「嘆く者もなく」エレミヤ書15章5-9節、2016年6月5日(日)船越教会礼拝説教
・先日神学校時代の親友から電話がありました。この友人は長い間病を抱えた連れ合いの介護をしていて、家を
離れることができません。私の戒規免職問題にも教団への怒りをもって、最初の時から支えてくれています。2,
3か月に一度は電話をくれて、どうなっていると聞いてくれます。その話からはじまって、いつも一時間以上の
長電話になります。先日は2時間半も電話で話しました。この友人は、昔のことを詳細に覚えていて、先日もあ
る時テレビで私がボクシングを熱心に見ていたことに触れて、「お前がボクシングを好きなのは意外だった」と
言っていました。連れ合いは、私のボクシング好きを、「人を殴り合う」のを見て何が面白いのかといつも軽
蔑しています。
・さて私はボクシングと共にテニスもサッカーもテレビで観るのは好きですが、その他にサスペンスをよく観ま
す。鶴巻に一人でいる時は、昼の時間にBSテレビで2局が既に放映されたサスペンスを再放送していますが、昼
ご飯を食べながらどちらかを観ています。サスペンスの中には最後に、犯人捜しをする主人公が、罪を犯した
犯人を自首させて、「罪を償ってまたやり直しなさい。待っているよ」というセリフで終わるケースが案外多
くあります。ワンパターンなのですが、そのセリフを聴くとジーンと感じてしまうのです。
・さて罪を犯した人間は、その侵した過ちの責任を取らなければなりません。その責任を取らなければ赦される
ことはありません。私は死刑廃止に賛成する者ですが、死刑制度があるということは、その侵した罪が死をもっ
て償わなければならないほどに、大きく重いということなのでしょう。
・道を踏み外した子どもをもつ父親や母親も、まともな人であれば、その子に犯した過ちの償いをさせるに違い
ありません。サスペンスには、時々犯罪を犯した子どもをかばって、自分の権力や財力を使ってもみ消そうとす
る父親や母親が登場することがありますが、最後には当然そのような父親や母親の願いは叶えられずに、犯人は
捕まってしまします。
・実は聖書にも、過ちを犯した子どもの父親や母親のような立場にある神が登場してきます。先ほど司会者に読
んでいただいたエレミヤ書の箇所もそのような神が登場している箇所の一つです。5節、6節に<エルサレムよ、
誰がお前を憐み、/誰がお前のために嘆くだろうか。/誰が安否を問おうとして、立ち寄るであろうか。お前は
わたしを捨て、背いていったと/主は言われる>と言われています。これはバビロニア軍によって攻撃されて、
荒廃したエルサレムに向かって語られている言葉です。そのエルサレムは、神の民イスラエルの人々にとっては
特別な場所でした。天理教の信徒にとって天理市にある本部は特別なところであるように、ユダヤ人にとってエ
ルサレムは神が臨在するところで特別な場所でした。エルサレム神殿の至聖所に神が臨在すると信じられていた
からです。そのエルサレムがバビロニア軍によって蹂躙されて、ずたずたにされてしまったのです。しかも<誰
がお前を憐み/誰がお前のために嘆くだろうか。/誰が安否を問おうとして、立ち寄るであろうか。>と言われ
ているのです。そして<お前はわたしを捨て、背いていったと、主は言われる>とあり、それはイスラエルの背
信の結果であるというのです。
・ここには、エルサレムの背信の故にエルサレムは神の審判を受けなければならないが、同時にそのことを嘆かざ
るを得ない神の存在が語られているのではないでしょうか。<お前はわたしを捨て、背いていった。・・・それゆ
え、わたしは手を伸ばしてお前を滅ぼす。/お前を憐れむことに疲れた>(6節)と言われているのです。自分で
行った、また実行しなければならなかった審判に対して、神は嘆いているのです。木田献一さんは、このところは
「神の審判の言葉と嘆きの歌とが合体した預言である」と言っています。審判は神の怒りです。嘆きはエルサレ
ムの絶滅を悲しむ神の慈しみ、愛です。神は自分の怒りが引き起こす民の絶滅に対して嘆いているのです。
・7節から9節の言葉も審判の告知ですが、その審判の告知はただ審判の告知ではなく、イスラエルの民の絶滅に対
する神の哀れみによる回顧(振り返り)のようなニュアンスになっています。<わたしはこの地の町々の城門で/
彼らを箕であおり、まき散らし/わが民の子らを奪い、滅ぼす。/彼らがその道を改めないからだ。/やもめの数
は海の砂よりも多くなった。/わたしは白昼、荒らす者に若者の母を襲わせた。/彼女はたちまち恐れとおののき
