「忠誠と反逆」エレミヤ書35:1-19、2018年5月6日(日)船越教会礼拝説教
・私たち人間にとって一番恐ろしいことは、誤った道を正しい道と勘違いして、その道を驀進すること
ではないでしょうか。
・私は山登りが登るような高い山には登りませんが、例えばエヴェレストのような高い山に登るためには、
どのように登って行くかという登山計画が綿密に立てられ、これならば山頂に到達できるという道や登る
時期を決め、自分の体調も整え、またサポート体制も万全にして、その山登りに挑戦していくのではない
かと思います。そのようにしても、成功するとは限りません。おそらく失敗することも多いのではないか
と思います。しかし、そのように万全な準備をしてはじめて、成功の可能性があるのではないでしょうか。
・私たち人間が生きるということも、山登りと同じではないでしょうか。人間には、この地球上に人類が
誕生して以来、何十万年という歴史があります。はじめは大地という自然との向かい合いの中で、私たち
の先祖は生き抜く手立てを見い出しながら、同時に他者である隣人とどのような関係を築いていけば、楽
に生きて行けるかを模索しながら、生きる道を発見していったに違いありません。
・人間の集団が大きくなるに従って、集団内の規律や集団の間の葛藤をどのように治めていくかが問われ
るようになります。旧約聖書の預言者サムエルと最初の王サウルの物語には、部族(→民族)間の侵略に
旧約の民イスラエルがどう対処するかという大変厳しい問いに、イスラエルの民がどう応えるのかという
問題が背後にありました。
・それ以前にイスラエルの民は、モーセを指導者にして、奴隷であったエジプトからの脱出=解放という思
わぬ出来事を経験していました。それ以来明確にイスラエルの民は、奴隷の地エジプトから導き出してくだ
さったのは、先祖の人たちが信じて来た神ヤハウエの導きであると信じました。そして、ひとりの神を信じ、
同信のイスラエルの民一人ひとりは、その神の前に同等対等な存在として、互に隣人の命と生活を奪い合っ
てはならないという法に従って生きていくことを選び取って行きます。
・その契約共同体としてのイスラエルの民が、根本的に問われたのが、他民族からの侵略にどう対処するか
いうことだったのです。具体的には鉄器文化をもったペリシテ人の侵略です。イスラエルの民はサウル王を
立てることを選びます。イスラエルの民には、それまでは王はいませんでした。王という権力者を立て、武
力を以って侵略してくるペリシテ人に対して、武力で対抗する道を選び取ってしまったのです。それ以来イ
スラエルの民は王国時代を経験します。そしてエジプトやメソポタミヤの強大な王国が衰退した一時期、ダ
ビデ・ソロモン王国の繁栄をイスラエルの民は経験します。けれどもその12部族統一王国はソロモン以降南
北に分裂し、北王国は紀元前722年アッシリヤによって、南王国は紀元前587年にバビロニアによって滅ぼさ
れてしまいます。
・預言者は、エレミヤを含めて、この王国時代に活躍しており、王国時代のイスラエルの民の神ヤハウエに
対する不信仰とその背信を糾弾しています。私は最初に、「私たち人間にとって一番恐ろしいことは、誤っ
た道を正しい道と勘違いして、その道を驀進することではないでしょうか」と申し上げました。王国時代の
イスラエルの民は、残念ながらこの「誤った道を正しい道と勘違いして」しまうという落とし穴に落ちてし
まったのです。
・エレミヤ書35章でエレミヤがその預言で語っていることは、その落とし穴に落ちてしまったイスラエルの
民ユダの人々が神に立ち帰って生きよ、もう一度やり直せ、ということです。
・そのために35章のエレミヤの預言では、「ユダの人々の不真実が、レカブ人の忠誠心と対比」されていま
す。おそらくヨヤキム王の治世の最後の時期、バビロンのネブカドレツァル王がエルサレム攻撃を開始した
紀元前599/598年頃のことだと思われます。天幕で住み遊牧民の生活様式を厳格に守って、農業や都市に関
わるものを一切拒否していたレカブ人の一族が難を避けて、エルサレム場内に滞在していました。エレミヤ
は、彼が公然と預言活動をするのを助力していた地位の高いハナンという人物の部屋にレカブ人一族を招
いて、神の指示に従って象徴行為を行います。当然断られるに決まっているぶどう酒をレカブ人に差し出
し、彼らがはっきりと拒絶する光景を人々に示したのです。そしてエレミヤは、「イスラエルの神、万軍
の主はこう言われる」と言って、ユダの人々とエルサレムの住民に、神の言葉を取り次いで預言したので
す。
・【お前たちはわたしの言葉に従えという戒めを受け入れないのか、と主は言われる。レカブ人の子ヨナダ
ブが一族の者たちに、ぶどう酒を飲むなと命じた言葉は守られ、彼らはこの父祖の命令に聞き従い、今日に
