なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

クリスマス礼拝説教

    「喜びにあふれて」マタイ2:1-12、2015年12月20日(日)クリスマス礼拝説教、

・今年も主の降誕を祝うクリスマスの礼拝に、私たちは招かれてここに集っています。今日はマタイによる福

音書2章1節から12節までの、東方の博士たちの来訪の物語からメッセージを与えられたいと思います。

・さて、今日のマタイによる福音書の2章1-12節には、クリスマスの時のペイジェントに、羊飼いの場面と共に

出てくる東方の博士たちの来訪が記されています。ベツレヘムの家畜小屋でお生まれになったイエスさまに、黄

金、乳香、没薬を贈物としてささげた博士たちの物語です。星を頼りに東の国からやってきた博士たちの物語は、

天使のみ告げを受けてやってきた羊飼いたちと共にイエスさまの誕生の出来事に色を添えています。

・しかし、マタイによる福音書の2章1節以下では、この東方の博士たちの来訪が、エルサレムの街に思わぬ衝

撃を引き起こしたことを告げています。その衝撃は、当時のユダヤの国を治めていたヘロデ大王をはじめエル

サレムの町の人々をも不安にさせるほどでした。

・何故なら、東方の博士たちはエルサレムにやってきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこ

におられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2節)と言ったからです。

・「ユダヤ人の王」(2節)の誕生とは、ヘロデにとっては政治的敵対者の出現を意味しましたから、彼が大

きな危険を直感して狼狽したのは、むりからぬことでした。しかし、このヘロデの狼狽の背後には、特殊な歴

史的事情がひそんでいました。彼はイドマヤの出身(つまりエドム人の後裔)でありましたから、異邦の民と

してユダヤ人からさげすまれていたばかりではなく、その残虐な暴政のゆえに、民衆から忌み嫌われていたの

です。その上彼は、生粋のイスラエル人であるハスモン王朝から、政権を奪取した成り上がり者であり、何と

かハスモン王朝との繋がりをつけようとして、ハスモン家の王女マリアムネを妻としました。彼は合計十人の

妻をもちましたが、その中でもほんとうに愛情を抱いたのは、この妻だけだったといいます。しかし王家の中

には政権争奪をめぐる暗闘が絶えず、密告と彼の疑心暗鬼のために、彼はマリアムネを(紀元前29年に)処刑

したばかりでなく、前途を嘱望されていたその二人の息子アレクサンドロスとアリストブロスも(紀元前7年

に)殺してしまいました。なおその上、最初の妻ドリスとの間に生まれた長子アンティパテルさえ、ヘロデは

(紀元前4年に)処刑せざるをえなくなったのです。その5日後に、彼自身もまた、激しい病苦にさいなまれつ

つこの世を去ったのでありました。このように、晩年のヘロデが、自分の王位を窺う者との絶え間なき暗闘の

中に、不安と猜疑にさいなまれていたことを知るとき、このメシア誕生の知らせが、彼にいかなる衝撃を与え

たか、十分に推測することができるのであります。

・但し、この「ユダヤ人の王」に対するヘロデの凶暴な対抗意識は、実は根本的な誤解に基づくものでした。

マタイはこの福音書の記述を通して、この誤解の本質を究明していくのですが、イエスが十字架につけられた

ときも、その罪状書きには「ユダヤ人の王」としるされていたと明記することによって(27:37)、2章のこの

記事との対応関係を、鮮やかに描き出しています。ちなみにマタイによる福音書の27章37節を読んでみますと、

そこにはこのように書かれています。「イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王である』という罪状書き

