なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(23)

 新しい年の皆様の歩みの上に主の導きをお祈り申し上げます。

 下記の説教は聴覚障がいの方が礼拝に出席するというので、その方のために原稿を作りましたので、いつ

もはない小見出しをつけてあります。

     「孤独」エレミヤ書9:1-8、2015年12月6日(日)船越教会礼拝説教

➀ 孤独に陥る

・みなさんは、しみじみと自分が孤独だと思うことが、今までにあったでしょうか。

・みんなと一つになりたいけれども、なれない。自分だけが一人異質な存在に思えて仕方がない。そのような

時、人は孤独を体験するのではないでしょうか。特に考え方、生き方が、みんなはある程度同じであるのに、

自分だけがみんなとは違っていて、その溝がなかなか埋まらないで苦しむ。そのような時、その人は自分が孤

独な存在であることに、いやおうなく気づかされ、どこか遠くに逃げて行きたいという衝動に捕えられるので

はないでしょうか。

・実は、預言者エレミヤにも、そのような時がありました。先ほど司会者に読んでいただいたエレミヤ書9章

1節に、このように記されています。「荒れ野に旅人の宿を見いだせるものなら/わたしはこの民を捨て/彼

らを離れ去るであろう」と。私たちは、今までに、エレミヤという預言者が、預言者の中でも際立って、預言

者として神の言葉をイスラエルの民に取り次ぐ神の側に立っていると共に、イスラエルの民の一員として同胞

イスラエルの民との共感・共苦を強くもった一人の人間という側面をも兼ね備える預言者であることを学んで

きました。けれども、この1節のエレミヤの言葉に窺がわれるのは、同胞イスラエルの民から離れて、一人に

なりたいという思いであります。ですから、「荒れ野に旅人の宿を見いだせるものなら/わたしはこの民を捨

て/彼らを離れ去るであろう」と言っているのです。「わたしはこの民を捨て、彼らを離れ去るであろう」と

いう言葉に言い表されているエレミヤの思いは、<預言者として自分に課せられている務めに対して、嫌気が

高じ、嫌気が疲れ切った諦めとなり、出来ることなら何よりもまず逃げ出して、すべてのことに眼も耳もかさ

にいたい>というものです。

◆/世悗凌深造眇祐崙瓜里寮深造気蘯困辰織ぅ好薀┘襪量院

・これは、自分が遣わされて神の言葉を取り次ぐべきイスラエルの民が、余りにも神ヤハウエとの真実な関係

から離れて、真実からは遠く、偽りによってこの地にはびこっているからです。1節の後半から2節にかけて、

このように記されています。「すべて、姦淫する者であり、裏切る者の集まりだ。/彼らは舌を弓のように引

き絞り/真実ではなく偽りをもってこの地にはびこる。/彼らは悪から悪へと進み/わたしを知ろうとしない、

と主は言われる」と。

・ここで「姦淫する者」とは、文字通り姦淫をなす者のことが意味されえいるのではありません。比喩的な表

現と考えられます。5章7節、8節で言われていたことを思い起こしてみましょう。そこにはこのように記さ

れていました。

・「どうして、このようなお前を赦せようか。/お前の子らは、わたしを捨て/神でないものによって誓う。

/わたしは彼らに十分な食べ物を与えた。/すると、彼らは姦淫を犯し/遊女の家に群がって行った。/彼ら

は、情欲に燃える太った馬のように/隣人の妻を慕っていななく」と。

・エレミヤは、ここで言われているようなイスラエルの民の現実に直面して、眼を向けて事態を見据えられな

くなってしまったのです。エレミヤは、そのような彼の眼からすると、痛々しくさえ見える民の前から退き、

引き籠ろうとしようとしているのです。

・エレミヤを逃避にかりたてるのは、迫害に遭うかもしれないという恐れではありません。死への誘いや自分

への失望でもありません。吐き気を催させるほどのイスラエルの民の不真実、不誠実に直面して、もう彼ら・

彼女らとは一緒いられないという嫌悪感が、エレミヤに孤独への逃避を考えさせているのです。・・・なぜな

ら、信頼関係を必要とする人間であるエレミヤにとりまして、彼をとりまく虚偽に染まった空気はもはや呼吸

できないほどに感じられたからです。

エレミヤの孤独への逃避

・もしこのままエレミヤが孤独への逃避によって、預言者の務めから退き、「この民を捨て、彼らを離れ去っ

て」しまったら、どうなったでしょうか。少なくとも、聖書の中にエレミヤ書はなかったに違いありません。

吐き気を催させるほどに大きくなった人間への嫌悪は、神の真実の下にお互い誠実に生きる信頼できる人間が、

エレミヤの前にはいなかったことを意味します。

・3節から5節に、そのようなイスラエルの民の倒錯した現実が描かれています。「人はその隣人を警戒せ

よ。/兄弟ですら信用してはならない。/兄弟といっても/「押しのける者(ヤコブ)であり、/隣人を惑わ

し、まことを語らない。/舌に偽りを語ることを教え/疲れるまで悪事を働く。/欺きに欺きを重ね/わたし

を知ることを拒む、と主は言われる」と。

