なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(19)

10月3日の日曜日の礼拝は、久しぶりに船越教会の会堂でみなが集まって行いました。

 

10月3(日)聖霊降臨節第20主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」          (ローマ5:5)

③ 讃美歌      4(世にあるかぎりの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-004.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編31編22-25節(讃美歌交読詩編31頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙4章9-12節(新約278頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    418(キリストのしもべたちよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-418.htm

 

⑨ 説  教  「信仰の父アブラハム」         北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 約2か月振りに、このように会堂に集まって礼拝することができますことを、まず神に感謝したいと思います。

 

  • 今礼拝でロマ書をテキストにして説教をしていますが、私の中にはどうも、聖書のどのテキストからでも、何らかのメッセージを読みとらなければいけないという観念が強くあるようで、ロマ書のそれぞれのテキストからも、その箇所からメッセージを、悪く言えば、無理やり引き出そうとしているのかも知れません。

 

  • 会堂でこのように対面で行う礼拝とはちがって、メール配信による各自の自宅分散礼拝では、説教は活字の説教原稿だけで、それを皆さんが読んでくださるわけです。この礼拝におけるように、私の話し言葉による説教ではありません。文字原稿だけの場合は、他の人の文章の引用によって、余り抵抗なく、説教を組み立てることができますが、語り言葉による説教では、他の人の引用をそのまま朗読するだけでは、説教になりません。

 

  • ですから、今日からの礼拝堂で行われる礼拝での対面による、語りによる説教は、今までの文字原稿のみによる説教と、大分感じが違うかもしれませんので、その点はご容赦いただきたいと思います。

 

  • さて、前回の説教で、パウロがロマ書3章までで語ってきた内容を四つの項目にまとめておきました。実はこの4項目は内村鑑三の『ロマ書研究』から借用したものですが、その四つの項目の命題だけを、もう一度思い起こしておきたいと思います。

 

  • 第一に、全ての人は罪人であるということです。
  • 第二に、従って、ただ神から義を受ける以外に、人には義(解放)に至る道はないことです。
  • 第三に、この神の賜物としての義に至る道は、具体的には、罪の赦しであるイエスの十字架の贖罪によって切り拓かれたということです。
  • 第四に、それ故に、人には何ら誇るべきものはなく、すべての良き事はみなイエス・キリストにおいてあるということです。

 

  • この4項目からしますと、人間の側の主体的行動に関わるものは、「第一」だけです。「全ての人は罪人であるということ」、つまり私たち全ての人間は罪人として、罪を犯しているというのが、現実の人間の姿だというのです。

 

  • そのような罪人としての私たち人間の現実は、言葉を変えて言えば、私たち全てが自己中心的な存在であるということです。

 

  • 創世記の人間創造物語によりますと、神は本来私たち人間を互いに愛し合う存在に創ったと言われます。神が私たちを神の似姿に創ったのは、私たちがお互いに愛し合うことによって、神が愛であることを私たち人間が表現すると言いましょうか。被造物である人間を通して、創造者なる神がどのような方なのかを、神が現わそうとされた。それが、人間創造の神の目的だったのです。

 

  • しかし、創世記3章で神に創られた人間、アダムとイブは、神がこれだけは食べてはならないと命じたエデンの園の中央に生えている木の実を、それを食べれば神のようになれるという蛇の誘惑に負けて、食べてしまったのです。自分が神のようになれると思うこと、それが人間の自己中心性です。そして、それが人間の罪なのだと、聖書は言っているのです。神との厳しくはありますが、豊かな関係を生きるようにと創られた人間が、その関係から外れて、的を外して生きている。それが、人間の罪の現実なのです。

 

  • パウロがロマ書3章までで語ってきたことは、そのような罪人である私たち人間が、神との絶対的な関係の中で、罪人であり、不敬虔で、神なき私たち人間を義とする、神からの義(解放)を与えられて、罪から解放されて(パウロはロマ書では「義へと算入される」という表現を使っています)生きることができるようになった。それが、神からの喜ばしき音信であり、イエス・キリストの福音であり、信による義(信仰義認)である、ということなのです。

