なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(24)

昨日の船越教会での説教では、ロマ書の説教の準備は結構時間をかけてしているのですが、結局バルトになってしまうのですと、言分けがましいことを言わせてもらいました。

 

11月14(日)降誕前第6主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」          (ローマ5:5)

③ 讃美歌   12(とうときわが神よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-012.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編77編5-16節(讃美歌交読詩編83頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙5章6―11節(新約279頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     287(ナザレの村里)

  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-287.htm

⑨ 説  教   「新しい人」              北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 今年は聖霊降臨節(ペンテコステ)の礼拝は5月23日の日曜日でした。そして聖霊降臨節の最後の日曜日は10月17日でした。その間の礼拝での「招きの言葉」はローマの信徒への手紙5章5節でした。その招きの言葉は新共同訳聖書の引用です。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

 

  • この個所の田川訳は、「希望が恥を与えることはない。我らに与えられた聖霊によって神の愛が我らの心に注がれているからである」です。

 

  • 新共同訳の「欺く」、田川訳の「恥を与える」は、原語ではカタイシュクノーで、田川訳の方が原語の訳としては適切です。この言葉は「信仰・希望・期待等が空しくなり挫折して人に恥をかかせる事」(岩隈)を意味しているからです。

 

  • 聖霊降臨節の日曜日は、22週間、約5か月間になります。その間の日曜日の礼拝の招きの言葉が、このロマ書5章5節の言葉でした。

 

  • このロマ書5章5節の礼拝の招きの言葉を、みなさんがどのように受け止めたのかは分かりませんが、この「希望が恥を与えることはない。我らに与えられた聖霊によって神の愛が我らの心に注がれているからである」(新共同訳「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」)という言葉は、信仰者にとっては大変力強い言葉です。特に後半の「わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」は、信仰において、わたしたちは聖霊によって神の愛がわたしたちの心に注がれている存在、そのような「新しい人」(バルト)であると、言われているからです。

 

  • 今日の個所の前半、6-8節は5節を受けて語られています。6節の田川訳は、≪すなわち、まだキリストが、当時まだ我々が弱かった頃に、不敬虔な者たちのために死んでくれたのだ≫です。≪まだ我々が弱かった頃≫とは、キリスト者になる以前を指しています。<おそらくこの表現が曖昧であるために、それがさらに「不敬虔な者たちのために」(新共同訳では≪不信心な者のために)と言い換えられたのでしょう。キリストはわたしたち不敬虔な者・神なき者のために死に給うた。パウロはこのことを強調することで、5節bの「聖霊によって…注がれている」神の愛がいかに大きいものかを言おうとしたのでしょう。まさに聖霊を介してわたしたちに与えられた神の愛は、それに値しない者のためのキリストの死を措いては示されえなかったのであります>(川島重成)。

 

  • 同じことをバルトはこのように言っています。<かれは、われわれが(われわれの存在と所有と行為において)まだ弱かったころ、われわれがまだ不敬虔な者であったころ、われわれのために死んだのである。そしてかれとわれわれとのこの関係、かれの死を通じての生と、われわれ(しかもわれわれとしての!)がその範囲内で動いている、いまだ死の光の下には押しやられない、問題をはらんだ生の諸可能性とのこの関係が、どうして原則的に変更される必要があるだろうか。「生きている者」としてのわれわれが、みずからもキリストとともに死んだ者となる信仰を度外視し、時間的に考えれば、いつもくりかえし弱く不敬虔になって、死んだ者としてのかれとならんで立たないということがどうしてあるだろうか。まさにこのキリストとともに死ぬことが、それによってわれわれは、われわれが現にないところのものになるのであるが、新しい人の生を基礎づけるのである>と。

 

  • パウロは、弱く、不敬虔な者であるわたしたちのために死んでくださったイエス(キリスト)の死に、神の愛が示されていると、6節で語った後、人間の世界にあり得るかもしれない美しい死について7節で語っています。

 

  • ≪というのは、義人のために死ぬ者はめったにない。もしかすると善人のためになら敢えて死ぬ者もいるかもしれない≫(田川訳)。新共同訳では、≪正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません≫。

 

  • このような価値ある者のための人間の美しい死について触れることによって、パウロは、価値なき者、不敬虔な者のために死んだイエスの死を、際立たせようとっているかも知れません。イエスのように、人間は無価値な者のために死ぬことはできないのだと。

 

  • 8節では、6節の内容を再び取り上げ、5節bで語られた神の愛がどのような愛であるかを明示しています。≪だが神は我々に対する御自身の愛を確定して下さった。我々がまだ罪人であった時に、キリストが我々のために死んで下さったのである≫(田川訳)。

 

  • <神は我々に対する愛を示すのであるが、それは「われわれがまだ罪人であったとき」なのである。すなわち、それを受け止める能力がわれわれにあるかどかはまったく問題とせず、そのことがわれわれに伝達され、われわれがかれに愛される能力があるかどうかは問題としないのである。むしろわれわれがそれをなしえないこと、われわれがそれを見る目を持たず、それを聞く耳をもたないことは、まったく当然のことなのである。しかし神は、かれがわれわれに示しえないことを、われわれに示すのである。神は、われわれがまったくもっていない特性によって、われわれに語りかけるのである。「神は、われわれの愛によって誘発されることなしに、みずからまずわれわれを愛した」(カルヴァン)。したがってキリストの死によって前提されるのは、神の栄光(5:2)という新しい対象だけでなく、新しい主体でもある。そしてまさにこの新しい主体(信仰によってのみ、罪人なる私と一つとなりたもう)が、新しい人であり、圧倒的な確信をもって、キリストにおいて神に愛されることを知っている人間なのである>(バルト)。

