「懲らしめを受け入れよ」エレミヤ書6:1-8、2015年8月23日(日)船越教会礼拝説教
・古代イスラエル人にとりまして、エルサレムは特別な町でした。おそらく古代イスラエル人の子孫である
現在のユダヤ人にとりましても、エルサレムは特別な町であるに違いありません。今日のエレミヤ書の箇所
は、そのエルサレムにつての預言が記されているところです。この箇所は「北からの災い」について記され
ているところで、同じ北からの災いについて記されています、4章及び5章と密接な関係にあります。その4章
5節、6節には、このように語られていました。
・<ユダに知らせよ。エルサレムに告げて言え。/国中に角笛を吹き鳴らし、大声で叫べ/そして言え。「集
まって、城壁に逃れよう。/シオン(エルサレム)に向かって旗を揚げよ。/避難せよ、足を止めるな」と。
/わたしは北から災いを/大いなる破壊をもたらす。>
・この4章5節、6節では、神がユダの国に北からの災いをもたらす時に、エルサレムはイスラエル人の避難所
となると言われているのであります。ところが6章1節を見ますと、<ベニヤミンの人々よ/エルサレムの中か
ら避難せよ>と呼び掛けられてます。ベニヤミンの人々とは、預言者エレミヤもその一人であったイスラエル
12部族の一部族の人々で、エルサレムの周辺地域からエルサレムに避難していていた人々です。そのベニヤミ
ン族の人々に向かって、この危険に晒された町を去り、ユダの荒野付近の道もない山地に逃れえよ、と警告を
発しているのです。
・6章2節には<美しく、快楽になれた女、娘シオンよ/わたしはお前を滅ぼす>と言われています。<豪奢な
建物を連ね、(イスラエルの神)ヤハウエの神殿を擁する町、神によって優遇されているが故に誰も侵し得な
いと自ら思い込んでいる町を、神は滅亡にひき渡される、というのであ>ります(ATD邦訳179頁)。
・しかも他国の軍隊を使って、そうするというのです。3節の<羊飼いが、その群れと共にやってくる>と言わ
れているのは、他国の軍隊を指していると考えられます。しかも4節では<シオンに対して戦闘を開始せよ>と
言われています。このところは岩波訳では<聖戦の布告を彼女(シオン)に対してせよ>と訳されています。エ
ルサレムへの他国の軍隊の攻撃を「聖戦」、聖なる戦いと言われているのです。
・このエレミヤの預言からしますと、エレミヤはベニヤミン族の人々をはじめ、イスラエルの12部族の人々、つ
まりイスラエルの人々のことは考えていますが、王国としての北イスラエルや南ユダ、つまり国家については、
イスラエルの人々と同じようには考えていなかったのではないでしょうか。今日のところは直接的にはエルサレ
ムの町について、エルサレムの町が他国の軍隊によって攻撃されて、ついには滅ぼされてしまうだろうという預
言です。エルサレムの滅亡はユダ王国の滅亡でもありますから、エレミヤは自らが属するユダ王国という国家が、
その国家のあり様によっては、滅ぼされても致し方ないと考えていたということになります。
・エレミヤはヨシヤ王の宗教改革に期待したところがありますので、国家などは全くない方がいいというアナキ
ストではないと思われます。しかし、その国家がただ民衆を抑圧するだけで、その国家の下で民衆が不法と暴力
に苦しむだけならば、そのような王国(国家)は神によって滅ぼされてしかるべきだと考えていたのではないか
と思われます。ユダ王国の都であるエルサレムに対して、6節、7節には、このように言われています。
・<まことに、万軍の主はこう言われる。/「木を切り、土を盛り/エルサレムに対して攻城の土塁を築け、/
彼女は罰せられるべき都/その中には抑圧があるのみ。/泉の水が湧くように/彼女の悪は湧き出る。/不法と
暴力の叫びが聞こえてくる。/病と傷は、常にわたしの前にある>。ここに「木を切り、土を盛り、エルサレム
に対して攻城の土塁を築け」と言われていますが、このような攻撃の仕方はバビロニアのやり方で、この預言の
背景にはバビロニアによるエルサレム攻撃があると考えられています。4章、5章の北からの災いが北方の騎馬民
族スクテヤ人であったのとすれば、「北からの災い」には、騎馬民族のスクテヤ人とユダ王国を滅ぼした新バビ
ロニア帝国が考えられているといえます。いずれにしろ、神は他国の軍隊を用いて、「その中に抑圧があるのみ」
で、「不法と暴力の叫びが聞こえてくる」に過ぎないエルサレムを滅ぼすと言うのです。
・預言者エレミヤには、例え王国(国家)が滅んでも、イスラエルの民がどのように生きていくべきなのかとい
うイメージが明確にあったのではないでしょうか。それはイスラエル国家というイメージではありませんでした。
神ヤハウエを中心にした契約共同体としてのイスラエルの姿でした。しかもあの出エジプトにおいてモーセを指
導者として結んだシナイ契約のような契約共同体ではありません。シナイ契約では、その神との契約によってイ
スラエルの民が生きる道は二つの石の板にしるされた十戒(律法)に示されていました。イスラエルの民はその
