「金を試す者」エレミヤ書6:22-30、2015年9月27日船越教会礼拝説教
・今読んでいただいたエレミヤの6章22節から30節までは、内容的には二つの部分からなっています。最初の
部分の22節―26節は、まずヤハウエの言葉があり、それに応答する民の言葉が続き、そして最後に預言者エレ
ミヤの言葉からなっております。最終的にエレミヤは、イスラエルの民に神の処罰を処罰として受け取ること
を勧めています。26節に<「・・・わが民の娘よ、粗布(あらぬの)をまとい/灰を身にかぶれ。/独り子を
失ったように喪に服し/略奪する者が、突如として我々を襲う」。>と言われています。
・ここで「わが民の娘よ」とは、イスラエルの民に対するエレミヤの呼びかけです。「粗布をまとい/灰を身
にかぶれ」と言われていますが、「粗布(荒布)」は、「小羊またはらくだの毛で織った黒色の粗布で、死者
のための哀悼、国家的な災禍に対する懺悔の象徴として腰にまとった(創37:34,王上21:27,サム下3:31,マタ
イ11:21,黙11:3)」(聖書事典276頁)と言われるものです。
・エレミヤは北からの敵、騎馬民族の来襲を告げる神ヤハウエの言葉に、<我々はその知らせを聞き、手の力
が抜けた。/苦しみに捕えられ/我々は産婦のようにもだえる。/野に出るな、道を行くな。/敵は剣を取り、
恐怖が四方から迫る>(24,25節)と応ずるイスラエルの民に、このように語りかけたのです。
・エレミヤが語りかけたイスラエルの民は、このとき既にアッシリヤによって滅ぼされていた北王国イスラエ
ルと、アッシリヤの脅威から逃れてまだ国として存続していた南王国ユダの国民でした。ここではおそらくま
だ存続していた南王国ユダのイスラエルの民に語りかけられているものと考えられます。弱小国が力の強い他
国によって侵略され、そのために弱小国の民は苦しむのです。このエレミヤの預言も、そのような弱小国南王
国ユダに属するイスラエルの民に語りかけられているのです。しかもここで語られています北の国からくる一
つの民の侵略は、騎馬民族による侵略が考えられていますので、突然襲って来て略奪が行われるわけです。<
大いなる国が地の果てから奮い立って来る>(22節)と言われていて、イスラエルの民にとりましては、バビ
ロニアのような大国による侵略のように、大軍を率いて、長期的に攻城する、ある程度予想できる恐怖ではあ
りません。武器は、弓と投げ槍であって、軽装で迅速であることが、侵略される人々にとっては、特別な恐怖
と不安を呼び起こすのであります。
・<略奪する者が、突如として我々を襲う>(26節)と言われており、その襲撃は<弓と投げ槍を取り、残酷
で、容赦しない。/海のとどろくような声をあげ、馬を駆り/戦いに備えて武装している。/娘シオンよ、あ
なたに向かって>(23節)と言われている通りです。25節に「恐怖が四方から迫る」と言われていますが、
「この言葉は暗殺の不安を表している」(新共同訳註解413頁)というのです。「突然襲ってくる危険と恐怖を
表す表現として使われている」のです。その苦しみは、産婦の陣痛のようであり、その悲しみは、独り子を失
った嘆きのようでありました。
・エレミヤがそのようなほとんど破滅を思わせるような終末的な恐怖と不安を伴う警告を、イスラエルの民に
発した意図は何だったのでしょうか。ただ北の国からの襲来による恐怖と不安を人々に煽るためだったとは思
えません。エレミヤは、この北の国による災いの背後に働く神の意志を人々に気づかせたかったのではないで
しょうか。そして、その神の意志に向かい合って、エレミヤが予想した北の国からの災いという、この危機的
な状況にイスラエルの民がしっかりと立ち向かうことだったのではないでしょうか。木田献一さんは、ここで
エレミヤは人々にこの危機の状況に対して、「終末的決意」をもって立ち向かうように勧めたと言っています。
終末的決意とはどのような決意を意味するのでしょうか。神の前に最後決定的なと言うか、もうその先はない
のだという思いで、自分の態度決定をするということでしょうか。
・けれども、若いエレミヤのこのような警告に耳を傾けた人々はほとんどいなかったようです。むしろ、人々
は、エレミヤを無用の不安を掻き立てる人物として、エレミヤに対して憎しみをもって反発し、迫害したり、
嘲ったりしたようです。
・そのことは、27節から30節までの、エレミヤが<彼が最初の活動期に語った預言のことばの集大成のしめく
くりとして、彼のそれまでの活動を総括し、その総決算ともなる一つの考察をここに加えた>(ATD187頁)
箇所でも明らかです。
・<わたしはあなたをわが民の中に/金を試す者として立てた。/彼らの道を試し、知るがよい>(27節)
と言われています。<「金を試す者」は、金属の純粋さを火に溶かして確かめる者、あるいは、火に溶か
