なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(265)

           船越通信癸横僑機 。横娃隠暁6月12日    

・6月5日(日)は午後2時から国会前で「6・5 全国総がかり大行動」が予定されていましたので、この

日船越教会の礼拝を終えてすぐにその集会に出かけた方があり、礼拝後の何時もの懇談後に出かけられた方

もありました。私も出かける予定ではいましたが、礼拝に出席された一人の方との話し合いが午後3時近く

まで続いたために、残念ながら今回は国会前の集会には参加できませんでした。この日私が話し合った方は、

この日で船越教会の礼拝に出席されたのは3回目だと思います。この方は、日本基督教団だけではなく、様

々なキリスト教会の事情に通じています。その知識の豊富さには驚かされるところがあります。この方との

話し合いの中で、いくつか私の中に残った問題がありました。➀ 日本基督教団は50年後、100年後に存在し

ているか。カトリック教会とアングリカン教会(聖公会)は存在していると思うが、日本基督教団の教会は

なくなっているかもしれない。⓶ メガチャーチ(信徒数の多い教会)を一人で築いた牧師にはお金や女性

の問題が起こりやすい。 カトリックの神父の独身制には優位性がある。結婚し家族をもつプロテスタント

の牧師は伝道に専心するのは難しい。ぁ‘鐱楷霪超誼弔遼匯佞狼Г觧?屬少なすぎる。祈ることによって

不可能と思えることも可能とされていくのではないか。ァ/仰の継承と言われながら、それができていな

い教会が多い 等々。これらの意見を聞きながら、私は改めて自分が牧師として今まで生きて来て、今も牧

師であるということにおいて、上記のような問いに対してどのような答えをもっているだろうかと思いめぐら

していました。この方との話し合いの中でも、自分の考えの一端は話したのですが。

・私は基本的に制度としての教会の維持継続には、関心が全くないというと嘘になりますが、それほど強い

関心はありません。制度としての教会がなくなって行くことが必然であるということもあり得ると思ってい

ます。もう大分前になりますが、教団新報でしたか、九州の筑豊地方にある教会の牧師が「滅びの福音」と

いう題で文章を書いていて、それを読んだことがあります。廃坑となった地域に住む住人が高齢になって、

その子どもたちはその地域には仕事がないのでその地域には住んでいません。当然近い将来町そのものが消

えていく運命にあるわけです。そのような所にある教会はそこに人がいる限り宣教の使命を持っていますが、

人がいなくなったら当然教会もその活動を止めることになります。そのような教会での福音宣教を「滅びの

福音」と言ったのだと私は思いました。そういう意味で、この文章から私は、この方の、人がそこにいる限

り宣教を続けるのだという熱い思いを読み取り、感動しました。ところが、この文章を教条主義的に読んで、

福音を「滅びの福音」と言うのは何事かと言った方がいました。この時そういう読み方をする人がいるとい

うことにも驚かされました。

・制度としての教会ではなく、聖書のメッセージを聞いて自立と共生をめざす人の集まりとしての教会について

は、私も関心を持ち、自分なりにそのための働きを続けていると思っています。2007年に教団の常議員の一人で

あった私に常議員会は教師退任勧告を出しました。その後2009年に新教出版社のkさんに勧められて、それ

まで自分が教会の中で発言してきたことをまとめて『自立と共生の場としての教会』という本を出しましたのも、

私が教会をどのように考えているかを明らかにするためでした。この私の考え方からすれば、聖書のメッセージ

を聞いて感動する者がいて、それを共有する人がいれば、教会は自然発生的に生まれるということになります。

事実私はそのように考えています。それほどに聖書が内包する使信にはインパクトがあると、私は聖書に信頼し

ています。ですから既成の教会がなくなってしまっても、聖書がある限り、またその聖書の解釈の歴史(伝統)

がある限り、聖書に基づいて自立と共生をめざす人の群れは、歴史の桎梏に抗って生起するに違いありません。

私はそのように考えています。

プロテスタントの教会よりもカトリックとアングリカンの教会は典礼の確立が明確にあります。典礼は聖書

の使信のある種の抽象的な儀礼化ですが、儀礼の持つ強さというか、歴史の荒波を越えていく普遍性のような

ものがあります。100年後には、その間に根底的な改革が起こらない限り、日本基督教団の教会は消滅の方向

に限りなく近づいているに違いありません。プロテスタントの教会はどうしても主観主義的な面が強くありま

すので、それこそ「み言葉によって改革され」続けていない限り、歴史の荒波を越えていくことは困難だから

です。今の日本基督教団の執行部の人たちは、異質な教会や信徒教師を排除することに熱心であって、現在の

教会の危機への洞察は極めて上調子のものに過ぎませんので、このままいくと本当に消滅の危機に突入するか

も知れません。しかし、上に記しましたように、聖書の使信そのものがそれを聞く人を呼び起こし、新しい教会

を生み出していくでしょう。

・7日火曜日は、この日農伝では戦争責任シンポジウムがあり授業はお休みでしたので、午後4時過ぎに鶴巻を

出て、教区の常置委員会が行われる蒔田教会に向かいました。常置委員会が午後6時から行われました。6月25

日(土)に教区総会がありますので、この日の常置委員会では、二人の正教師受験者の面接と総会準備が主な

議題でした。神奈川教区は私の戒規免職撤回議案を教団総会議案として教区総会で可決していますので、私は

教団から教師の免職処分を受けていますが、常置委員会推薦議員として私を教区総会議員にしています。既に

常置委員会で確認済みでしたが、この日総会議員の確認をしたときに、常置委員の一人kさんか

ら、「免職された人を教区総会議員にするのは教規違反だから総会議員名簿から私を削除すべきだ」

という発言がありました。教区三役は既に常置委員会で私を教区総会議員に推薦しているので、発言として記

録にとどめることを確認して、議事を進めました。おそらく6月25日の教区総会の席でも同じような発言がで

るかも知れません。この日の常置委員会の議事は比較的少なかったので、8時には陪席者は退出できました。

4人でいつものように中華のお店で会食し、午後9時半ごろに常置委員の3名が加わり、10時半ごろまで懇談を

して散会しました。この日も鶴巻に着いたのは0時近くでした。10日(金)聖書研究会には竹内忠美さん一

人の出席でしたので、懇談の時にしました。