なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(18)

9月26(日)聖霊降臨節第19主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」          (ローマ5:5)

③ 讃美歌      2(聖なる神は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-002.htm
④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編90編13-17節(讃美歌交読詩編101頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙4章1-8節(新約278頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    471(勝利をのぞみ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-471.htm

 

⑨ 説  教  「アブラハムの義」         北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • ロマ書は、3章までで、ローマの教会の人びとに向けてパウロが語ろうとしていることにおいて、それはパウロの福音理解ですが、一段落を告げています。

 

  • 4章に入る前に、3章までで語れたことを、もう一度振り返っておきたいと思います。

 

  • 第一に、全ての人は罪人であるということです。

 

  • ですから、人は到底その行いによっては神の前に義とはなり得ないということです。義とは、本田哲郎さんが訳しているように「解放」です。解放とは、罪人である私たちが神の似姿に創られた人間本来の姿になることです。ですから、義は私たちにとっては解放であり、救済なのです。

 

  • 第二に、従って、ただ神から義を受ける以外に、人には義に至る道はないことです。

 

  • 私たちの方から義に至る道はないということです。そして神はこの義を私たちに与えてくださり、罪人であり、不敬虔で不義なる私たちに義に至る道を切り拓いてくださったということです。

 

  • 第三に、この神の賜物としての義に至る道は、具体的には、罪の赦しであるイエスの十字架の贖罪によって切り拓かれたということです。

 

  • ですから、私たちはこのイエス・キリストによる神の主体的行動を、ただ受ける信仰によってのみ義とされるということです。

 

  • 第四に、それ故に、人には何ら誇るべきものはなく、すべての良き事はみなイエス・キリストにおいてあるということです。

 

  • これが3章までにおいてパウロが説いてきた内容です。

 

  • 4章1節の新共同訳は「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たというべきでしょうか」です。

 

  • この新共同訳に近い訳は、日本訳の並列を見ていただければわかりますように、岩波訳とクランフィールド訳です。ところが、バルト訳や本田訳は田川訳「では我々がアブラハムを肉による始祖としているということについて、何と言おうか」に近いと思います。ギリシャ語の翻訳からしますと、田川訳の方が原文に忠実ではないかと思われます。

 

  • パウロは、ロマ書2章から3章にかけて、「ユダヤ人は律法を持っているから異邦人とは違うのだ、という意見を批判してき(まし)た。そこで今度は(この4章で)、ユダヤ人はアブラハムを始祖としているから異邦人とは違うのだ、という意見を批判しにかかっている」(田川)のです。

 

  • パウロは3章27,28節で、このように述べていました。「ではどこに誇りがあるのか。誇りはしめ出された。いかなる法によってか。業績の法か。否。信の法によってである。すなわち我々が考えるには、人間は律法の業績なしで、信によって。義とされる」(田川訳)。すなわち「人間は律法の業績なしで、信によって。義とされる」と。この信は、イエスの信、神の信実です。

 

  • ところが、パウロの同時代のユダヤ人の中では、アブラハムが尊敬されているのはアブラハムの業による義であると思われていたようです。<ヨベル書(2世紀後半BC)23章10節には、「アブラハムはそのすべての行ないにおいて主に対して完全であり、その生涯をとおして義しく[主に]喜ばれる人間であった」とあり、またマナセの祈り[旧約外典](成立時期ははっきりしないが、おそらく1世紀BCあるいは1世紀AD頃)によると、アブラハムは罪を犯さなかった[マナ8節]。そうした見方からすればアブラハムは、誇るための根拠を確かに持っている>(クランフィールド)のです。

 

  • パウロは、4章2節で、≪もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない≫(田川訳)と言って、同時代のユダヤ人のアブラハム理解を否定しているのです。

 

  • そして、3節で、聖書を引き合いに出してこのように語っています。≪すなわち、書物(聖書)は何と言っているか。「アブラハムは神を信じた。それが彼に対して義へと算入された」と≫(田川訳)。アブラハムが神に義と認められたのは、アブラハムの行為、業ではなく、神を信じたアブラハムの信仰であると、パウロは言っているのであります。