に捕えられ/七人の子の母はくずおれてあえぐ。/わたしは敵の前で民の残りの者を剣に渡すと/主は言われる>。
・<わたしは、お前を憐れむことに疲れた>と神に言わせてしまうイスラエルの民の背きの現実があるということ
です。神の民としてイスラエルは、その父祖アブラハムに与えられた全ての民の祝福の基としてこの世をいきるよ
うにと招かれているのです。神に命与えられた者として、神を畏れ、強い者も弱い者も誰も切り捨てられないで、
互いに大切にし合ってこの世を生きる民として、すべての民の祝福の基となるようにと神に召されたのです。と
ころが、権力と富の誘惑に負けて、イスラエルの民は神との契約を破ってしますのです。神は預言者を通して何度
も何度も神の招きに応えて生きるようにと、イスラエルの民に悔い改めを迫りますが、イスラエルの民はそれを無
視し続けたのです。<わたしは、お前を憐れむことに疲れた>とは、そのようにイスラエルの民の立ち帰りを求め
て、待ち続けたが、一向に立ち返ろうとしないイスラエルの民の頑なさに、戸惑っている神を言い表しているので
す。それ故神は嘆きつつ、イスラエルの民に審判を下すのです。審判の結果絶滅の苦しみにおののくイスラエルを
見て、神は心穏やかでいることはできません。それが、審判を下さざるを得なかった神が、その審判を実行したこ
とを嘆いているのです。
・何とひ弱い人間的な神なのかと思われる方もあるかもしれません。オールマイティーの神を想像している人にと
っては、そんな神を信じる人の気持ちが分からないと言われるかも知れません。しかし、このような嘆く神は、私
たち人間の側からの自由な応答を忍耐深く待っているのではないでしょうか。先日北海道で躾のために子どもを置
き去りにした事件がありました。警察や自衛隊まで捜索に加わって、探しましたが、見つからず、6日目かに自衛
隊の施設でその子が発見されたという事件です。私なども自分の子供が小さかったときに、それに類する仕打ちを
子供にしなかったとは言えませんので、偉そうなことは言えないのですが、親ができるのは言葉での説得であって、
後は子どもの自主性に任せる以外にありません。親は忍耐深く子供の成長を見守る以外にないのです。審判を実行
して、それを嘆く神は、忍耐に忍耐をもってしてもその背信から立ち返ることのなかったイスラエルの民を滅ぼす
しかなかったのです。それは自らイスラエルの人々を殺したというのではなく、覇権国家バビロニアの侵略の犠牲
となって滅びたエルサレムとユダの国を神の審判として捉えているのです。それを嘆く神はイスラエルの民の自主
的な立ち帰りに期待をかけた神なのです。
・エレミヤは、怒りと憐れみ(愛)がない交ぜになって苦しみ嘆く神を知って、預言者として立てられた己の力な
さに恐れを感じて、佇む以外になかったのではないでしょうか。私たちにとっても、もし神がイエスを遣わして下
さらなかったならば、この悲惨に満ちた現代社会における人間の現実と怒りと愛の神との間あって、エレミヤと同
じように佇む以外になかったのではないでしょうか。けれども、審判を実行してそのことを嘆く神は、イエスを私
たちの所に遣わしてくださって、神の真実と人間の真実が一体となったイエスの生涯と死と復活の出来事と通して
、聖霊によって私たちもその神の真実と人間の真実が一体となったイエス・キリストのからだの肢体として生きる、
その一体性に与かる道を切り開いてくださったのです。神と人間との間の在るべき関係を打ち立てるために、その
和解の仲保者としてイエスを遣わしてくださったのです。
・神は最後の切り札を、イエスを私たちの所に遣わしてくださることによって、既に切っておられるのです。ヘブ
ル人への手紙12章1節2節にこのように記されています。<こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびた
だしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競
争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら>。イエスが何
よりもこの世の周縁に追いやられている人と共に生きら、十字架にまでその生を貫かれたこと。そのイエスを主と
して私たちが生きるようにしてくださっていることを大切にして、資本や権力に絡め取られない、もう一つの別の
道を歩んでいきたいと思います。
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