なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(39)

    「見捨てないでください」エレミヤ書14:17-15:4、
                   
                         2016年5月29日(日)船越教会礼拝説教

預言者エレミヤが目の当たりにしているのは、ユダとエルサレムの自分の同胞イスラエルの民の悲惨な姿

でした。バビロニアの軍隊によるユダとエルサレムの侵略が既に起こっていたと思われます。紀元前598年に

バビロニアネブカドネザル二世によって第一回のユダの侵略が起こっていました。第二回のユダ侵略と

エルサレムの占領は、紀元前589~587年に行われ、紀元前587年にはエルサレムが陥落し、エルサレム神殿

はじめエルサレムの町が破壊されたのです。ユダの王をはじめ主だった人たちはバビロニアにつれて行かれ、

バビロニア捕囚の時代が始まります。今日のエレミヤの預言は、この第一回のユダ侵略とバビロニア捕囚の

あった紀元前598年から第二回のユダ侵略とエルサレム占領によるバビロニア捕囚となった紀元587年の間で

はないかと思われます。

バビロニアの軍隊によって破壊されたユダとエルサレムを目の当たりにして、エレミヤは嘆かざるを得ま

せんでした。エレミヤが自分の目で見た悲惨な現実が、先ほど司会者に読んでいただいたエレミヤ書14章17

節、18節に記されています。<わたしの目は夜も昼も涙を流し/とどまることがない。/娘なるわが民は破

壊し/その傷はあまりにも重い。/野に出てみれば、見よ、剣に刺された者。/町に入って見れば、飢えに

苦しむ者。/預言者も祭司も見知らぬ地にさまよって行く>と。 

・そこでエレミヤは、これまでもそのようにしてきましたが、その現実を嘆き、神に祈願します。エレミヤ

はまず神に問いかけます。<あなたはユダを退けられたのか。/シオン(エルサレム)をいとわれるのか

(関根訳:あなたは全くユダを捨てられたのですか。/あなたの心はシオンを嫌われるのですか)。/なぜ、

我々を打ち、いやしてはくださらないのか。/平和を望んでも、幸いはなく/いやしのときを望んでも、見

よ、恐怖のみ>(19節)と。

・エレミヤは何よりも神に平和といやしを求めているのです。平和といやしは神によってもたらされると信

じていたからです。しかし、イスラエルの民の現実は平和といやしどころか、それとは全く逆に何一つ幸い

はなく、ただ恐怖のみなのです。エレミヤはそのようなイスラエルの民の現実を見て、ユダもエルサレム

神によって見捨てられ、嫌われてしまったのではないかと思っているのです。

・エレミヤはイスラエルの民に代わって、神の前にイスラエルの民の神への背き、その罪を認めます。<主

よ、我々は自分たちの背きと/先祖の罪を知っています。/あなたに対して、我々は罪を犯しました>(20

節)と。イスラエルの民は異教の神々に心を傾け、神ヤハウエに背き、権力と富に自らの心を売ってしまっ

たのです。ですから、神に裁かれてもイスラエルの民は文句は言えないのです。自ら犯した過ちの故だから

です。そのことをエレミヤは十分自覚していました。それでもエレミヤは神に向かってこう祈らざるを得ま

せんでした。そしてエレミヤは同胞イスラエルの民の過ちを認めた上で、イスラエルの民を諸民族の中から

選んでくださり、契約を結んでくださった神に、神の側の責任を問うかのように、 <我々を見捨てないで

ください。/あなたの栄光の座を軽んじないでください。/御名にふさわしく、我々と結んだ契約を心に留

め/それを破らないでください>(21節)と祈っているのです。

・さらに神の創造の御業を想い起しつつ、<国々の空しい神々の中に/雨を降らしうるものがあるでしょう

か。/天が雨を与えるでしょうか。/我々の神、主よ。/それをなしうるのはあなただけではありませんか。

/我々はあなたを待ち望みます。/あなたこそ、すべてを成し遂げる方です>(22節)と祈っているのです。

・このように同胞イスラエルの民の悲惨な現実に直面して、エレミヤは神に見捨てられたイスラエルの民の

姿をそこに見て、<我々を見捨てないでください>と神に祈るのです。それがこの時エレミヤにできる最善

のことだったに違いありません。バビロニアの軍隊に蹂躙されて、その指導者であった預言者や祭司もバビ

ロニアに連れて行かれてしまい、傷つき倒れているイスラエルの人々を見て、彼ら彼女らの神への背き、イ

スラエルの民の背信の罪をエレミヤは糾弾することはできませんでした。自らもその一員であるイスラエル

の民の背信の罪を認めた上で、神の助けを祈っているのです。

・しかし<我々を見捨てないでください>と祈るエレミヤに対して語られた神の言葉は ある意味で非情そ

のものでした。<主はわたしに言われた。「モーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧

みない。わたしの前から彼らを追い出しなさい>(15:1)。これがエレミヤに与えられた神の答なのです。モ

ーセとサムエルはイスラエルの最大の預言者と言ってもよい人物です。その二人がイスラエルの民の執り成

しをしても神ヤハウエは全くイスラエルの民を顧みないというのです。さらにエレミヤに与えられた神の言

葉は、<彼らがあなたに向かって、『どこへ行けばよいのか』と問うならば、彼らに答えて言いなさい。

『主はこう言われる。/疫病に定められた者は、疫病に/剣に定め者は、剣に/飢えに定められた者は、飢

えに/捕囚に定められた者は、捕囚に。』>(15:2)

