なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(27)

  「人はその道を定め得ず」エレミヤ10:17-25、2016年1月31日(日)船越教会礼拝説教


エレミヤ書を読んでいて感じるのは、エレミヤという預言者の立ち位置というか、同胞であるイスラ

エルの民の一員として、イスラエルの民の苦悩を一身に担いつつ、イスラエルの民を内側から批判し、

そのあるべき姿を指し示している預言者としてのアイデンティティー(在り様)であります。

・エレミヤの同時代のイスラエル民族総体としての在り様からすれば、エレミヤはそれに同調している

わけではありません。否むしろ預言者としてエレミヤは、神ヤハウエとの契約を捨て、異教の神々を礼

拝していた当時の南ユダのイスラエルの民の在り様を、裁きと赦しの神の言葉をとりつぐことによって

批判しているのであります。決して同調しているわけではありません。むしろ同胞である彼ら・彼女ら

から距離を置いている異質な存在として、彼ら・彼女らと関わっていると言ってもよいでしょう。しか

し、エレミヤは決して同胞であるイスラエルの民を見捨てはしません。常に共に生きることを志し、事

実そのように歩んでいるのです。

・今日のエレミヤ書のところにも、そのようなエレミヤの姿が鮮明に描かれているのであります。今日の

ところは前半の17節から22節までと、後半の23節から25節までとが、内容的に二つにわけられます。新共

同訳聖書には、そのところに特に小見出しはありません。しかし、岩波訳聖書では、前半が「群れは散ら

される」、後半は「人間の道は人間のものではない」という小見出しがついています。関根訳にも前半は

「敗戦」、後半は「エレミヤの祈り」という小見出しがあります。前半は、17節に「包囲されて座ってい

る女よ/地からお前の荷物を集めよ」と言われていることからも分かりますように、外国の軍隊によって

町が包囲されて、その包囲された町にいる女に呼び掛けられているのであります。岩波訳ではここはこの

ように訳されています。「地から取り集めよ、あなたの荷物を、/囲みの内に住む女よ」となっています。

18節では、「主はこう言われる。/見よ、今度こそ/わたしはこの地の住民を投げ出す。/わたしは彼ら

を苦しめる/彼らが思いしるように」と言われています。新共同訳で「彼らが思いしるように」と訳され

ているところは、岩波訳では<彼らを苦しめる>に続いて、「その結果やっと、彼らが『わたしを見いだ

すことができるように』」と訳されています。

・この18節には、「今度こそ」とあり、「今度こそ容赦せずに投げ出して、苦しめる。それは女が自分の

悪を思い知るため、つまりその結果、再びイスラエルの民が神ヤハウエを見いだすことができるためだと

言うのです。イスラエルの民を外国軍(バビロニアの軍隊)に投げ出すことによって、彼ら・彼女らを苦

しめると言われる神は、高みから平然とそのように語る神ではありません。そのイスラエルの民は、自ら

と契約を取り交わした神が選んだ民です。契約は双務契約ですから、選んだ神にも責任があります。神は

イスラエルをその真実と愛によって選んだに違いありません。とすれば、その自らが選んだイスラエル

民をバビロニアの軍隊に投げ出すわけですから、そのことによって神ご自身も苦しんでおられるに違いあ

りません。その神の苦悩をエレミヤは、バビロニアの軍隊によって滅ぼされ、捕囚の民をバビロニアに連

れて行かれるという敗戦を経験するイスラエルの民の悲惨と共に経験するのです。神の苦悩とイスラエル

の民の悲惨をエレミヤは預言者として共に経験するのです。

・19節はエレミヤ自身を指している言葉と思われますが、このように言われています。「ああ、災いだ。

わたしは傷を負い/わたしの打ち傷は痛む。/しかし、わたしは思った。/『これはわたしの病/わたし

はこれに耐えよう』」(19節)。このところを木田献一さんはこのように解釈しています。<エレミヤは

自分と民族の運命を一つとして考えている。それゆえの苦悩である。しかしエレミヤはそれを超えていく。

「これはわたしの病、わたしはこれを耐えよう」と言うのである。民族の病をはっきりと「これはわたし

の病」と言えるところに民族を超え、民族を神の民へと引き上げる力がある>と。このエレミヤの病は、

エスの受難を証言するイザヤ書53章の苦難の僕の歌の一節を思い起こさせてくれます。そのところを

読んでみたいと思います。

・<・・・彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。/・・・彼が担っ

たのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神

の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。/彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背

きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。/彼の受けた傷によって、

わたしたちはいやされた>(イザヤ53:3-5)。

・今日のエレミヤ書の後半の「エレミヤの祈り」の中にもこのような言葉があります。<主よ、わたしは

知っています。/人はその道を定めえず/歩みながら、足取りを確かめることもできません。/主よ 、

わたしを懲らしめてください/しかし、正しい裁きによって。/怒りによらず/わたしが無に帰すること

のないように。>(23,24節)。エレミヤは、「人の途は自分の力によらないと知りつつ、与えられた途

を全き従順を以って歩み通す困難を、・・・預言者としての従順を貫き通すことの困難をつぶさに感じ

た人(でありました)。ここでもその困難を訴えているので(あります)。そしてエレミヤは「自己の

罪深き認識の中から尚神にすがり神のこらしめを受けて神に従い得るものとされたいと切に祈っている

のです。神にこらしめられなければ自己は神に従順たり得ない、否このような不従順な者は神の処罰を

蒙ることは当然であると想いながら、自己の弱さを知る者として神の怒りが自己を永遠に滅ぼす怒りと

して発動することを恐れているのであります。宗教改革者のルターは、「神の処罰の中に神の永遠の怒

りでなく、神の恵みと憐みを見いだすことが神への真の信頼の途であるということが出来る」と言って

います。

・エレミヤは神によって懲らしめをうけなければ、自分は神に従順な者とはなり得ないという、自分の

弱さを知っていたがゆえに、このような祈りをすることができたのでしょう。そしてこのように祈るこ

とによって、エレミヤは神への不従順から解き放たれて、神の義しさにすがることができたのではない

でしょうか。

パウロもローマの信徒への手紙3章で語っていますように、わたしたちの中に正しい者は一人もいませ

ん。「正しい人」とは義人です。つまり神の懲らしめを受けないでは、だれ一人「正しい人」はいない

のです。ところが、パウロはローマの信徒への手紙3章で、自らはそれ自身で「正しい人」たり得ない私

たちですが、信仰による義が私たちすべてに与えられていると言うのです。「すなわち、イエス・キリス

トを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は

皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、

神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ3:22-24)と。このイエス・キリストにおける神の無償

の恵みによって日々新たにかえられなければ、私たち不従順な者がこの社会の中でこの世の光となり、地

の塩となることがどうしてできるでしょうか。

・エレミヤが言うように、<人はその道を定めえず/歩みながら、足取りを確かめることができ>ないの

です。そのような者がどうしてこの現代の非人間的な社会のシステムの中で、他者との関係を断絶するこ

となく、共に生きつつ、このシステムが強いる悪に打ち勝つ道を生きることができるでしょうか。むしろ

そんなことができない弱さを私たちが抱えているからこそ、エレミヤは神に懲らしめを求めたのではない

でしょうか。<主よ、わたしを懲らしめてください。しかし、正しい裁きによって。怒りによらず、わた

しが無に帰ずることのないように>(24節)と。弱さを内に抱える肉なる自分が神の裁きによって死んで、

新らしく神に従順な人間として誕生させていただくことによって、私たちは神我らと共にいまし給う世界

を生きることができるのではないでしょうか。その神われらと共にい給う世界である神の御国においては、

他者と競争することによって、お互に奪い合い、殺し合う抗争ではなく、分かち合い、支え合うことによ

って、お互いが他者を生かし合い、だれ一人そこにいてはならないということのない、すべての人が包み

込まれる世界を、この非人間的な社会のシステムの中で生きつつ、未来の希望として生きることへと招か

れているのではないでしょうか。それがエレミヤの立ち位置であり、私たちキリスト者の立ち位置では

ないでしょうか。