・ヴァイザーは<神への信実は人間に対する誠実さの中であらわれるものである。また人間相互の間の信頼は

神への信実にもとづくのである>と言っています。私は『自立と共生の場として教会』という本の中で、隣人

である他者との関係において私たち一人ひとりの神関係が問われおり、私たち一人ひとりの神関係において隣

人である他者との関係が問われていると記しました。そして、そこにおける真実はイエスの出来事において発

見できること。イエスの出来事は、この世の価値観、差別から私たちをたえず自由にし、真実の交わりを造り

出していくのです。この真実な交わりという自由への道は、主イエスに従って、「隣人を発見し」「出会い」

によって「互に変わり合い」「共に生きる」という道を繰り返しながら、主イエスにある「真実の交わり」を

不断に創造する道ではないかということを書きました。特にさまざまな痛みや苦しみを負って、この社会の中

で虐げられている人々を発見し、彼ら・彼女らと出会って、お互いが変わり合って、共に生きて行くのです。

・ところが、エレミヤが直面しているイスラエルの民には、神への真実もお互い同士への誠実さも全く失われ

てしまっていました。「舌に偽りを語ることを教え/疲れるまで悪事を働く。/欺きに欺きを重ね/わたしを

知ることを拒む」と言われています。ですから、エレミヤにとっては、そのようなイスラエルの民の前から、

自分が逃げ出す以外にないと思われたのです。

ぁ/世凌拡

イスラエルの民の絶望的な状況の中で、預言者としての務めを回避し、逃げ出して引き籠ってしまおうと考

えたエレミヤを、それでも預言者として立たせ続けたのは、一体何だったのでしょうか。それは、イスラエル

の民に対する神の審判の確かさでありました。

・つまり、イスラエルの民が神ヤハウエに背き、バール神を崇拝し、偽りと欺きによって隣人である他者との

信実な関係を破壊し、「疲れるまで悪事を働く」イスラエルの民を罰せずにはおかないという神の決意です。

・「それゆえ、万軍の主はこう言われる。/見よ、わたしは娘なるわが民を/火をもって溶かし、試す。/

まことに、彼らに対して何をなすべきか。/彼らの舌は人を殺す矢/その口は欺いて語る。/隣人に平和を

約束していても、/その心の中では、陥れようとたくらんでいる。/これらのことをわたしは罰せずにいら

れようかと/主は言われる。/このように民に対し、わたしは必ずその悪に報いる」と(6-8節)。

・人びとは、このような神の審判をくぐって、試され、浄化されるのです。エレミヤは、神への真実もお互

い同士の誠実も失って、偽りと欺きによってお互に傷つけ合って、どうしようもない、絶望的なイスラエル

の民を、試し、審き、浄化しようとする神の決意に再び目覚めるのです。そして、その神の審判の確かさに

よって、イスラエル民から離れ去り、一人引き籠ってしまいたいという己を押しとどめられることができた

のです。神は預言者エレミヤをこの神の審判遂行に与からしめるからです。

ァ,わりに

・神がイスラエルの民を審くのは、イスラエルの民が神の契約の民としてその真実を取り戻すことを期待す

るからです。もしそのような期待をもっていないとするならば、神はその民を、神をないがしろにして、偽

りと欺きによってお互いを傷つけ合っているままに、放置していたでしょう。しかし、神は熱情のお方です。

自ら命を与え、選んだイスラエルの民を自滅していくままにしておくことはしません。彼らの悪を審くこと

によって、彼らを浄化するのです。エレミヤは、その預言者としての務めを回避して、一人孤独の道を選ぼ

うとしましたが、神の熱情によって預言者の務めに引き戻されるのです。

・私は、現代においても、このエレミヤの孤独という現実逃避という事態に、私たちがいつもおかれかねな

い現実にあると思っています。それに抗って神を信じ生きるとは、どういうことなのでしょうか。マルティ

ン・ルーサー・キングがノーベル平和賞を受賞したときのスピーチの一節を紹介したいと思います。

・<・・・人類は、極めて悲劇的なことに人種主義や戦争という星なき闇夜に定められているので、平和と

兄弟愛という輝かしい夜明けは決して現実のものとはなりえないという見解は、私には受け入れられない。

国々が次から次へと軍国主義の螺旋階段を降りていって、核戦争による破壊という地獄へ進むに違いないと

いう冷笑的な意見は、私には受け入れられない。武器を帯びない真理と無条件の愛が現実において決定的な

結論を下すだろうと、私は信じている。・・・人々が至るところで自身の肉体のために日に三度の食事をと

ることができ、知性のために教育と文化を学ぶことができ、魂のために尊厳と平等と自由を得ることができ

ることを、私は大胆に信じている。・・・いつか人類が神の祭壇の前でうやうやしく頭を下げ、戦争と流血

に勝利して王冠を載せられ、贖罪の救いとなる非暴力の善意が国の規律をはっきりと示すだろうと、私は今

もなお信じている>。

・神を信じて生きるとは、まさにそういうことなのではないでしょうか。