・神への執り成しが断たれ、エレミヤは神の裁きの厳しさをそのものとしてイスラエルの人々に告げなけれ

ばなりませんでした。同胞イスラエルの民の困窮と神の激しい怒りの間に、エレミヤはひとりで立たなけれ

ばならなかったのです。(ヴェスターマン)。そのエレミヤの孤独と苦難を想像しますと、戦慄を覚えざる

をえません。恐らくエレミヤは預言者としての自らの限界を突き付けられて、嘆きつつ、それでも自分の責

任を可能な限り果たして生きていったのではないでしょうか。

・そのようなエレミヤと共に、このエレミヤの箇所を読んでいて、エレミヤの「我々を見捨てないでくださ

い」という祈りとの関連で、十字架上の「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

というイエスの叫びを想い起さざるを得ませんでした。「我々を見捨てないでください」というエレミヤの

祈りと、わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という十字架上のイエスの叫びに

は、深い関連があるように思えてなりません。

イスラエルの民の困窮(苦しみ)は、その王マナセの誤った政治支配によるものとは言え、それを許した

イスラエルの民自身からでたものです。ちょうど同じように、私たちは戦前天皇制国家による侵略戦争に私

たちも加担し、そして敗戦という経験を共有しました。アジアの国々とその国の人々に対して、犯罪的な侵

略戦争によって多大の犠牲を強いただけでなく、沖縄の地上戦、ヒロシマナガサキの原爆投下、大都市の

戦災による破壊によって、私たちもその悲惨な現実を受け止めざるを得ませんでした。

イスラエルの民も私たちも自らが犯した過ちの結果、大変な苦しみの中に置かれたのです。それを神に見

捨てられたと言うなら、イスラエルの民も私たちも神に見捨てられて当然な生き方をしていたということで

す。ところがイエスの場合はどうでしょうか。権力者にすれば、権力に逆らうイエスを処刑して葬るのは当

然なことかも知れません。しかし、イエスは犯罪者として処刑されましたが、神に背き罪を犯したわけでは

ありません。むしろこの世の権力や富に媚びることなく、神の前に全ての人が同じ尊厳をもって生きること

ができるように、そのことを抑圧している様々な力から、人々を解放したのです。神の下にあって、その一

人ひとりに命を与えて下さった神を大切にし、自分自身を大切にし、隣人である他者も自分と同じように大

切にして、支え合い助け合って生きることによって、命を与えて下さった神に栄光を帰する、そのような神

の国の住民としてみんなと生きようとしただけです。

・それにも拘わらず、イエスは犯罪者の一人として十字架刑によって処刑されたのです。私たちはイエス

復活によって、イエスの十字架が敗北ではなく、勝利であることを告げられているのです。神の真実と神へ

の人間の真実とが、イエスの生涯と十字架と復活によって、権力や富にも、また自分を神とする自己本位の

罪からも解放されて生きる道を、私たちは示されているのです。聖霊の命の力によって私たちもイエスの兄

弟姉妹としてこの世を生きることができることを知らされているのです。

・エレミヤは、同胞イスラエルの民の困窮と神の激しい怒りの間に、孤独にひとりで立たなければなりませ

んでした。しかし、私たちには、神我らと共に、イエスの兄弟姉妹としてイエスと共に歩むという信仰の現

実が与えられていることを見失わないようにしたいと思います。

・1960年代後半から70年にかけて東大全共闘の議長をした山本義隆という人がいます。この人が、しばらく

前に『私の1960年代』という本を出しています。その本の「おわりに」で山本義隆はこのように言っていま

す。この人は物理学の研究者でもありますので、<・・・原発にたいしては、ときに反対の見解を表明して

きましたが、しかし3・11の福島を防ぐこともできず、そればからいか、今や戦争とファシズムの前夜の

ようなことになってきています。/私たちは若い頃、戦前の人たちにたいして、なんであんな日本の戦争や

ファシズムを止められなかったのかと言ってきました。おなじことを私たちは、今の10代や20代の人たちに

言われるのではないかと、正直、思っております。私はこの間、原発について、大きな集会や何度かは金曜

日の夜に国会前の行動に参加してきましたが、ときに高校生や大学生が発言しています。その人たちに言わ

れたら返す言葉がありません。何もしてこなかったわけではないけれど、少なくとも結果的には3・11の

破局を防げなかったのであり、その点では悔しい思いもあれば、情けない思いでいっぱいです。/・・・私

自身、あと何年生きるかは知りませんが、残りの人生、やれるだけのことはやっておかないと、個人で、バ

ラバラにされているわけですから個人でしかやることはないわけですが、個人的にでもやれることを探して

いかなくてはいけないと思っています>

・私たちもまた、イエスに倣ってイエスに従って生きているつもりでも、3・11を止めることはできませんで

した。ただ破局を待つのではなく、私たちのやれることは何かを見出して、やれることをやっていきたいと

思うのであります。