下記の説教では、鶴巻通信(19)で紹介したボンフェッファーの言葉とベイリーの祈りを最後に引用させてもらいました。 重なりますが、ご容赦ください。
(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。 今から礼拝を始めます。 しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」 (ローマ5:5)
③ 讃美歌 7(ほめたたえよ、力強き主を)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-007.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編36編2-10節(讃美歌交読詩編38頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 ローマの信徒への手紙4章17節b―25節(新約279頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 451(くすしきみ恵み)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-451.htm
⑨ 説 教 「約束の成就への信頼」 北村慈郎牧師
祈り祈り
- アブラハムを父祖に持つユダヤ人は、自分たちはアブラハムの子孫で神の民として選ばれた選民であって、根本的に異邦人のような汚れた人たちとは違うのだと信じていました。 そういうユダヤ人の考え方をパウロは批判しているのですが、そのためにこの4章では、アブラハムを引き合いに出して語っているのです。
- 今まで見てきましたように、アブラハムはユダヤ人の父祖であると共に、信による義を生きた人物としては、ユダヤ人だけでなく、異邦人を含めた人類の父祖でもあるというのです。 そして、そのような信による義を与えられたアブラハムには、詩編の作者と考えられていたダビデも讃えている罪赦された者の祝福が与えられているのだと言っているのです(4:6-8)。
- ロマ書4章9節以下では、≪では、この祝福は割礼に対してのものか。 それとも無割礼に対してか≫(9節、田川訳)という問いを立てて、パウロは、信による義にとって、割礼のある無しは全く問題にならないと言っています。 割礼があろうと無かろうと、つまりユダヤ人であろうと異邦人であろうと、信による義は神によって誰にでも与えられる恵みなのだと、パウロは言っているのであります。 つまり信による義は異邦人にも妥当すると。
- そして、パウロがアブラハムをわざわざ引き合いに出して、信による義(信仰義認)をユダヤ人にも異邦人にもすべての人に与えられた神の恵みとして語ったのは、信仰義認がアブラハムの神の選びによる人類に対する神の救済の歴史と密接不可分にかかわっているからだと言うのです。
- そして、神の救いの歴史である救済史は、パウロにおいては。地上的諸可能性や期待に逆らう神的「約束」の歴史なのです。律法は私たち人間が守れるものではなく、むしろ律法によって、律法を守ることが出来ない、神の怒りの下にある私たち罪人の現実を明らかにするものだと言って、律法による義を自力でいくら求めても、私たち人間には義(=救済=解放)に至ることは不可能である。従って、律法に頼る者は、神がアブラハムとその子孫にした約束に与かることはできないのだと、パウロはここで語っているのです。
- ≪この故に、信から、なのだ。つまり、恵みに応じて、ということである。その結果、約束がすべての子孫に対して確かなものとなったのだ。律法からの者(ユダヤ人)だけでなく、アブラハムの信からの者(異邦人)に対しても。アブラハムは我々皆の父祖なのである≫(16節、田川訳)と。
- ≪アブラハムが信じた神は、死者を生かし、存在しないものを存在するものとして呼び出す神である。彼は希望に反して希望を信じた。その結果すべての民族の父となった。「汝の子孫はこのようになろう」と言われているとおりである≫(17節後半―18節、田川訳)。
- アブラハムに与えられた神の約束、「汝の子孫はこのようになろう」という約束は、人間的には不可能に思えるものでした。何故なら、この約束が与えられた時、アブラハムは既に百歳になって、年老いていたからです。また妻サラも年老いて子どもを産むことの出来ない体になっていたのです。しかし、アブラハムは≪希望に反して希望を信じた≫というのです。
- 19節に、≪そして、ほとんど百歳にもなっていたので、自分の肉体がすでに死んでおり、またサラの母胎も死んでいたことを認識していたのだが、なお信を弱めることがなかった≫(田川訳)と記されているように、です。
- <神の約束の実現が人間的には全く不可能であることをアブラハムは凝視した。しかしそこに働く奇蹟としての神の恵み、まさに無からの創造としての神の行為にアブラハムは希望を託したのである。信仰はまさにそのような希望(逆説的な希望)に他ならないのであります>(ヴィルケンス、川島)。
- 信仰は逆説的な希望、希望に反して希望することであると言われています。今私たちはそのような逆説的な希望を信じて生きているでしょうか。私自身を振り返ってみますと、イエス・キリストを通して私たちに信による義を呼び起こす神の主権的行動が、聖霊によって今も私自身に注がれているにも拘わらず、己の側の信によってそれに応えているのだろうかということです。
- 福音書に「シリア・フェニキア生まれの、悪霊に憑かれた娘を持つ異邦人の母親」の物語が出ています。この母親は、イエスに娘から悪霊を追い出してくださいと願います。イエスは、自分が遣わされたのはユダヤ人のためで、異邦人には遣わされていないと、この母親の願いを拒絶します。すると、母親は、「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます」と、イエスに言います。するとイエスは、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言われ、娘から悪霊を追い出したというのです(マルコ7:24-30)。
- この母親の切実な信仰のような信仰をもって、私たちは、信による義を私たちに与え給う神に向かい合っているでしょうか。
- アブラハムは、≪神の約束を信頼せずに疑ったりしないで、信を強め、神に栄光を帰したのである。そして神は約束したことを実現することもできる(と信じて)、満足していた≫(20節、21節、田川訳)と言われます。
