「嘆きの歌」エレミヤ書9:9-15、2015年12月27日(日)礼拝説教
・いよいよ2015年ももうすぐ終わろうとしています。今日は2015年の最後の日曜日です。この1年を振り返り
ながら、新しい年への備えをしたいと思います。
・先程司会者に読んでいただいたエレミヤ書9章9節以下は、その前の箇所とのつながりの中にあります。前
の箇所で何が言われていたかといいますと、一言でいえば、イスラエルの民を導き、エジプトで奴隷として
生きていたイスラエルの民を、モーセを立てて、エジプトから解放してくださった神をのみ神とし、その神
によって命与えられ対等同等な他者である隣人の生命と財産を奪わないということです。夫を亡くした女性
や両親を亡くした子供の命と生活も皆で守らなければならない、そういう共同体としてイスラエルの民は神
ヤハウエの下にあって、この歴史社会を生きていくようにと、招かれ選ばれたのであります。
・ところが、預言者エレミヤが見た同時代のイスラエルの民は、神の教えに従って生きる人々ではありませ
んでした。むしろ神ヤハウエに背き、その教えを忘れ、異教の神々を礼拝し、権力と富の力にこころ奪われ
てしまっていたのです。<人はその隣人を惑わし、まことを語らない。/舌に偽りを語ることを教え/疲れ
るまで悪事を働く>(9:4)と言われていますが、イスラエルの民は正にそのような姿を呈していたのです。
つまり真(まこと)は失われ、偽りによって塗り固められてしまっていたというのです。
・エレミヤが見たイスラエルの民の現実を想像しながら、現代の私たちの社会を振り返ってみたいと思いま
す。私たちはこの社会の中でどのような存在として生きているのでしょうか。12月6日の日曜日の週報の船越
通信でも引用させてもらいましたが、11月29日の教区のオリエンテーションの発題者のKさんは、
現代の社会状況をこのように述べていました。<・・・マスメディアは巨大なイメージを世界に解き放ち、
生産は消費と引き離され、消費だけがイメージに踊らされる。・・・・・人は消費することしか実感できな
くなりつつある。ということは消費は消費でなくなり、生産が生産でなくなる。・・・・・自己自身も抹消
されていく世界であり、根底から問おうとしても問いが成り立たない世界のようである>と。最近この船越
教会から鶴巻の自宅を行き来するときに、必ず通るところの海老名に、「ららぽーと」という商業施設が出
来ました。私も2回ほど行きましたが、沢山の人でにぎわっています。この施設に来ている人たちは、私を含
めてショッピングを楽しんだり、食事をする人たちで、基本的には消費を求められている人たちです。そこ
では私たちは購買者、物を買う消費者と規定されていて、それ以上でも以下でもありません。そこで私は何
者なのか、人間とは何かを問うても、神信仰を問題にしようとしても、その問い自身が成り立ちません。そ
のことは、ただ「ららぽーと」という商業施設の中だけではなくて、私たちの日常全体がそのようになって
いるのではないでしょうか。
・消費しか実感できなくなる社会をつくったのは、私たち人間ですが、そのような私たちの神は資本(金)
です。資本は己がコントロールできる社会のシステムに私たち人間を配置して、己に従わせようとします。
その資本の奴隷にならないと、私たちは豊かな生活を享受することもできませんし、また自給自足の生活を
失ってしまっている私たちは、生活の糧をえることも不可能なのです。資本は国家をも自らに取り込み、社
会全体を支配します。富国強兵を求めた明治以降の日本の国は、敗戦によって、ヒロシマ、ナガサキをはじ
め、東京も大阪も横浜も焼け野原になりました。経済優先の日本の社会は、エネルギーを原子力に頼り、原
発をたくさん作って、その一つの福島第一原発の事故で、放射能を四散させて、廃墟の地域を生み出してし
まいました。イエスが、神と富の二人の主人に兼ね仕えることはできないと言われたことを想い起します。
・エレミヤは、このように預言しています。<山々で、悲しみ嘆く声をあげ/荒れ野の牧草地で、哀歌をう
たえ。/そこは焼き払われ、通り過ぎる人もなくなり、/家畜の鳴く声も聞こえなくなる。/空の鳥も家畜
も、ことごとく逃れ去った。/わたしはエルサレムを瓦礫の山/山犬の住みかとし/ユダの町々を荒廃させ
る。そこに住む者はいなくなる>(9:9-10)と。
・エレミヤの預言はバビロニアによる南ユダの滅亡破壊によって、歴史的な現実となります。その荒廃した
ユダの町々と原発事故で帰還できない地域とが重なってしまいます。原発事故で直接苦しみを強いられてい
る人々は、福島の人たちですが、その事故を起した責任は、何よりも東電という資本とそれを後押してきた
日本政府であると共に、それを許してしまった私たちにもあります。私たちは放射線量が高くて、人が立ち
入ることのできない地域が、そろそろ原発事故から5年になりますが、廃墟と化していく風景を見て、嘆か
ざるをえません。