 

  • ≪ならばますます、我々は今や彼の血において義とされたのだから、彼によって怒りから救われることになろう。つまり、もしも我々がまだ(神の)敵であった時に神の子の死によって神と和解させていただいたのであれば、ならばますます、和解された我々は彼の生命において救われることになるのである≫(9-11節、田川訳)。

 

  • <キリストの死において開示された確信の源泉のもつ優越性が、あの新しい人を特徴づけ、神に対するかれの愛、この愛に基礎づけられたかれの希望、希望する者であるというかれの誇りを特徴づける。われわれが、この源泉によって生き、またこの根源によって生きるかぎり、したがってわれわれが信仰の冒険へとのり出すかぎり、われわれは、われわれの現にないところの者である。すなわち新しい人であり、新しい対象との関係における新しい主体であり、神に愛された者であるゆえに神を愛する者であり、希望を贈られた者であるゆえに希望する者であり、神に選ばれた者であるがゆえに神において誇る者である。…われわれは神によって義と宣せられた者たちである。…われわれは、神と和解している。われわれは神の平和を得ている。神に対するわれわれの態度は、率直さとなり、敏感さとなり、用意周到さとなり、熱心さとなった。神に愛されたのであるから、われわれもそれに応えて神を愛するよりほかはありえない。神の栄光の曙光の中では、われわれも希望するよりほかありえない。また望みをもつ者として、われわれは神において誇るよりほかはありえない。「神は主導権をにぎって、恐れと敵意をいだいて神にそむいていた世界と人類とを、神の方に転向させたもう」(ヴァイネル)。われわれは「そこから」来ているのである(3:21)。われわれは実際に和解しているのか。われわれは実際に平和を得ているのか。われわれは実際に愛し、希望するよりほかはありえないのか。われわれは実際にそこから来ているのか。そのとおりである。だがよく理解してほしいのだが(いつもくりかえして!そうしてほしいのだが)、われわれが――じつにわれわれではないかぎり、そのわれわれが信じるかぎりにおいて、キリストの死によって、死線がわれわれの生を斜断し、そしてこの死線がわれわれに各瞬間ごとにおそれとおののきをもって、「われわれが――だが私がではなく」と考えさせ、また祈りと感謝をもって、「キリストが私のうちに」と考えさせるかぎりにおいてである。新しい人の存在は、われわれの非存在以外にはない。…われわれが「われわれでないもの」以外のなにものかであるかぎり、われわれが信じないかぎり、キリストの死がわれわれの「生」に、その光を投じないかぎり、われわれはいまなお、この世の内部、すなわち神との平和の外部に立っており、成就した和解のそばで、それとは、無縁、無関係にとどまっている。そして、われわれが、自分自身から直視し、知り、把握しうるものはすべて、こちら側にぞくする。精神的・歴史的に認識しうる橋は、こちらからあちらへ、古い生の可能性から新しい生の可能性へと通じるようにはかかっていない。われわれがわれわれであるかぎりわれわれは神の敵でありまたありつづけ、本性から神と隣人を憎む性向をもち、どのような意味でも天国の民やその相続者ではなく、むしろ本来天国の妨害者、破壊者でありまたありつつける。新しい人がイエスの死の光の中で立ちあらわれると、新しい人でないこの私は、その陰にかくれざるをえない。…(新しい人は)ただ信仰によってのみ基礎づけられ、また基礎づけられつづけるのである。すなわち、「かれの血によって」われわれは義と宣せられるのであり、われわれは、「敵であっても、その子の死によって神と和解する」。そしてこの弁証法的な前=提は、どのような瞬間にも硬化し、硬直化して直接的な所与となることは許されない。しかし、信仰によって(信仰のみによって、すなわち主を恐れ、復活の光の中にあることによって)「われわれは和解している」、「われわれは平和を得ている」、「われわれは愛し、希望するよりほかはありえない」「われわれはそこから来ている」ということが妥当し、成立する>(バルト)。

 

  • 今日もバルトの引用になってしまいましたが、ご容赦ください。

 

  • <われわれがわれわれであるかぎりわれわれは神の敵でありまたありつづけ、本性から神と隣人を憎む性向をもち、どのような意味でも天国の民やその相続者ではなく、むしろ本来天国の妨害者、破壊者でありまたありつつける>ということは、事実ではないでしょうか。最近小田急京王線の電車の車内で、殺傷事件が起きました。電車内の殺傷事件だけでなく、無差別に人を殺傷する事件が立て続けに起きています。人を殺傷しないまでも、その人の立場になれば、私たちも他の人を傷つけ、殺したくなる気持ちにならないという保証はありません。「われわれがわれわれであるかぎり」においては。

 

  • そのような弱く、不敬虔なわれわれのために死んでくださったイエスによって、われわれが、神を愛し、隣人を愛することのできる「新しい人」として生きる可能性が与えられていることを、聖書は語っているのです。<ただ(それは)信仰によってのみ基礎づけられ、また基礎づけられつづけるのであ>りますが。

 

  • 私たちキリスト者は、その信仰による「新しい人」として生きる可能性を証言する者として神に招かれているのではないでしょうか。この神の招きに応えて精一杯生きていきたいと願います。

 

  • 神が、聖霊によって、私たちの心に神の愛を注ぎ続けてくださいますように!

 

祈ります。

  • 神さま、今日も会堂に集まって礼拝をすることができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、古い人としてのわれわれにとどまってしまっている不信仰が、今もわれわれを支配していないかどか吟味検討し、私たちに信仰によって与えられています「新しい人」としてこの世の現実を生きる命を豊かに与えてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     382(力に満ちたる)

 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-382.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。