至るまでぶどう酒を飲まずにいる。ところがお前たちは、わたしが繰り返し語り続けてきたのに聞き従おう
としなかった。わたしは、お前たちにわたしの僕である預言者を、繰り返し遣わして命じた。「おのおの悪
の道を離れて立ち帰り、行いを正せ。他の神々に仕えて従うな。そうすれば、わたしがお前たちと父祖に与
えた国土にとどまることができる」と。しかし、お前たちは耳を傾けず、わたしに聞こうとしなかった】
(12b~15節)と言われています。
・そして、【レカブの子ヨナダフの一族が、父祖の命じた命令を固く守っているというのに、この民はわ
たしに従おうとしない。それゆえ、イスラエルの民、万軍の主はこう言われる。わたしは、ユダとエルサ
レムの全住民に対して予告したとおり、あらゆる災いを送る。わたしが語ったのに彼らは聞かず、わたし
が呼び掛けたのに答えなかったからである】(16,17節)という審きの言葉が語られているのです。
・「おのおの悪の道を離れて立ち帰り、行いを正せ。他の神々に仕えて従うな」とは、「誤った道を正し
い道と勘違いして」生きているイスラエルの民ユダの人々に、悔い改めを迫ることばです。彼ら彼女らと
っての真実とは、奴隷の地エジプトから解放して下さった、ひとりの神ヤハウエの下に、善人であろうが
悪人であろうが、すべての人が神によって命与えられ、生かされていることをベースにして、互の尊厳を
認め合い、互いの命と生活を大切にし合う人と人との関係を創造していくことなのです。
・エレミヤの時代のイスラエルの民ユダの人々は、王国による平和と繁栄という幻想に惑わされて、契約
の民として神を信じ、その神の下に互いに同等対等な者として共に生きていく、自分たちはそれぞれ主体
者なのだということを見失ってしまっていました。王国において、イスラエルの民ユダの人々は、ある種
受け身の奴隷状態に置かれてしまっていたのでしょう。エレミヤはイスラエルの民ユダの人々に、そのこ
とを気付かせ、神の民としての自らの本来的な姿に引き戻そうと、預言を語っているのです。王や異教の
神々ではなく、奴隷の地エジプトから先祖を解放したイスラエル人の神への忠誠心を問うているのです。
王国による平和と繁栄を期待して、王権と富に心をゆだねてしまったイスラエルの民は、自らが神に召さ
れた者として、契約共同体の主体的な担い手として、神の期待に応えてどのように互いの命と生活を大切
にして生きるかという課題と責任を放棄してしまっていたのです。エレミヤは王権と富への忠誠ではなく、
出エジプトの神への忠誠心をもって、イスラエルの民ユダの人々が生きることこそ、真実に生きる道であ
ることを、エレミヤはここで告げているのです。
・さて私たちはどうでしょうか。誤った道を正しい道と勘違いして、その道を驀進してはいないでしょう
か。エレミヤがイスラエルの民ユダの人々に語った、「おのおの悪の道を離れて立ち帰り、行いを正せ。
他の神々に仕えて従うな」という預言の言葉は、私たちには全く必要がないと言えるでしょうか。私た
ちは、私たちに命を贈り物としてくださった方に対して、忠誠心をもって、日々生きているでしょうか。
誤った道を正しい道と勘違いして、その道を驀進するのではなく、ひとりの人間として正しい道、真実
な道を日々生きているでしょうか。
・その意味で、エレミヤのイスラエルの民ユダの人々に語られたこの預言が、私たちには関係がないと言
えるほど、私たちは真実の道に生きていると言い切れるでしょうか。今年も3日から福島家族の保養プロ
グラム、リフレッシュ@かながわが行われていて、福島の18家族の方々が横浜に来ています。今日6日が
最終日で、福島に帰って行かれます。7年前東北大震災の中で福島東電第一原発事故が起こり、現在に至
っています。被災者への支援において、現在の政府は被災者の立場に立って対応しているとは思えません。
被ばくの危険性が回避されていない被災地に人々を帰そうとしていますし、福島を離れて避難している
被災者家族への生活支援も打ち切られています。沖縄辺野古での新基地建設も反対を押し切って強引に
進められています。米軍機、自衛隊機の事故が多発しているのに、その対処も不十分で、「国民」の命
や生活を守ろうとはしません。
・私たちが選挙で選んだ国会議員によってそういう政府が選ばれて、政治を主導しています。その政府は、
誤った道を正しい道と勘違いして、その道を驀進してはいないでしょうか。そうさせているのは、それを
止めることが出来ないでいる私たちの責任でもあります。
・けれども、預言者エレミヤの時と違って、私たちにはエレミヤの預言の成就者であるイエスがいます。
イエスは私たちを招き、真実の道に生きる者へと私たちを変えてくださいます。そのことに信頼して、新
しい週もそれぞれの場所で、身近な他者と共に、苦しむ者・痛みを持つ者と共に生きられたイエスに従っ
て歩み続けたいと願います。