・エレミヤは、「焼き払われて、通り過ぎる人もなくなり、家畜の鳴く声も聞こえなくなっ」て、荒廃した
ユダの町々を見て、「山々で、悲しみ嘆く声をあげ、荒れ野の牧草地で、哀歌をうたえ」と預言しました。
荒廃したユダの町々を前にして、「悲しみ嘆き、哀歌をうたう」ということは、「なぜこんなことになって
しまったのか」と自らに問うことです。エレミヤは、<彼らは、そのかたくなな心に従い、また、先祖が彼
らの教え込んだように(異教の神)バアルに従って歩んだ。それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は言わ
れる。「見よ、わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。彼らを、彼ら自身も先祖もしら
なかった国々の中に散らし、その後から剣を送って彼らを滅ぼし尽くす>(9:13-15)と語っていま
す。
・この預言は、バビロニアによる南ユダの滅亡破壊と主だった人たちのバビロン捕囚という出来事を、ただ
単にバビロニア帝国による小国ユダに対する不当な侵略というようには受け止めず、ユダの町々の破壊によ
る荒廃が、イスラエルの民が、イスラエルの神ヤハウエとその教えを捨てたことに対する神の審きとして、
自らとイスラエルの民自身を打つる神の鞭として受け止めているのです。それは、「悲しみ嘆かざるを得な
い、悲しみの歌哀歌をうたわざるを得ない現実を直視し、自らの過ちを見つめ直し、再び同じ過ちを繰り返
さないという悔い改めを促す言葉ではないでしょうかす。悲しみ嘆き、哀歌をうたうということは、悲惨な
現実を我が事として受け止め、二度と再びこんなことを起してはいけないと立ち上がることなのです。そ
れは現代的に言えば、人の命や人権を奪う力には抗って生きて行くということではないでしょうか。
・私は最近小倉利丸さんという方が書いた『抵抗の主体とその思想』という本を読んで、今まで漠然として
いたことが、少し整理してみることが出来ました。それは現代の社会の見方です。最近では新自由主義的な
グローバルな経済活動、つまり国家間の壁を越えて世界大にその活動の場を広げている資本と、その資本の
意志を組んで動く国民国家が一体となってこの社会の支配が形成されていますが、その支配によっては包み
込めない異議申立者の存在があるということです。彼ら彼女らはこの社会の中で「労働の尊厳」にも疑問を
投げかけつつ、生存の権利を主張してきた人々です。小倉利丸さんは、そのような人々として、農民や除民、
失業者、障がい者、移民、野宿者、女性、少数民族、先住民、性的マイノリティーといった人々を挙げて上
げています。私も寿で日雇い労働者・野宿者の問題に多少関わってきましたので、この点についてはそれほ
ど驚きませんでした。もう一つの点です。それは資本と国家が支配する現代のような社会の中で「搾取され
る身体性の問題」ということです。小倉利丸さんは、この社会に対する「闘争とは呼びえない日常生活に埋
め込まれた無意識の抵抗とでもよびうる逸脱行為、違法・不法行為、非行、心身の病、自殺やひきこもりと
いった振る舞いにいたるまで、さまさまな経験や行動として表出する。個人は、こうした構造的な矛盾を抱
え込む。個人は、それじたいが、この矛盾の中で引き裂かれた存在なのである>(p.237)というところです。
つまり、「逸脱行為、違法、不法行為、心身の病、自殺やひきこもり」は、この社会の構造的な矛盾を抱え
込む個人が、その矛盾の中で引き裂かれている表れとして受け止めていることです。そしてそのような方々
の存在は、「闘争とは呼びえない日常生活に埋め込まれた無意識の抵抗」であると言っているのです。つま
り非人間的なこの社会の矛盾を、自分の身体に抱え込んで引き裂かれた状態にあるこのような人々は、この
社会に無意識ではあるが、抵抗しているのだというのです。
・イエスは、神の国は近づいたと言って、当時のユダヤの国で律法違反者、病人や悪霊に憑かれている人た
ち、差別されていた女性や子供たち着かれている人たちと共に生きられました。それは、これらの人々が当
時のユダヤの社会、この世の支配の枠組みから外れていて、そうであるがゆえに「もう一つ別の社会」、イ
エスにとっては神の国の支配を心から願っていた人々だったからではなかったでしょうか。病者を癒やした
時に、イエスの従っていきたいといったその人に、家に帰り、自分が受けた恵みを証言しなさいと言われた
のは、単なる社会復帰ではなく、「も一つの社会」でもある神の国を宣べ伝える為だったのではないでしょ
うか。
・そのような意味で、私たちはキリスト者、イエスを信じて生きる者は、人々に嘆きの歌を、哀歌を強要す
る、支配と搾取を内に抱えているこの現実の社会の中で、神の支配する神の国を信じ、「もう一つ
の社会」を作り出す(非暴力)抵抗者としてこの世を生きて行くことが求められているのではないでしょう
か。