエルサレムの通りの数ほど、恥ずべきものへの祭壇とバアルに香をたくための祭壇

を設けた。あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげてはなら

ない。災いのゆえに、彼らがわたしを呼び求めてもわたしは聞き入れない。」>。

アイデンティティー・クライシスという言葉があります。その意味は、<自己同一性認識の危機。自

己喪失。自分の実体や社会的役割がみえなくなり、心理的に危険な状態になること>と辞書にはあります。

イスラエルの民自身は気づいていなかったと思われますが、エレミヤはここで同胞イスラエルの民のアイ

デンティティ・クライシスを問題にしているのです。エレミヤにとって同胞イスラエルの民は自分たちが

何者であるか見失っているのです。自分たちの先祖を奴隷の地エジプトから解放してくださった神ヤハウ

エをのみ神と信じ、その神ヤハウエのかく生きよという定めに従って、この歴史社会を契約の民として

生きていくこと、そのことがイスラエルの民のアイデンティティーだったのです。

・イエスを信じ、イエスに従って生きる私たち信仰者もまた、このイスラエルの民に与えられた神の契

約を継承しているのではないでしょうか。この神の契約は、過去に遡れば、人が人を支配略奪すること

を許さない、誰であろうと神の下に対等同等な人間同士として、互に他者の命と生活を奪うことなく、助

け合い支え合って祝福された生をいきるというシナイ契約にたどり着きます。将来を望み見るならば、

聖霊によって与えられる義と平和と喜び」(ロマ14:17)の支配する神の国の完成です。この信仰のよ

アイデンティティによって私たちは一つにされているのではないでしょうか。教会はその証言者の集

まり、イエスを長子とする兄弟姉妹団です。そのことを私たちはこのエレミヤ書の預言を通して再確認

したいと思います。

・最近政治学者であった丸山眞男が1945年8月15日の敗戦から1年もたっていない、翌年の1946年3月に執

筆し、その年から発刊した雑誌『世界』の5月号に掲載された、戦前の日本の天皇制国家を分析した「超

国家主義の論理と心理」という有名な論文があります。私は丸山眞男のものは今までほとんど読んでいま

せんでしたが、最近書店で岩波文庫の書棚を見ていましたら、丸山眞男の『超国家主義の論理と心理』と

いう文庫本を見つけましたのでそれを買って、その論文を読んでみました。この論文の中にキリスト教

について触れているところが二か所あります。

・一つは、<幕末に日本に来た外国人は殆ど一様に、この国が精神的(スピリチュアル)君主たるミカ

ドと政治的実権者たる大君(将軍)との二重統治の下に立っていることを指摘しているが、維新以後の主

した。・・・そうしてこれに対して内面的世界の支配を主張する教会的勢力が存在しなかった>という箇

所です。明治維新によって日本が天皇制国家に統一された時に制度だけでなく人間の内面的世界までも支

配したわけですが、その時に日本には天皇制を拒絶する「内面的世界の支配を主張する教会的勢力が存在

しなかった」というのです。

・もう一つは、教育勅語をめぐる基督教と国家教育との衝突問題での論争に触れている所に、<「国家主

義」という言葉がこの頃から頻繁に登場し出したということは意味深い」とあって、<この論争は日清・

日露両役の挙国的興奮の波の中にいつしか立ち消えになったけれども、ここに潜んでいる問題は決して

解決されたのではなく、それが片づいたかのように見えたのは基督教徒の側が絶えずその対決を回避し

たからであった」と記されているところです。

・この二つの箇所において丸山は、キリスト教には、或はキリスト教を信じている人には、天皇制イデ

オロギーを批判し、拒絶できる独自のアイデンティティーがあるということを前提にして書いているよ

うに思われます。そのことは前にも紹介したことがあるかと思いますが、『待つしかない』という本の

中で劇作家の竹内敏晴も、天皇制を批判できるのは仏教ではなくキリスト教だと思うから、自分は何度

かそのことを文章にしたけれども、神は語るが十字架を言わないキリスト教にはがっかりしてしまったと

いうことを言っています。私たちはこの二人のキリスト教批判を私たちへの期待と共にしっかりと受け止

めなければならないと思うのであります。特に現在の安倍政権が福島の人々や沖縄の人々をかえりみず

、彼ら彼女らを犠牲にして強い日本の国家をつくろうとしています。この流れが続いていけば、明治20

年代以降のキリスト教と国家教育との衝突が繰り返される可能性が大きいと思われます。そういう状況

の中で、ますます私たちキリスト者アイデンティティーが問われる場面が多くなっていくのではない

でしょうか。

・イエスが弟子を宣教に派遣するときに、「蛇のようにさとく、鳩のように素直であれ」と言われたこ

の言葉を肝に銘じながら、イエスを信じ、イエスに従う者としてのアイデンティティを見失うことなく、

したたかに自分の与えられた場で生きて行きたいと願わざるを得ません。主が一人ひとりを導いてくだ

さいますように!  アーメン。、