なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

キリスト者としての「わたし(たち)」とは?

 下記の文章は、神奈川教区ヤククニ・天皇制問題小委員会から依頼されて、その小委員会の機関紙、神

奈川ヤスクニニュース、2016年6月13日発行、復刊第35号に寄稿したものです。神奈川ヤスクニニュースがお

手元に届かない方もいらっしゃると思いますので、このブログにも掲載させてもらいました。


       キリスト者としての「わたし(たち)」とは?     北村慈郎


 私は、「神奈川ヤスクニニュース」第34号のEさんの「『国民』である前に」という文章を読ん

で、船越教会で毎週週報と共に出している船越通信で以下のように書きました。

 <このEさんの文章を読んで、私は名古屋時代(1977年4月から1995年3月まで)に教会

の仲間と膨大な時間をかけて議論し、自分たちの共同性の確認をしたことを思い出しました。その時の問題意

識も、国家や社会が求める「わたし」や「わたしたち」ではなく、自立した個をベースにした、国家や社会

に絡め取られない「我々」的共同性をどう構築できるか。そしてその共同性を一人ひとりが主体化して、そ

の共同性を体現した「わたしたち」としてどこまで行動化できるかという課題でした。キリスト者であると

いうことは、パウロに言わせれば、からだの肢体の一部としての「個人」であり、「キリストのからだ」と

して一体性をもつ共同体である教会に連なっているわけです。ですから、キリスト者である「わたし(たち

)」は、当然国家や資本制社会である市民社会が求める「わたし(たち)」とは異なっているはずですし、

その両者の狭間での葛藤を安易に解消することはできません。上記のEさんの文章からすれば、「国民」を

強いて来る権力や「和」をもって絡め取ろうとする特に日本的な共同体の圧力に対して、キリスト者とし

て一人の「個人」としてどう生きるかという課題です。この問題は戦争責任との関連と共に、右傾化した

現在の日本の状況においては非常に重要ではないかと思います>と。

 私が上記のような問題意識をもっているのは、何と言っても戦時下の教会の戦争協力のことが頭にある

からです。15年戦争下の日本プロテスタント教会は、「教会と国家」という対峙の形では自己主張できず、

むしろ国家の枠組みの中であの戦前の天皇制国家の侵略戦争遂行に積極的・消極的に加担し、そのことに

よって教会を護ろうとしました(原誠『国家を超えられなかった教会~15年戦争下の日本プロテスタント

教会』参照)。けれどもドイツの教会には、ナチズムに組み込まれた「ドイツ・キリスト者」とは別に、

どこまでその運動が貫徹されたのかは分かりませんが、少なくともナチズムに対峙した「告白教会」の活

動が起こりました。バルトが起草したといわれます「バルメン宣言」の第一テーゼには、ヨハネ福音書

らの引用につづいて、こう記されています。「聖書においてわれわれは証しされているイエス・キリスト

は、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。/

教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、

形象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわ

れは退ける」と。このバルメン宣言の第一テーゼにおける「われわれ」を主体化した個々のキリスト者

して、バルトをはじめニーメラーもボンフェッファーも、また告白教会に結集したキリスト者の多くもあ

のナチズムの時代を生きたのではないでしょうか。

 残念ながら戦前の日本の教会には、天皇制国家に対峙するこのような「われわれ」を主体化したキリスト

者の運動は生まれませんでした。何故なのでしょうか。原誠さんは戦時下の教会についてこのように述べ

ています。「教会は己が信仰の論理、つまり信仰によって立つ。しかし同時に、教会が教会としての自己

規定によって成立するばかりでなく、その立てられた社会における人々、歴史との関係の中でいかにして

教会であるかという根本的な課題を問うことにおいて脆弱であった。また神ならぬものを神とする、とい

キリスト教信仰の根本についての罪意識も希薄であった」と。戦時下の日本の教会にも原誠さんが言う

ところの教会がよって立つ「信仰の論理」はあったと思われます。現在の日本基督教団の中枢が「信仰告

白」による一致を強調しているように。「信仰告白」とは信仰の論理だからです。けれどもその「信仰告

白」は教会内の一致の論理ではあっても、その「信仰告白」を奉じる現在の日本基督教団の教会は、「そ

の立てられた社会における人々、歴史との関係の中でいかにして教会であるかという根本的な課題」にど

こまで真摯に向かい合っているでしょうか。

 戯曲家の竹内敏晴さんが、「私はキリスト者に対していささかガッカリしているんです。天皇制の問題

を考えるときに、天皇制に対して一番抵抗力を持ちうるのはキリスト者だろうと思ったから、私は何遍か

キリスト者に対する期待を書いたことがあるんです。仏教はどうも信用ならない。キリスト者ががんばっ

てくれなきゃ困ると言ったことがあるんだけれども、いまの状況を見ていると、もう全然あかん」(『待

つしかないー21世紀身体と哲学』より)と言っています。十字架に架けられたキリストを信じているキリ

スト者なら、「神ならぬものを神とする」天皇制に抵抗できるはずではないかと、竹内敏晴さんは言うの

でしょう。

 教会はイエス・キリストの福音によって呼び集められた者の群れです。その群れに属するキリスト者は、

イエス・キリストの福音による自立と共生をめざす者としてこの時代と社会の中で生きるように招かれて

いるのではないでしょうか。そのようなキリスト者としての「わたし(たち)」は、国家や資本の論理に

絡めとられない主体性をもって現在を生きうる可能性が与えられているように思うのです。私はその可能

性を生かして現在を生きていきたいと願っている者の一人でありたいと思っています。