なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(16)

少し掲載が遅くなったのは、ロマ書の説教が生み苦しみの果てのものなので、躊躇していたからです。でも、やはり掲載することにしました。

 

9月12(日)聖霊降臨節第17主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットで平井俊江さんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」          (ローマ5:5)

③ 讃美歌      358(小羊をばほめたたえよ!)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-358.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編15編1-5節(讃美歌交読詩編15頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙3章21-26節(新約277頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   160(深き悩みより)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-160.htm

⑨ 説  教  「神の義」         北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • ローマの信徒への手紙から語りかけを聴いていますが、今日は、この手紙の中心に当たる個所と言われています3章21-26節から聴きたいと思います。

 

  • 3章21節の最初の言葉は、ヌニ(今や)・デ(しかし)=しかし今や、です。新共同訳では「ところが今や」と訳されています。このところのロマ書の感じでは、今まで1章18節から3章20節までで、パウロは、ユダヤ人も異邦人も、「義人なし、一人だになし」(3:12、田川訳、新共同訳は「善を行う物はいない。ただの一人もいない」)と、すべての人は罪人であり、神の怒りを受け、断罪されざるを得ない存在であると語って来ました。

 

  • ある人は、ロマ書における「ユダヤ人も、ギリシャ人も」は、今の私たちにとっては「信者」=キリスト者も「未信者」=非キリスト者もというように置き換えて読めると言っています。そのようにユダヤ人とギリシャ人を読み替えてみますと、キリスト者も非キリスト者も、「義人なし、一人だになし」という、すべての人は罪人であるということになります。それを現在の社会に当てはめますと、あらゆる民族の違い、国家の違い、あるいは宗教や性差の違いを超えて、この世界は「義人なし、一人だになし」という、すべての人が罪の支配下に置かれている、と言っていることになります。

 

  • このパウロのすべての人は罪人であるという認識は、パウロがダマスコ途上で復活のイエスと出会う前には、パウロ自身の中にもなかったのではないかと思われます。パウロキリスト者となってからですが、パウロは、フィリピ゚の信徒への手紙3章の、自分の過去を振り返って語っているところでこのように記しています。≪わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤ民族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした≫(3:5,6)と。ここでは明らかに、パウロは、自分の義を誇っているのです。この時のユダヤ教徒時代のパウロは、すべての人は罪人であるという認識はなく、ユダヤ人の中の律法違反者及び異邦人は罪人であるが、自分たち正当なユダヤ人は神に選ばれた民であり、立派な義人であると思っていたに違いありません。

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  • ですから、「義人なし、一人だになし」というすべての人は罪人であるという認識は、イエス・キリストを信じる者の認識と言えるでしょう。パウロキリスト者になってからも、自分は「罪人の頭である」(Ⅰテモ1:15)と言っていますので、キリスト者もまた罪人であるという真実を、最後まで持ち続けていたと思われます。

 

  • そのように、自分は罪人の頭であるという認識のあるパウロにとって、そのパウロの罪を自分の代わりに担って死んで下さった十字架のイエスの贖罪は、罪からの解放の出来事として、決定的に大きな出来事であったに違いありません。

 

  • 闇が深ければ深いほど、光の輝きも大きくなります。そのように罪認識が深ければ深いほど、その罪からの解放の音ずれも大きく感じられるのではないでしょうか。

 

  • そのイエスの十字架の出来事を通して、神が自らの主体的な行動を起こしたのだということが、今日の箇所で言われている内容です。それが「しかし今や」ということばで導かれているのです。

 

  • 「義人なし、一人だになし」という、すべての人が罪の支配下に呻吟している暗黒の世界に、「しかし今や」、神の義の太陽がのぼったと言うのです。神の主体的な行動が罪の支配下にある私たち人間に向けられて起こされたと言うのです。

 

  • パウロは、すべての罪人に向けられた神の義という神の主体的行為について、すでに1章16節、17節で主題的に語っていました。もう一度その個所を田川訳で読んでみたいと思います。≪すなわち、私は福音を恥としない。それはすべて信じる者にとって、第一にユダヤ人にとって、またギリシャ人にとっても、救いへといたらせる神の力である。何故なら神の義はその中で、信から信へと啓示されるからである。「義人は信から生きるであろう」と書いてあるように≫。

 

  • この主題を3章21以下で、パウロは展開して行くのです。

 

  • 21節:≪しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、現わされた≫(口語訳)。この≪神の義が・・・・現わされた≫の「現わされた」は完了形です。<この完了形は、・・・神のこの世に対する決定的な勝利が今キリストにおいて現れたことを言い表している。それは1章18節(田川訳「すなわち、神の怒りは真理を不義においてはばもうとする人間たちのすべての不敬虔、不義にたいして天から啓示される」)の人間の不義に対して働く神の怒りの啓示を、自らの中にもうすでに過ぎ去ったものとして包含する神の勝利である、ということができよう>(ヴィルケンス)と言われます。

 

  • つまり、この神の義の現れにおいて、決定的に罪人である不敬虔で不義なる人間を義とする神の主体的行為が示されているというのです。

 

