なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ガラテヤの信徒への手紙による説教(9)

 以下の説教を飛ばしてこのブログに掲載していましたので、少し前のものになりますが、ここに

掲載させてもらいます。


   「贖い出される」ガラテヤの信徒への手紙3:10-14、
                  
                        2016年5月8日(日)船越教会礼拝説教


・前回4月10日の礼拝でガラテヤの信徒への手紙から私たちは「信仰によって生きる」ということは、どう

いうことなのかについて学びました。その時私は水道管の譬えを使って、信仰の出来事を語りました。そ

の礼拝に出られた方は思い出していただけると思いますが、横浜の水源となっています道志村の話をしま

した。水源から水が浄水場に送られ、浄水場から水道管を通して各家庭の蛇口まで水が運ばれて、その蛇

口をひねって水を出し、私たちはその水によって生活しているのであります。先日も熊本地震が起こった

当初、地震によって家が崩壊したり、つぶれる危険性が高い家から、避難所に逃れていた被災した人々の

所に給水車で水を届けるのが充分でなく、被災した人々が大変厳しい状態に置かれているということが、

テレビで放映されていました。水がないと私たちは生きていくことが出来ません。その水は私たち自身の

内部から作り出すことはできません。水源の水を水道設備を通して私たちが受け取っているのであります。

それと同じように神が主イエスを通して私たちに与えて下さっている命の水も、私たち自身の中から生ま

れはしません。信仰という水道管を通して私たちは水源である神からその恵みの水を受けて生きているの

であります。

パウロは、アブラハムはその信仰によって義と認められたのであって、割礼をうけたからではない。だ

から、その信仰によって割礼を受けていない非ユダヤ人(異邦人)も義と認められ、アブラハムの祝福に

与かることができるのだと言っているのです。「信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に、

ユダヤ人であろうと非ユダヤ人(異邦人)であろうと)祝福されています」と、今日先ほど司会者に読

んでいただいたガラテヤの信徒への手紙の箇所に続くところで、パウロは語っているのであります。

・では、そのように「信仰によって生きる」のとは反対の生き方はどのようなものなのでしょうか。その

ような生き方が今日のガラテヤの信徒へ手紙の箇所では記されているのであります。その生き方とは「律

法の実行に頼る」生き方のことです。この生き方はユダヤ人一般の生き方であり、ガラテヤの信徒への手

紙の前回の説教でもお話ししましたように、かつてパウロ自身がその生き方に徹していたのであります。

この生き方をしている人は、神を否定しているわけではありません。しかし、信仰によって生きるのでは

なくて、神の定めと考えられていた律法の教えを自分の力で実践していく自力による生き方です。パウロ

はそのような生き方は「呪われている」と言っています。10節でこのように語っています。<律法の実

行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、

呪われている」と書いてあるからです>と。

・「律法の書に書かれているすべての事を守る」ということは、実際には不可能な事です。ユダヤ教の律

法には大きく分けて三つの種類の定めがありました。その中の二つである礼拝儀式に関する祭儀律法と食

物既定のような生活上の定めについては、比較的よく守れたと思われます。動物を捧げる時には小羊にし

なければならないとか、ハトにしなければならないというような祭儀規定です。食事をするときには手を

洗わなければならないというような生活上の規定も、守ろうとすれば、守ることが出来ました。しかし、

人倫の定め当たる、心を尽くして神を愛しなさいとか、自分のように隣人を愛しなさいという定めは、限

度がないわけですから、完全に守るなどということはできません。ですから、すべての律法を守るなどと

いう事は、そもそも不可能なのです。無理なことを強いられるとすれば、それを押し付けられた者にとっ

ては、呪い以外の何物でもありません。

・私たちの中でも、規則は大切にしているのと思いますが、その大切の仕方で二種類の人がいるのではな

ないでしょうか。自由において規則を大切にする人と、規則は大切だからと言って、規則の奴隷のように

なっている人です。パウロが呪われていると言っているのは、規則の奴隷のようになっている人のことで

はないかと思います。

福音書にイエス安息日に片手のなえた人を癒やした物語があります。その時ファリサイ派の律法学者

がイエスのしたことは安息日律法を違反したことに成ると言って非難したと言われています。なぜイエス

を非難したかと言いますと、安息日律法には、「安息日には瀕死の人以外は癒しの行為をしてはならない」

という定めがあったからです。またイエスコルバンの物語で、これは神への供え物だと言えば、老いた

父母に食べ物を与えない、律法の形式主義者を批判しています。

・そのような律法主義者を律法は生み出すのです。そこで、パウロは<律法は、信仰をよりどころとして

