なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(22)

10月24(日)降誕前第9主日礼拝(10:30開始)

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」          (ローマ5:5)
③ 讃美歌     8(心の底より)
 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-008.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文   詩編19編1-7節(讃美歌交読詩編2019編1-7節頁)
        (当該箇所を黙読する) 
⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙5章1-2節(新約279頁)
     (当該箇所を黙読する)
⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌      171(かみさまのあいは)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-171.htm
⑨ 説  教   「今の恵み」            北村慈郎牧師
  祈  祷

・    5章1節の前半にこう記されています。≪さて我々は信から義とされたので≫(田川訳)、新共同訳は≪このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから≫です。これは、1章18節から4章25節までを受けて、これまで語ってきたことを確認しているのです。パウロはここで、≪我々は信から義とされた≫と言って、私たちが自己中心的で、過ちを犯す罪人であるという、生まれながらのありのままの人間から、不敬虔な者を義とする神の義への信から義とされた「新しい人間」になったのだというのです。

・    このことを、バルトはこのように言っています。<神はわれわれの前に自分自身を義とし、そのことによって自分の前に、まさにわれわれ自身をも義とする。神はわれわれを捕え、捕えることによってわれわれを自由にする。神は、現にあるがままのわれわれを否定し、まさにそのことによってわれわれを、現にそうでない者として肯定する。神はわれわれを用いる。そしてまさにそのことによって、われわれの中で、神のよき業をはじめる。神はわれわれの味方となる。そしてこのようにして、かれの事柄はわれわれの事柄となり、かれの義はわれわれの義となる。神はわれわれのためにとりなす。神はわれわれとともにある。われわれは神の国におけるわれわれの救いの約束をもつ。われわれは、すでに希望において神のものである。このように、古い既知の人間の主体が否定されることによってこそ、新しい主体の基礎づけが遂行される>。

・    ≪我々は信から義とされた≫ということは、古い人間としての自己が神によって否定され、神によって義とされた新しい人としての自己が据えられるということなのです。その神による自己変容は「信から=信仰によって」与えられると言うのです。信仰は、その都度その都度信じることによってしか成立しません。信仰は人間の能力のように人間の所有物にはなり得ません。信仰は、瞬間、瞬間の出来事です。しばらく前にこの説教で、中村哲さんのアフガニスタンでの働きに触れて、水源としての神との関りで、信仰は「水路」とか「水道管」に譬えられると申し上げました。水路や水道管はある面で恒久的なものですが、水路や水道管を通して私たちに注がれる神の命の水は、常に新しい水が注がれているのです。池のようにたまった水ではありません。水源から水路や水道管を通して新しい水が一瞬一瞬注がれ続けているのです。≪信からの義=信仰による義認≫も、そういう出来事ではないでしょうか。

・    ≪さて我々は信から義とされたので≫に続けて、パウロは、≪我らの主イエス・キリストによって神に対する平和を得ている≫(1節、田川訳)と言います。

・    「神に対する平和を得ている」とありますが、この「平和を得ている」が、写本の中には「平和を持とうではないか」となっているものもあります。「平和を持とうではないか」というと、これは勧告、勧めになります。なるほどわたしたちの現実を見れば、平和はないとするほうが正直な見方だとも言えましょう。だから「平和を持とうではないか」と勧告しているのだと言うわけです。それに対して「平和を持っている」は直接法現在です。ほとんどの聖書学者は後者ではないかとしています。

・    ここでパウロは人間の内面的心理的状態を問題にしているのではありません。また政治的・社会的現実を言っているのでもありません。まさにそのようなわたしたちの悲惨とも言える現実にもかかわらず、「私たちを離れて神の前に立つ力」としての信仰を与えられた者の視点から、わたしたちの主イエス・キリストによって成就した神との関係における平和を問題にしているのであります。すなわち「キリストの支配の下で神との争いと怒りの力への頽落が終焉し、セム人が平安という言葉で言い表す救いの充満が地上の場所において実現されている」(ケーゼマン)と、パウロは見ているのであります。そしてこれは果たせぬ律法の義を追求して、たえず不安であり、不確かであり、それゆえ「シャローム」(平和あれ)とお互いに言わざるをえないユダヤ人のあり方との根本的な差異を際立たせます。神との平和こそキリスト者の生のしるしだと、パウロは直説法で言い切っているのであります(川島重成)。