 

  • この聖書の箇所は創世記15章6節です。「アブラハムに対する神の言葉、神の約束(創15:1,4,5)を信じることに言及するこの言葉は、ユダヤ教の思想と議論において目立って重要な位置を占めてい(まし)た」。すでにマカバイ記一2章52節(「アブラハムは試練を通して信仰を証しし、それが彼の義と見なされたのではないか」)においてアブラハムの信仰は、アブラハムの側の称賛に価する[功績のある]行為と理解されている」(クランフィールド)のです。

 

  • 創世記15章6節のアブラハムの信仰を、アブラハムの側の称賛に価する功績ある行為とする理解は、パウロの同時代のラビ・ユダヤ教でも広く受け入れられていたと言われています。ですから、ラビ・ユダヤ教にとっては、創世記15章6節は、アブラハムはわざに基づいて義とされたのではなかったということを立証する証拠・証言ではまったくなかったのです。

 

  • それに対してパウロは、「アブラハムはわざに基づいて義とされたのではない。だから、アブラハムは神の前に誇る権利は持っていない」という彼の主張を立証するために、わざわざラビ・ユダヤ教側がパウロとは正反対の解釈をしている創世記15章6節を、ここで取り上げているのです。そして、4~8節で、パウロは、創世記15章6節に含まれる文言の重要な意義を引き出すことによって、彼の主張を展開しているのです。

 

  • 4,5節:「労働者にとってその報酬は、恵みに応じて算入されるのではなく、貸し借りに応じて算入される。しかし働かず、不敬虔である者を義とする方(=神)を信じる者には、その信が義へと算入される」(田川訳)。

 

  • 4節ではずばり経済活動の常識が比喩に用いられています。働く者に支払われる賃金は当然の報酬であり、恩恵として与えられるものではないと言うのです。5節は4節を受けて、本来ならば、次のように言われて然るべきです。「働きのない者には、何の報酬も支払われない—―恩恵による以外には」と。事実パウロは5節を「しかし働かず、・・・」と始めているのです。しかしパウロはそのように比喩の対応を完徹することなく、「しかし働かず、」と書いたところで中断し、…信による義(信仰義認)をいきなり、しかも3節以上にラディカルな言い方で持ち込んでくるのです。すなわち、「働きのない者」が、3節のアブラハムを代表する「信じる人」と同一視され、さらに「不敬虔である者を義とする方(=神)を信じる者」と敷衍されるのです。・・・・・「働きのない者」とは、まさに「不信心な者」「不敬虔な者」、すなわち「神なき者」に他ならなりません。その「働きのない者」が「不敬虔である者を義とする方(=神)を信じる者」なのです。パウロは「その信が義へと算入される」というのです。

 

  • 川島重成さんは、<この5節の不敬虔な者、神なき者の義認ほどパウロの信仰義認論を深く、尖鋭化して捉えた表現はない>と言って、このように語っています。<パウロによれば、イスラエルの父祖たるアブラハムでさえ、神の前では端的に無価値な者であった。ましてわたしたちがそうであるのは言うに及ばない。信仰とはそのような生来不敬虔な者、神なき者の信仰という逆説だとすれば、それ自体恩恵として与えられるものであるしかないであろう。信仰とはすなわち神なき者を義とする方への信仰、神の一方的な恵みとしての神の義の啓示たる福音(1:17)の支配下に囲い込まれること、わたしたちに先立ってある救いの力としての福音(1:16)への応答としての聴従以外ではないのである>と。そして「義へと算入される」、即ち<「義とされる」ということは、神による法的な宣告であるが、決してフィクションではなく、リアルなことだ>というケーゼマンの言説を紹介し、「しかしそれはどのような意味でリアルなのか」と問うてこのように言っているのです。<もし新しくされるということが、いわゆる聖化ということをも含めて、何らかの意味においてわたしたちの側のリアリティとして確認されるようなものであるなら、それはパウロが言う信仰とは違う新たな敬虔、新たな誇りを生むことになろう。そうではなく、義認は福音へのわたしたちの聴従において、その都度出来事となる神の行為としてだけリアリティを持つというべきであろう。すなわち信仰――信仰による義――は≪キリストによって自己を超えて神の前に立つ可能性≫の中に置かれることによってだけ成立するものと言うべきであろう>と(下線筆者)。