を掲げた」。福音書記者マタイによれば、イエスの全生涯は、「ユダヤ人の王」という言葉の内容を、どう理

解するかという問題をめぐって展開したのです。もちろん、マタイにとって、イエスは十字架の極みまで己を

空しくして、人々の命と生活を大切にすることによって人々を愛した破格の王だったのです。

・マタイはヘロデ王だけはなく、エルサレムの人々も皆、ヘロデ同様に不安を感じたと記しています(3節)。

そして4節には「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっている

かと問いただした」とあります。マタイによれば、祭司長たちや律法学者たちはユダヤ教的宗教社会の貴族と

民衆を代表する者であります。すなわちエルサレムの全住民がヘロデと共に、幼子イエスの出生を占おうとし

ていると、マタイは見ているのです。つまり、イエスの誕生は、ヘロデだけではなく、祭司長や律法学者によ

って支配されていたエルサレムの宗教社会全体にとっても不安をもたらす出来事だったと、マタイは言ってい

るのです。おそらくマタイは、このイエス誕生の出来事に、エルサレムの指導者たちが彼らのその宗教支配

を脅かす者として、イエスを危険視したばかりではなく、その存在を容認することも出来なかったために、

エスを十字架につけることになるということを、予めここで示そうとしているのでしょう。

・ですから、今までの登場人物の中で、「喜びに溢れて」イエスに礼拝を捧げたのは、東方の博士たちだけ

たった(11節)と、マタイは記しているのです。「彼らはひれ伏して幼子拝みを、宝の箱を開けて、黄金、乳

香、没薬を贈り物として献げた」。そして、マタイによる福音書を読み進めていくときに、この東方の博士

たちの喜びを共有した人たちが、ユダヤ教的宗教社会の中では、祭司長たちや律法学者たちのような人々で

はなく、苦しみを抱えて救いを求めて呻吟する小さくされた人々であることが分かるのであります。そして

エスはまさにそのような人々の友として、インマヌエルとしてこの世に誕生したとマタイは語っているの

です。

・文芸評論家の加藤周一が書いた「ちいさな花」という文章があります。この加藤周一の文章から、「小さ

な花の命」が、ヘロデやエルサレム社会の大祭司たちや律法学者たちには不安をもたらし、東方の博士には

喜びをもたらしたイエスの誕生の出来事に通じるものを感じましたので、紹介させていただきます。

加藤周一の「ちいさな花」という文章は、ベトナム戦争の時代にアメリカでとられた一枚の写真について

のものです。
・ 「1960年代の後半に、アメリカのベトナム征伐に抗議してワシントンへ集まった『ヒッピーズ』が、

武装した兵隊の一列と相対して、地面に坐りこんだとき、そのなかの一人の若い女が、片手を伸ばし、目の

まえの無表情な兵士に向かって差しだした一輪の小さな花ほど美しい花は、地上のどこにもなかったろう。

(中略)/一方には史上空前の武力があり、他方には無力な一人の女があった。一方にはアメリカ帝国の組

と合理的な計算があり、他方には無名の個人とその感情の自発性があった。権力対市民、自動小銃対小さな

花。一方が他方を踏みにじるほど容易なことはない。/しかし人は小さな花を愛することはできるが、帝国

を愛することはできない。花を踏みにじる権力は、愛することの可能性そのものを破壊するのである・・・・・」

加藤周一「小さな花」『小さな花』かもがわ出版、2003年、36頁)。

・「権力の側に立つか、小さな花の側に立つか、この世の中には選ばなければならない時がある。(中略)/

私は私の選択が、強大な権力の側にではなく、小さな花の側にあることを、望む。望みは常に実現されると

は、かぎらぬだろうが、武装し、威嚇し、瞞着し、買収し、みずからを合理化するのに巧みな権力に対して、

ただ人間の愛する能力を証言するためにのみ差し出された無名の花の命を、私は常に、かぎりなく美しく感

じるのである」(前掲書、38頁)。

・私はこの加藤周一の文章を読んで、「小さな花の命」とイエスさまの命が重なって感じられました。そし

て、このマタイのイエスの誕生物語を思い巡らすうちに、本当に不安が不安を生み出していくヘロデの権力

の側にではなく、東方の博士とともに「小さな花の命」となってこの世に誕生されたイエスさまを、心から

喜び、イエスさまの側に立ち続ける者でありたいと思います。

・今日の船越通信に紹介しておきました、関田先生と教会員のSさんの船越教会の私たち皆に送ってくださっ

たクリスマスカードの言葉をお読みしたいと思います。関田先生は、「今年は『戦争法案』の強行採決に続き、

『一億総活躍』運動など、政府からの掛け声が始まっていますが、『一億』などと政府が言い始める所に、戦

前のファシズムの響きが聞えて来ます。このような時だからこそ、いと小さき命として生まれたもうた主イエ

スに仕えることで、ヘロデの権力政治に抵抗して行きたいと思います。その意味でのクリスマスを祝いましょ

う」と書いてくださいました。また菅井裕行さんは、「世相も政治もキリスト教界すらも右傾化しているよう

に思えてならない今日、神の導きの中に見る幻を、これからも追い求めていきたいと思います」と書いてく

ださいました。

・戦後70年のこの年のクリスマスに当たって、アジアの国々の沢山の人々の命と生活を奪った日本の国の侵略

戦争を許してしまった戦中責任、そして戦後アメリカの傘の下に経済成長を遂げ、アメリカと軍事同盟を結び、

帝国主義的な犯罪に加担し続けている日本国家の一員としてその戦後責任を、私たちは問われています。戦争

の悲惨さを経験し、敗戦によって、あの戦災後の焼け野原と、沖縄戦の悲惨さ、ヒロシマナガサキの原爆

投下を経験して、何よりも命と平和の大切さを知った私たちではなかったでしょうか。「権力の側に立つか、

小さな花の側に立つか、この世の中には選ばなければならない時がある。(中略)/私は私の選択が、強大な

権力の側にではなく、小さな花の側にあることを、望む」という加藤周一の選択を、私たちも共有したいと

思います。

・特に今、権力によって見棄てられようとしている福島の人々、沖縄の人々、そして格差の中貧困を強いられ

ている人々、様々な差別を受けて苦しんでいる人々という「小さな花の側にイエスと共に立ち」続けることが

できますように。「喜びに満ちあふれて」。