・    <われわれだけが知っている人間、不義の人間(罪人)が、われわれの知らない神との平和を得ていること、それがかつて例のない光であって、われわれは信仰によってのみこの光の中に歩み出る。神との平和とは、神と人間とのあいだの平和条約の締結のことであって、神によって人間の態度が変化させられ、創造者に対する被造者の正常な関係が確立し、主を恐れることにはじまる神への愛そのもの、すなわち人間が神に対してもちうる唯一可能な真の愛(5:5)が成立することによって、もたらされるのである。われわれは、神の前に信仰によって義とされないかぎり、いわば神と戦闘状態にある。・・・・人間は人間であり、神は神でありつづける。信仰は不可欠なものでありつづける。信仰の逆説的性格は、いささかも信仰から取り去られることはできない。人間は、いささかも待つ者、ただ待つ者であるにすぎないことを、すなわち、見ないのに望む者(8:24)であることをやめない。しかし、かれは信仰によってただ神のみを待ち望む者となり、そしてまさにそのことが、神とかれの平和である>(バルト)。

・    「我らの主イエス・キリストによって」。

・    <ここで確保されていなければならないのは、この平和を得ていることが基礎づけられ、現実的となるのは、ただ神においてのみであり、決して他の場所においてではない、ということである。それがわれわれに対する神の業であって、十字架にかけられ、復活したキリストを見ることによって、完遂されるのである。したがって、精神的な出来事や人間の奮起の結果ではない。信仰がもしそのようなものであるとするならば、信仰は神の前における義ではなく、われわれと神との間の事態にふさわしい秩序をたてることではない。信仰は、その不可視的非歴史的な内容のゆえに、生から死への、すなわちキリストにおける生への転換のゆえに、われわれ自身を廃棄し、神と和解させる力である>(バルト)。

・    「キリストによってまた我々は、我々が今その中に立っている恵みへと導き入れられることを得」、

・    <新しい人の神との平和は、問題をふくみつつも、約束にみちた使徒パウロ)の実存によって証しされています。パウロは「この恵み」に立っています。すなわち、イエス・キリスト使徒である(1:5)という恵みに立っているのです。パウロは、まったく異常な状況におかれています。私たちが語りえないことについて語らねばならず、神のみが証しをなしうることについての人間としての証人とならねばならず、パウロでありつつ、同時に「神の救いの音ずれのために選びわかたれた」(1:1)救い主の僕でなければならないのであります。(私たちが、私たち自身であると共に「キリストの者」としてのキリスト者であり、キリスト者でなければならないということです)。パウロはこの立場を、まさに恵みとして、逆説的な事実としてしか理解しえない(Ⅰコリ15:9-10)。この立場によって、神と人間の平和という不可視的なものが存在し、それがなにを意味するかが、かれにも、またおそらくは読者にも可視的になる。かれは、かれの限界内に退くことを命じられた。かれは恐れとおののきをもって、神の義をうやまうことをまなんだ。かれは、(ダマスコ途上で復活のイエスと出会い、回心して、それ以前のユダヤ教徒としての)サウロとしては、廃棄されてしまった。かれの走行路は断絶した。かれは目が見えなくなった。そしてそのとき、かれは神を愛しはじめた。そのとき、かれは神をかれ自身としてすべての人間の創造者、救済者として認識した。そのとき神への熱意が燃えはじめた。壊滅力をもつ神の聖さがかれに明らかになったとき、神のあわれみがかれをとらえた。神との関係において待つ者となることによって、かれは得ている者、すなわち平和を得ている者となり、それからこそ神をあえぎ求める者となった。いまや神の偉大な注視が、小さい者、弱い者であるかれの上にそそがれている。いまや広大な神の委託という重荷が、かれの肩におわされている。いまや神の力が見のがしえない強さで、かれの後ろに立っている。いまやかれは、かれが現にあるところの者、すなわち、すべての人が、その前では塵や灰になってしまう、あの方の使者である。しかしそのことはまた、かれが現にそうでないところの者であり、かれが知らないことを知っており、かれがなしえないことをする(「生きているのは、もはや、私ではなく・・・」)(ガラ2:20)ということである。そしてかれは、どのような心の高まりにおいても、また失意のときにも、新しい人の神との平和についていわなれればならないこと、すなわちかれ自身の実存の逆説的事実を見失わないであろう。告知は、告知する者から切りはなすことはできない。「信仰によってのみ」とのかれの言葉によって、この平和への扉を開き、また――閉じるとき、かれは、自分がなにをしているのかを知っている。というのは、信仰において、そして信仰においてのみ、かれ自身は、「その通路」を見出したからである。「かれによって」、すなわち、われわれの主イエス・キリストによって、という言葉で、いつもくりかえしこの扉をいいあらわしているとき、かれは自分がなにをしているのかを知っている。というのは、すべての前段階と移行とを省略して、ただかれに対する神の業によってのみ、すなわち十字架につけられ復活した方を見ることによってのみ、かれは信じたのであり、現にいまも信じており、また信仰において、かれはいま現にある(〈以前のユダヤ教徒では〉ない!)ところの者である>(バルト)。