神から与えられた律法を守ることによって命をえることができたのです。しかし、そのイスラエル契約共同体は、
自らの内に王制を取り入れ、王国という国家体制をもつことによって、変質していきました。周辺の覇権主義的
な国家であるアッシリアやエジプトやバビロニアの影響を受けて、神ヤハウエとの契約共同体としてのイスラエ
ルはイスラエルの民の中から徐々に消えていき、王国のイデオロギーにイスラエルの民は吸収されてしまったの
ではないでしょうか。エレミヤのような預言者は、そのような王国の問題性を感じ取って、イスラエルの民に神
との契約共同体としてアイデンティティーを呼び起こそうと、預言活動を展開したのだと思います。
・さて、エレミヤが抱いていた、例え王国が滅んでしまったとしても、他国の支配下に入ってしまったとしても、
存続していくイスラエルの民のイメージは、新しい契約共同体の姿でした。これはいずれ学びますが、エレミヤ
書31章に記されています。そこでは、「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主
は言われる」(31:33)と記されていて、このように言われています。<すなわち、わたしの律法を彼らの胸の
中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人
どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを
知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの罪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない>
(31:33-34)と。
・エレミヤは、預言者としての活動の初期の段階から、このような「新しい契約」という考え方を持っていたの
かどうかは分かりません。しかし、国家を前提にしなくても、イスラエルの民の未来を描くことができたのは、
イスラエルの民の中にシナイ契約の伝統が脈々として生きていたからではなかったかと思われます。このシナイ
契約の伝統は、一人の神の下にすべての人は対等同等であって、「みんなちがってみんいい」という互に他の人
の命と生活を奪ってはならない、互に支え合い、分かち合って生きるという共同体です。
・説教集の中でも紹介していますが、東日本大震災の後で新生釜石教会牧師の柳谷雄介さんがおっしゃっていた
ことを思い起こします。柳谷雄介さんは、「・・・・僕にとって見れば、あの日が天地創造だというくらいに
思っていて・・・・。その前はすごく混乱していて、けれどもあの日、多くの方が言っていますけど、星がきれ
いでしたよ。何もなくなってみて星がきれいだったというのは、すごく象徴的ですが、「あの日、光があった」
と思うんですよ。それはでかでかとまぶしい光ではないけど、やけに美しくて。
思い起こして見みると、あの日なんにもなくなってみんながどうしたかというと、自分のことだけ考えたので
はなくて、津波の中にいる人を助けたり、食べ物のある人はない人に配ったり、お年寄りや子どもを優先して。
それも光だったと思うんですよね。あの日、神さまからOKを出されたという気持ちがあるんですね。身内をなく
した方がそれでOKかと言えば、今の僕にはわからない面が多いけれど、うまく言えないのですが・・・・。
あの日、あれでOKだったんだ、というところに立って、それが本当にずしんと体の中で入ってきたら大きいだ
ろうと思うんです。何もなくても何もできくてもOKなんだ。弟子たちが逃げてしまったように、僕も何もできな
かったけど、でも本当に偶然が偶然を呼んで人を助けちゃったとか、偶然につながりができちゃったとか、自分
の力じゃなくて生かされている。・・・・・これがもっともっと強くなっていくといいと思うんですけど。なん
かこう、自分がそのままでいていいということが、確信に一歩近づいたんじゃないかと思っています」
・この思いは、阪神淡路大震災の後でも感じた人がいたようです。自分が自分らしく生きらえて、隣人もその
人らしく生きられて、互いの助け合い支え合っていくことができるお互いの関係にあって、人が共に生きてい
くことができれば、最高ではないでしょうか。
・エレミヤには、そのような共同体として私たちが生きていくことが出来るという信仰が強くあったのではない
でしょうか。それはユダヤ教という宗教教団でも、キリスト教という宗教教団でもなく、神ヤハウエの下にある
新しい契約共同体であり、私たちにとってはイエス・キリストの兄弟姉妹団と言ったらよいでしょうか。
・エレミヤと共に、私たちがもしそのような共同体をめざして生きていくならば、国民国家を前提にした安倍政
権がめざす安全保障法案による国造りは、私たちにとっても平和の阻害にはなっても、平和と安全を保障するも
のでないことは明らかです。私たちは国民国家を前提にした人間関係の呪縛から解放されて、人と人とのつなが
りを見出していくことが出来るのです。そのことを見失わずに、今この時代を一人の人間として、またキリスト
者として歩んでいけますように。