  • 22節、23節でこのように言われています。≪それはイエス・キリストの信による、信じるすべての者へといたる神の義である。そこには何の区別もない。何故なら、すべての者が罪を犯したのであって、神の栄光に欠けるのである≫(田川訳)。

 

 

  • つまり、神の義である神の主体的行動を私たちが受け取るために、私たちが目を注ぐべきものは、神が私たちに求め、要求するもの(律法)でもなく、またこの要求にまったく一致しない私たちの行為でもなく、ただイエス・キリスト、その方であると言うのです。

 

  • 私は、イエス・キリストに目を注ぐことがどこまでできているだろうかと、しばしば反省させられています。自分では注いでいるつもりですが、イエス・キリストに集中して目を注いでいるかと問われますと、自分を含めこの世の様々なことに目を向けていることが多いように思うのです。そのために、いつも自分がぐらぐらしているように思えてなりません。

 

  • その点パウロは集中してイエス・キリストに目を注ぎ、自分をイエス・キリストと一体化するほどまでになっていたのではないでしょうか。ロマ書14章8節で、パウロは、≪わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです≫と語っています。

 

  • 24節から26節にはこのように記されています。≪その人々が義とされる。無料で、神の恵みによって、キリスト・イエスにおける贖いを通して。そのキリストを神は宥めの供え物として定めた。信によって、彼の血において。それは、これまでに犯された罪をその忍耐において見逃すことによって神の義を示すため。こうして神の義を今の時に示すため。神がみずから義となり、イエスの信からの者を義となすため≫(田川訳)。

 

  • 「神は、彼らがまだその状態になっていないのに、義を宣することによって、偽りを語るのか。まさにこの恵みの言葉において神は真理を語り、最も厳格な義を行使するのである。彼らが義と宣せられるのは、イエス・キリストにおいて贖われたゆえである。すなわち律法によれば彼らが従属している罪の全支配から、また律法によればそのために突き当たらねばならぬ呪い全体から、イエス・キリストによって一回的に買い戻されたのである。それは、ちょうど奴隷が自由の身となるために支払いがなされ、かくして古い主人は彼の上にもはや何の要求も持たぬようになったようなものである。・・・彼は人間の断罪に必然的に伴う刑罰、神の怒りの結果全体を、ご自身に引き受けた。従って神の怒りの結果は、彼の死においてすでにその当然走るべき道のりを走ってしまった。人間の不義と無神性に対する神の忍耐は、彼の死においてその終わりと目標に到達した。神は彼の死により、その怒りについて、罪人たちと、必要な決着をつけた。・・・かくしてこの彼あの民の中にはもはや一人の不義な者も存在しない。彼の民である者—-そしてそれは彼を信ずる者のことである—―は義であり、咎なく、清いのである。なぜなら、彼らの不義と無神性、罪人としての彼らに、裁き主イエス・キリストの死において――その前に彼らは立ち、その判決を彼らは受け入れるのだが――事実上終結してしまったからである。彼らが彼の民であることを許され、彼への信仰において彼の判決を受け入れるのを許されているということ、そのことは彼らの功績によらぬのであり、贈り物、恵みなのである。しかし、神が彼らに義を宣することは、最も純粋な真理の言葉であり、神の最も厳格な義の行為である」(バルト)。

 

  • 今日も長い引用になってしまいましたが、イエス・キリストによる神の義の主体的行動によって、私たち罪人が義人に変えられる、この恵みこそが、パウロにとって福音であることを覚えたいと思います。

 

  • しかもこの神の義は、パウロにとっては、ただ単なる個人の信仰、罪の赦しということにとどまらず、全被造物を視野に収めつつ言われているということです。そして全被造物に及ぶ神の支配と言うときに、常にパウロの念頭の中心にあったのは、イスラエルのそして異邦人の、すなわち全人類の救済の問題でありました。私たちはその人類の一員なのであります。その限りで義認が私たち個人個人にとっての現実であることは言うまでもありません(川島重成)。

 

  • 神の義という神の主体的行為が、イエス・キリストの贖いをとおして今も私たち罪人の中で働いていること見失ってはならないと思います。そしてどんなに絶望的な罪の現実に直面しても、福音であるイエス・キリストによる義の世界を望み見ながら生きていきたいと思います。

 

祈ります。

  • 神さま、新型コロナウイルス感染拡大が収まりません。今日も教会で皆が集まって礼拝をすることができません。メール配信による自宅での分散礼拝になりますが、それぞれ礼拝をもって新しい週の歩みに向かうことができますようにお導き下さい。
  • 神さま、今日は、イエス・キリストによって、神が、私たちに向かって主体的な行動を起こしている神の義について、ロマ書から聴きました。生きた神の活動は、聖霊の働きです。どうぞ私たちが聖霊の働きに、自分を開いて行けますようにお導き下さい。
  • 人間の驕りが世界を破滅に向かわせているように思えてなりません。その驕りをあなたが打ち砕いてください。あなたの似姿に造られた人としての分を弁えて、他者と自然との共生の道を歩ませてください。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌       378(栄光は主にあれ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-378.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。