 

  • 6~8節「同様にダヴィデもまた、業績がないのに神が義を算入して下さる人の祝福を述べている。「自分の不法を赦された人たち、自分の罪を隠してもらった人たちは、幸いである。自分の罪が主によって数えられないでいる人は、幸いである」(田川訳)。

 

  • ここでパウロは、「同様にダヴィデもまた、業績がないのに神が義を算入して下さる人の祝福を述べている」と言って、詩編32編1-2節の七十人訳ギリシャ語訳、31編1-2節)を引用しています。その詩編の言葉は、罪を赦された者の幸いを歌っているのであります。ここでは「義とされる」ということは「罪の赦し」と同定されているのであります。

 

  • 少し長くなりますが、7節「自分の不法を赦された人たち、自分の罪を隠してもらった人たちは、幸いである」についての関根正雄さんの注釈を紹介させていただきます。

 

  • 「キリストの義を着るというパウロの言い方が他のところにも出てきますが、キリストの義を着ることが神の前に全く義とされることであります。義を着るというのは、義をおおいとして、あるいは着物として着るということすね。ですから罪というものがわれわれの中にあっても、そのままで義の衣を着せられるということで、われわれの罪が最早、見えないようにされるのです。キリストの義だけがわれわれと神との間に立ちまして、キリストを通してだけしか神はわれわれを見給わない。だからわれわれの罪まで神が目をとめ給わないのです。そういうことが罪がおおわれるという面白い表現で意味されているのですが、これは非常に重要なことです。われわれが罪というものを問題にする際になにが必要かといえば、自分で自分の罪を暴きたてたり、あるいは人の罪を暴いたりすることではなくて、それが実は神のキリストにある義によって最早、おおわれてしまっている、見えなくされてしまっているということを本当に知りまして、罪の赦しということを心の底からただ受身になりまして、頂くということです。頂くものにならない限り、罪の赦しということは絶対に成りたたない。ですから絶対の恩恵であって、「さいわいである」という言い方になるのです。だからわれわれの方でもキリストの義だけを見ていること、自分を最早、見ないこと、そのことが罪の赦しであるのです」。

 

  • 「自分を最早、見ないこと」、ただ「キリストの義だけをみていること」、それが罪の赦しであり、信による義であると言うのです。私たちは、自分自身の罪を数え、他者の罪をあげつらい、キリストの義だけを見る視点を失ってはいないでしょうか。もしそうであるとすれば、私たちは今だ、罪の奴隷であって、罪の支配下に呻吟しているに過ぎない者と言えるのではないでしょうか。そうではないのです。イエスの信・神の信実によって、罪には覆いがかけられ、私たちは義の衣を着て、罪の支配力から解放されているのではないでしょうか。そのイエス・キリストが切り拓いて下さった義の道を、私たちも生きることができますように!

 

祈ります。

  • 神さま、今日も教会で皆が集まって礼拝をすることができません。メール配信による自宅での分散礼拝になりますが、それぞれ礼拝をもって新しい週の歩みに向かうことができますようにお導き下さい。
  • 神さま、イエス・キリストの生涯と十字架と復活によって、私たちのただ中に切り拓かれた義の道に、私たち一人一人が生きることができますように。私たちをあなたが執拗に招いてください。御心ならば、私たちもまた、幼な子のようにあなたの招きに、その都度従ってい行くことの出来る勇気を与えて下さい。そして、この不義が溢れ、平和と和解からほど遠い現実の世界にあって、義と平和と喜びであるあなたの支配のもとに生きることができますようにお導き下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌         125(いかに幸いなことだろう)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-125.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。