なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(264)

            船越通信癸横僑粥 。横娃隠暁6月5日    

・5月29日(日)に日曜礼拝にも、2年前くらいに一度船越教会の礼拝に出席された方がいらっしゃいまし

た。その方を交えて礼拝後いつものようにお茶をのみながら懇談の時をもちました。この日Iさんから、ホー

ムレス歌人の本なので、二冊の本を、読んでみてくださいと言われて、お借りしました。この週は5月31日

(火)の農伝に行く以外には比較的自由でしたので、Iさんからお借りした二冊の本を読んでみました。しば

らく前に寿でも、俳句をつくるホームレスの方がいて、その俳句が広くみんなの共感を呼んで評判になった

ことがあります。Iさんから「ホームレス歌人」と言われた時には、寿で知った俳句を作るホームレスの人の

延長線上にそのホームレス歌人を考えていましたが、実際に二冊の本を読んでみましたら、私の最初の想像

とは全く違う人でした。二冊の本とは、(A)岩岡千景『セーラー服の歌人鳥居~拾った新聞で字を覚えたホー

ムレス少女の物語~』と(B)鳥居『キリンの子~鳥居歌集』です。この「鳥居」(実名ではない)という人が

どのような人なのかということは、(A)の目次の前にある通常の「序文」に当たるところで、著者がこのよう

に書いています。<過酷な運命を背負って/生まれてくる人がいます。//その後、預けられた/養護施設

での虐待/若くしてのホームレス生活―//義務教育もろくに受けられず、/拾った新聞などで文字を覚え

た/彼女が考えつづけた//「なぜ、生きなければいけないのか?」/という問いへの答えとは?//これ

は、/生きづらさを抱えたあなた、//失意に沈んだ時のあなた、//悲しみにくれる日のあなた―/のた

めの物語でもあるのです。//“芸術家は、もともと/弱い者の味方だったはずなんだ”/―『畜犬談』

太宰治)>。

・この(A)の本を読んで、私がメモした文章は以下の通りです。<人間が人間として扱われにくい暗闇の中を

生きていた鳥居>(88頁)。<死のうとする者を、生きる方向へと説得できる言葉を持っていない無力さ・

・・>(107頁)。<亡くなった母や友達、またかつての自分のように“自殺したいと思ってしまった人”

を踏みとどませるには、力づくで生の側へ引きもどそうとするのではなく、その人を取り巻いている『死の

世界』とでもいうべき場所にまで潜って行って、一緒にもどってくるという手つづきを踏まなければならな

いとおもうからです>(167頁)。<人はたやすく死ねる。けれども死ぬと決めてしまった人を、死の淵か

ら連れもどすのは難しい。歌に魔力を宿したい。生死の境にいる人を連れもどすほどの力がほしい。『死な

ないで』とただ祈っているだけだった自分を変えたい>(168頁)。

・(B)の歌集から私がメモした歌は以下の通りです。<帰りたい場所を思えり居場所とはあの日の白い精神

病棟>(25頁)。<オレンジの皮に塗られた農薬のような言葉をひとつ飲みこむ>(68頁)。<空しかない

校舎の屋上にただよいて私の生きる意味はわからず>(71頁)。<生まれたくなかっただけと包み込む左手

首の白い傷痕>(75頁)。<病室の壁の白さに冴えてゆく意識のすみに踏切の音>(80頁)。<本好きな少女

の脚に虐待の傷が静かな刺繍のように>、<揃えられた主人の帰り待っている飛び降りたことを知らぬ革靴>、

<刃は肉を斬るものだった肌色の足に刺さった刺身包丁>(以上81頁)。<止むを得ず自衛のためと少しず

つ戦車の向きがずらされていく>(93頁)。<誰も知らないおとぎばなしを聴いている水子地蔵が寄り集ま

って>(102頁)。<私でない女子がふいに来て同じ体の中に居座る>(130頁)。(B)の歌集を解説している吉川

宏志(歌人)は、<鳥居は悲惨な世界で生きてきたが、短歌によって自分の言葉を獲得することで、運命を

変えていった。・・・生身の言葉であるから、他者に思いは伝わり、他者を動かしていったのだろう。そこ

に私は言葉の本源的な力を見る思いがする。自分の言葉を扱う人は孤独ではない>(158頁)。

・Iさんからお借りした二冊の本を読んで、生きづらさを抱えながら日々を紡いでいる人のことを改めて考

えさせられました。一時期一年間の自死者が3万人を越えていましたが、最近の新聞では一年間の自死者は

2万5千人くらいと書かれていました。でもそれだけの人が自らの命を絶たなければならないこの社会の現

実が今もあるということです。その中で私ができることは何かが問われていることを、二冊の本を読んで

再認識させられました。

・5月中ずっと忙しく課題に追われるよう生活をしていましたので、6月1日(水)には久しぶりに一日、箱

根の強羅公園と湿生花園、秋のススキとは趣を全く異にする緑の仙石原に行ってきました。新緑の季節も終

わりに近く、木々の枝には生命の横溢を感じさせてくれる緑の葉が溢れていて、椅子に座ってその自然と向

き合っているだけで、自分のからだの芯から新しい命が呼び起されるかのようでした。自然との生活は、以

前吉野せいの『洟をたらした神』を読んだ時にその壮絶な闘いに驚かされたことがありますが、そんなに甘

いものではないでしょう。実際神学校の友人家族が戦後岩手の奥中山の開拓村で生活しましたが、その友人

から話を聞いただけでも大変厳しいものがあるように感じました。また、その友人とひと夏奥中山伝道所で

過ごし、1960年代前半でしたが、開拓村の家を訪問したことがありましたけれども、その生活の厳しさが伝

わってきました。でも社会のシステムの中でしか生活できないでいる都市生活者が、たまに大自然と向き合

って自然との共生を夢見るのも自然なことなのかも知れません。国家が形成される前の古代の人間は、自然

の中での親族社会が生きる場であったのでしょう。そこにもルール(秩序)はあったでしょうが、互に労り

合いながら生きる手立てを見いだし、小さな集団として生活していたに違いありません。小さな子供の時か

らその親族社会の中での役割を与えられて、成長と共にその役割は変化したでしょうが、生まれてから死ぬ

までその小さな社会の中でその生を全うしていったに違いありません。生活は全体に貧しかったでしょうが、

現代のような社会での競争もなく、国家間の戦争もなく、平和な生活を享受していたのではないでしょうか。

資本と結託した権力支配からまだ自由になれないでいる現在の私たちは様々な矛盾に苦しめられています。

であるが故に、時々自然と向かい合って、遠い古代の人たちの生活を想像して、人間としての在り方を思い

めぐらす時が必要なのではないでしょうか。