・    「また神の栄光の希望をもって誇っている」。

・    <このことによってパウロは、なによりもまず、かれが宣べ伝えている救いの音ずれによって、人びとに希望をもたらすとき、かれがなにをしているのかを知っている。その希望とは、はかり知れないほど大きい、喜ばしい希望であり、他にならぶもののない希望そのものであり、神の栄光の希望である。その希望は、「われわれが神の性質にあずかるべきだと証しする福音から、われわれに向かって輝きでている。というのは、われわれが顔と顔とをあわせて神とまみえるとき、われわれは神に似たものとされるであろう」(カルヴァン)。これこそが、神の現実の中に生きる生であり、救いと最後の救いであり、あのアブラハムに約束された遺産(4:13)であり、天国の到来であり、復活における、彼岸と此岸の一致であり、純粋な注視による神と人間の一致(3:23)であり、キリストの再臨、すなわちパルーシアに際しての神の否と然りの一致である。それが、信仰による義人の誇りとする希望である>(バルト)。

・    <そして「かれらがいま地上では巡礼者であっても、確信をもって、すべての天をこえてあまがけるのであり、いますでに安心して、未来の遺産の分け前を心にいだいている」(カルヴァン)。信ずる者として、パウロもまたこの希望を誇り、まさにこのかれの希望の誇りが、時計の振子であり、使徒職という逆説的事実の中にある根源的な生命である。しかし、—-かれは、望みだけをもち、望みだけを宣べ伝える。神はかれに助産婦であることを命じ、産む者であることを禁じる。あのソクラテスに対するように! 根本的に未来のもの、彼岸のもの、永遠なものの先取りは、信仰の先取り以外にはありえないのだ。内密のものであろうと、公然たるものであろうと、いかなる「現にある」も、おそらく信仰の緊張を、すなわち、この「現にある」にふくまれる「いまだなし」を、その欠如を、その希望的性格を否定し去ることはないであろう。そこでは、すべての「現にある」の力と意味とは、私たちにとってはいつも、現に――ないものの中にあるに違いないからである。こことかしこの間に、「私は—―信ずる」という、途方もない述語づけを遂行しなければならないとの意識なしには、新しい人と古い人との人格的一致はありえない。まさしく、「われわれは誇る」。われわれは、この希望とともに与えられた究極の支えと、慰めと、誇りとを意識している。しかし、この究極のものを、われわれはいつも知り、熟考するであろう――絶対に、用済みにしてしまうこともなければ、われわれの所有(2:17,22,3:27、4:2)と見なすこともせず、われわれの体験、可能な(歴史的、あるいは個人的)可能性と呼ぶこともない。—-われわれが、まったくそのように呼ぶ力をもちえないという事実によって、われわれはこのような誤りからまもられている。それは、神から下される判決にもとづいているのであるが、その判決は、われわれを謙遜にならせることによって偉大にする。そしてその判決を、われわれはただ聞きとりうるだけであって、まねることはできない>(バルト)。

・    今日は、ほとんどバルトの引用になってしまいました。信仰によるキリスト者の生の立脚点としての「神との平和」「恵みと希望」について語るパウロの言葉を、バルトほど深くとらえている人はいないと思ったからです。そのバルトの講解をみなさんと共有したいと思い、今日はこのような形を取らせていただきました。ご容赦ください。

 

祈ります。
・    神さま、今日も会堂に集まって礼拝をすることができ、心から感謝いたします。
・    パウロのローマの信徒への手紙からあなたの語りかけを聞いています。今日は、私たちが信仰によって義とされた者として、神との間に平和を得ていること、あなたの恵みと希望を立脚点として、生まれながらの存在でありつつ、新しい人として、キリスト者の一人として生きていいることを、深く教えられました。心から感謝いたします。どうかそのような者として、この問題に満ちた現実社会の中で生きていけますように、私たち一人一人をお導きください。
・    コロナがおさまっているかに思われます。いろいろな制限が解除され、通常の生活を取り戻そうとしています。再び再拡大しないための知恵とその方策を私たちにお与えください。コロナのために生活がひっ迫している方々に、政治が具体的な支援をすることができますように導いてください。
・    争いや貧困や政治的圧迫という苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
・    今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
・    今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
・    この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌     342(神の霊よ、今くだり)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-342.htm  
⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌  栄  28(各自歌う)    
讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝  祷
  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      
⑭ 黙  祷(各自)
これで礼拝は終わります。