いません。律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです>(12節)と言っているのです。

信仰をよりどころとするのではなく、律法の定めによって生きる生き方、それが信仰によって生きる生き

方とは対照的な人間の生き方であると、パウロは言うのです。信仰によってではなく、律法の定めに縛ら

れた生き方を、パウロは自分がイエスの福音を宣べ伝えて設立したガラテヤ教会に、パウロの後からやっ

て来たユダヤ主義者が、主イエスを信じる信仰だけではなく、割礼と律法遵守も必要だと言って持ち込ん

できて、ガラテヤ教会の人々の中にはそれに影響された人も多かったという状況で、これを語っているの

です。

・先日テレビを見ていて、たまたま裁判員制度が始まって、初めて死刑囚が処刑されたということがあっ

て、一人の裁判員の方がインタビューでその苦悩を語っていました。まさに裁判というのは、定めによっ

て生きる生き方を典型的に表しているものです。死刑制度の廃止には、犯罪者もその罪を悔いて赦されて

生きる可能性を信じる信仰が反映されているのではないかと思います。定めによって生きるか信仰という

神の可能性によって生きるか、その二者択一が問われているように思われます。

・さてパウロは、13節でこのように語っています。<キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わ

たしたちを律法の呪いから贖い出して下さいました>と。<この逆説的な「呪われたメシア」の「十字架

論」はパウロの独創である>(原口)と言われています。これは<十字架に架けられたキリストが律法に

よって呪いを宣告された者であるということを認めた上で、このことは自ら呪いを引き受けることによっ

て律法の呪いのもとにある者を贖い出すキリストの救いの業に他ならないとパウロは述べているので>

(原口)あります。歴史的に考えれば、イエスの十字架はローマ帝国を代表する総督ピラトの命令によるロ

ーマに対する政治犯の刑罰とされている十字架刑による処刑と考えられます。そのイエスの十字架を、パ

ウロはこのように解釈しているのです。イエスを十字架に架けたローマの権力を体現するピラトも、ユダ

ヤの権力を体現する大祭司らも、またイエスを十字架につけろと叫んだ民衆も、そしてイエスを裏切り、

否定してイエスの弟子たちも、ある意味で律法の定めに生きていた人々だったと考えられます。彼ら・彼

女らは定めに呪縛されていた人たちだったのです。そのような人々によってイエスは十字架に架けられて

殺されたのです。律法の定めに呪縛された人びとによって、律法の呪いを自らに引き受けて十字架上で息

を引き取ったのです。イエスは律法の呪いから自由に、父なる神への信によって生きていたのですが、十

字架の呪いを身に引き受けることによって、律法の呪いのもとにある私たちを贖い出してくださったのだ

と、パウロは語っているのです。

・「贖い出す」(エクサゴラゾー)という言葉は、<本来身代金を払って、捕虜や奴隷を自由の身にする

ことを表わす言葉>だと言われています。

・定めに従って自力で生きる生き方が呪われた生き方であるということに気づいていたいと思います。

くあるべきだという親の価値観と定めによって呪縛されて、犠牲になっている子どもたちが多くいるので

はないかと思われます。社会体制というこれも定めの部類に入ると思いますが、その社会体制の枠組みの

強さに呪縛されて、苦しんでいる人も多いに違いありません。イエスは、私たちの定めに生きる者の呪い

を、自らの身に引き受けて下さって十字架にかかって死んでくださった。そのことによって、私たちを定

めの呪いから解放してくださったのだと、パウロは言っているのです。パウロは、イエスの十字架にその

ような決定的な出来事が起こったと語っているのです。

・このイエスの出来事によって、律法の定めによって生きる生から、信仰によって生きる生へと私たちは

招かれているのだと、パウロは語っているのです。この決定的なイエスの十字架の出来事から、前に向か

って前進していかなければならない。決して後戻りしてはならない。そう語ることによって、ガラテヤの

教会にやってきて、神の救いに与かるためには、割礼を受けて律法を守ることも必要であるというユダヤ

主義者の主張を、パウロは断固否定しているのです。

・14節でパウロはこのように語っています。<それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエ

スにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるため

でした>と。アブラハムに与えられた神の祝福とは、子孫の繁栄と土地取得です。それは、この大地で互

いに愛し合って生きていくという神の祝福への招きであります。イエス・キリストにおいて非ユダヤ

(異邦人)にもこの神の祝福が及ぶというのです。そして、イエスが律法の呪いから私たちを解放してく

ださったのは、私たちが信仰によって、その祝福を生きる命の霊をうけることができるためなのだと。

・ 定めによって生きる者の呪いの力が今も強く感じられますが、イエスの十字架の出来事によって

決定的に贖い出された私たちは、すべての者が神の祝福に与かる時をめざした、たゆまずに歩んでいき

たいと願うものです。