して金属の滓(かす)を取り除く者>であります。エレミヤは、神によってイスラエルの民の中に「金を
試す者」として任命された預言者として、「彼らの道を試し、知るがよい」と言われているのです。
・預言者エレミヤは験す者として民の中に置かれました。験す者は何かよき成分がまだ残っていないかを検
査する者です。そのように民の中にまだ何か良い成分が残っていないかどうか験させるということは、神は
まだイスラエルの民に希望を持とうとしているのです。「神が慎重であり給う」(同)ことを示していると
も言えます。けれども良くしらべた結果はすこぶる悲観的な結論が出ざるを得ませんでした。「彼らは皆、
青銅や鉄の滓(かす)」(28節)だと、エレミヤは断定しました。彼らは皆、道をはずれ、お互いに中傷し、
罠を仕掛けて人を滅ぼす者だとしているのであります。この彼らとは、ヨシヤ王の宗教改革に携わった人た
ちを指しているという人もいます。<エレミヤは、改革に携わる人々を、火で試すように吟味したが、彼ら
の悪が取り除かれることはありませんでした。そこでエレミヤは彼らについて、<捨てられた銀の滓、彼ら
について呼ばわる。/主が彼らを捨てられたからだ>(30節)と断定しているのであります。
・このことは、エレミヤはイスラエルの民に向かって預言者として「金を試す者」として神の言葉を語るの
ですが、エレミヤの結論は、神が彼らを捨て給うたのだという神の判定(30節)をもって終わったのです。
関根正雄さんは、<民の罪それ自身の問題よりも、最後決定的なのは神の判定であり、エレミヤはここにお
いて彼の第一期の活動が全く徒労であったことを知り、同時に神の意志への全き服従においてこれを神の御
手に返したのであろう。1章から6章までに記されたエレミヤの預言活動の結論はこれであった。我々はエレ
ミヤの深き感慨を言外に読み取ることが出来るように思う。神の意思をならしめよ、例えイスラエルは滅び
るとも>(関根、旧註解70-71頁)と述べています。
・このように預言者としてのエレミヤの第一期の預言活動の総括ともいえる今日の箇所を読んでみますと、
預言者は神と民との間に立って、神の言葉を取り次ぐわけですが、民が預言者の言葉に耳を傾けず、悔い
改めを拒んだ場合、神が取り次いだ神の言葉を神に返すしかないということです。神と民との間の断絶を
預言者としてのエレミヤが埋めることはできないのでしょうか。彼自身がイスラエルの民の一人として、
神の意思と向かい合ってしかりと立ち続けることが出来なかったのでしょうか。少なくともこの1章から6章
までの第一期のエレミヤの預言を読む限り、エレミヤはイスラエルの民の強固な不信にぶつかって、自分の
預言者としての活動が、ある面で挫折して、神さまが判定してくださいと神に投げかける他なかったように
思われます。この時エレミヤが預言者になり立てで、まだ若かったらから、そうならざるを得なかったとい
うことでしょうか。
・一方福音書に描かれているイエスは、神の国の福音宣教の働きの中で、弟子たちを招き、病者を癒し悪霊
に憑りつかれた人びとから悪霊を追い出し、癒された人びととの緩やかな共生の道を歩まれたように思われ
ます。ユダヤ人という民族的な枠組みを超えて、またユダヤ教徒という宗教的な枠組みも超えて、良い者に
も悪い者にも等しく与えられている太陽や雨の恵みのように、一人ひとりに直接降り注ぐ神の愛の恵みの下
に人々を招ねきました。徴税人や遊女も排除されないいわゆる食卓共同体という人間の絆を大切にイエスは
歩まれて、最後は十字架に架けられて殺されていきました。福音書が伝えるイエスの宣教活動は、少なくと
も第一期のエレミヤの預言活動とは基本的に違っているように思われます。何が違っているかと言えば、エ
レミヤは神と民の間に立って神の言葉を語ったのですが、民の側の拒絶に出会って、神の判定に委ねて、神
に返してしまうのです。<捨てられた銀の滓、と彼らは呼ばれる。主が彼らを捨てられたからだ>(30節)
と。両者(神と民)を繋なげることができなかったのです。つまり人間の側から、この世の現実の中で神の
意思と向かい合ってしっかりと立って生きていく、神に応答する人々の群れを、エレミヤは生み出すことが
できなかったのです。その違いは何でしょうか。一つはエレミヤは契約共同体としてのイスラエルの民を問
題にしました。しかし、イエスは一人ひとりを問題にしたのではないでしょうか。もう一つは、エレミヤは
神の意思を体現して、一人の人間として生きるイエスのように人間の側に立って、神に向かい合ったのとは
違い、神の側から人間に向かい合ったという違いではないでしょうか。
・ この違いは大きいと思います。現代の厳しい状況の中で、誰と共に神と向かい合って生きていくの
かが、私たちにも問われているのではないでしょうか。