- クランフィールドは、21節を「神は約束したことを実行する力を持っていることを確信していた」と訳し、<この文言はアブラハムの信仰は単に約束されたもの・こと[すなわち約束の内容]に対する信仰ではなく、約束した神に対する信仰であったということを際立たせることによりアブラハムの信仰についての記述を締めくくる>と言っています。
- 22節≪この故に、それが神に対して義へと算入されたのである≫(田川訳)。この22節は、<おそらくそれは、23-25節への橋渡しとしてであろう。23節以下では、アブラハムの信仰義認が、イエス・キリストにあってまたわたしたちの問題でもあること、すなわち「神は人間を無視して、通り過ごしてしまわれない」ことが、真正面から語られるのであります>(川島)。
- ≪「彼に対して算入された」と書かれているのは、アブラハムのことだけではない。我々についてもそうである。我らの主イエスを死人の中から甦らせた方(=神)を信じる我々に対しても、算入されるのだ。主イエスは我らの罪過の故に引き渡され、我らの義認の故に甦らされたのである≫(23-25節、田川訳)。
- アブラハムが、希望に反して希望することによって、神によって義とされたが、それはアブラハムのことだけではない。主イエスを死人の中から甦らせた神を信じる私たちに対しても、神はアブラハムと同じように義としてくださるのだ。≪主イエスは我らの罪過の故に引き渡され、我らの義認の故に甦らされたのである≫からだと、パウロは言っているのであります。
- 私は、その日のボンフェッファーの一日一章『主のよき力に守られて』を、毎日朝読み、ベイリーの祈り(『朝の祈り、夜の祈り』を祈っていますが、10月14日のボンフェッファーの一日一章と朝のベイリーの祈りは共鳴していて、特に心動かされる思いをしました。みなさんと共有したいと思い、私のブログでも紹介しました。神によって義に算入された者の姿をよく言い表していると思いますので、少し長くなりますが、ここでも紹介して終わりたいと思います。
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10月14日 キリストの愛の中に帰ること
「心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の意志であるかを、わきまえ知るべきである」(ローマ12:2)
「何が神の意志であるか」をわきまえ知るために、どこから始めたらよいのであろうか。神の意志をわきまえるためにどうしても不可欠なことは、人間が内面的に造りかえられること、「心が新たに」されることである。人間が造り変えられ、かたちが変わるということで重要なことは、堕落した人間であるアダムのかたちを克服し、新しい人間であるキリストのかたちと同じになるということである。神の意志をわきまえ知ることを可能にするのは、「新しいかたち」なのであって、この「新しいかたち」こそが、神に反逆して善悪についての知識を獲得した人間を、自分の背後に、あるいは下に置くのである。この「新しいかたち」とは、神の意志とひとつになって生きる「神の子のかたち」である。
愛のうちに生き、愛が増し加わるということこそが、神の意志をわきまえ知るための前提条件である(ピリピ1:9-10参照)。なぜなら、愛のうちに生き、愛が増し加わるということは、神と人間との一致において生きることであり、イエス・キリストの生を生きることを意味するからである。何が神の意志であるかをわきまえ知ることは、善悪についての自分の知識から出発して考えようとする者には不可能であり、逆に、善悪についての自分の知識を捨て去ろうとし、自分で神の意志を知ることを全くやめようとする者にのみ可能なことである。何が神の意志であるかを、わきまえ知ることは、ただイエス・キリストにおいて示されている神の意志を知ることによってのみ、可能になるのである。
ベイリー『朝の祈り、夜の祈り』 14日 朝
主よ、あなたはまずしく、みすぼらしいわたしの人生のうちにやどり、おりにふれてわたしを動物的な感情の支配から引きあげ、あなたの愛と喜びと平和の光によって輝かせ、みえざる世界の美しさをうつし出す鏡としてくださいます。どうか、この日、わたしの生活があなたの臨在の輝きをくもらせることなく、かえってそれを人びとの目の前に照り輝かせるものとしてください。
きょう、わたしが、
すべてきよいこと、真実なこと、正しいこと、よいことのために
科学と教育と学術の進歩のために
事業と自己追求の幣に陥ることを救うために
労使の強調と相互扶助のために
過去の豊かな伝統を守るために
現代の人びとの心に新しく働く御霊のはたらきを見いだすために
来るべきより大きな栄光の日の望みのために
立ちはたらくことができますように。
神よ、この日、
わたしが利益よりも正義を先にすることができますように。
自分よりも他人を先に
肉の事がらよりも霊の事がらを先に
目前のたのしみよりも高貴な目的を果たすことを先に
名声よりも名分を先に
そして、すべてのものよりもあなたを先にすることができますように。
主よ、主の何ものにもまさる栄光は、イエス・キリストのみ顔に、ひとたびあますところなくあらわれました。どうかきょうも、主のみ心をわたしの心とさせてください。勇気ある心、真実な心、やさしい心、ひろい心、あなたにかたく結ばれた心を。
主のみ名によって。 アーメン
祈ります。
- 神さま、今日も会堂に集まって礼拝をすることができ、心から感謝いたします。
- パウロのローマの信徒への手紙からあなたの語りかけを聞いています。パウロは回心して、主イエスに従って生きるようになってから、それ以前とそれ以後では、決定的な自己変革が起こったことを経験し、それをこの手紙で熱く語っているように思います。このパウロの言葉を通して、私たちもあなたと一つになって生きていくことができますように、私たち一人一人をお導きください。
- 衆議院選挙が行われます。この選挙を通して、公正で真実と愛にあふれた政治を行う人を選ぶことができますように。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
- 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 讃 美 歌 412(昔主イエスの)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-412.htm
⑪ 献 金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
(13) 祈り
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。