 

  • その私たち罪人に対して、神が無償で与えて下さる神の義、イエスの信による義、神の信実(真実)に、業の誇りによってではなく、信によって生きた人物として、パウロは、ロマ書4章でアブラハムを引き合いに出してくるのです。ユダヤ人であるパウロにとって、アブラハムは信仰の父であったからだと思われます。また、パウロにとって、アブラハムユダヤ人の父祖であると共に、信による義を生きた人物としては、ユダヤ人だけでなく、異邦人を含めた人類の父祖でもあったと思われます。

 

  • その意味で、信による義(信仰義認)による、私たち罪人であるすべての人にとって、一方的な神の恵みによって与えられた生きる可能性を、ローマの教会の人たちに分かってもらうためには、アブラハムを一つの範例をして示すことが、パウロにとっては有効な方法だと思えたのでしょう。

 

  • 前回この説教で扱いました、ロマ書4章1節から8節までで、パウロは聖書(創世記15章6節)に基づいて、アブラハムが行いによってではなく、信仰によって義とされたことを強調しました。もう一度振り返っておきたいと思います。

 

  • ≪「アブラハムは神を信じた。それが彼に対して義へと算入された」と。いったい、働く人にたいする報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。労働者にとってその報酬は、恵みに応じて算入されるのではなく、貸し借りに応じて算入される。しかし働かず、不敬虔である者を義とする方(=神)を信じる者には、その信が義へと算入される≫(4:3-5,田川訳)。

 

  • そして、そのような信による義を与えられたアブラハムには、詩編の作者と考えられていたダビデも讃えている、罪赦された者の祝福が与えられているのだと言っているのです(4:6-8)。

 

  • そのことを受けて、今日のロマ書4章9節以下では、≪では、この祝福は割礼に対してのものか。それとも無割礼に対してか≫(9節、田川訳)という問いを立てて、パウロは、信による義にとって、割礼のある無しは全く問題にならないと言っているのです。割礼があろうと無かろうと、つまりユダヤ人であろうと異邦人であろうと、信による義は神によって誰にでも与えられる恵みなのだと、パウロは言っているのであります。つまり信による義は異邦人にも妥当すると。

 

 

  • それに対してパウロは10節(「これはどのように算入されたのか。彼が割礼を受けていた状態の時か、それとも無割礼の時か。彼はまだ割礼を受けておらず、無割礼であったのだ」(田川訳)で、創世記15章の、子供ができないことに悩んでいたアブラハムに神が世継ぎを与える、さらに彼の子孫は天の星の如くになると約束され、アブラハムはそれを信じて義と認められたという記事が、17章の割礼の記事の前にあることから、つまりアブラハムは今だ無割礼のときにすでに信仰により義とされたという聖書の記述に基づいて、ユダヤ人の宗教的特権意識を打ち砕き、信仰による義を異邦人にも、そして全人類に開かれた神の恩恵として捉えるのであります。

 

  • そして11節(「それから彼は割礼の徴を受けたのだが、それは無割礼の状態の時の信の義を証しする証印である。そしてそれは彼が、無割礼のままで信じるすべての人びとの父祖となるためであった。その人々に対してもまた義へと算入されるのである」田川訳)で、アブラハムは無割礼において信仰によって義とされた証しとして、割礼の印(割礼という印)を受けたと言っているのであります。これは創世記17章の記事に基づいているのですが、そこでは割礼は契約のしるしとされているのであります(17:11)。しかしパウロはこのロマ書では契約のしるしということを言葉の上では持ち出すことなく、それを信仰義認の証しとして再解釈しているのであります。割礼は信仰の義を確証するものであっても、それ自体が義認の根拠ではありえないと言うのです。従って、割礼は無割礼の異邦人が信仰によって義とされることを排除するものではないと、パウロは言っているのであります。

 

  • アブラハムは異邦人信仰者の父であるだけではありません。12節(「彼はまた割礼の父祖でもあるが、それは、単に割礼出身であるだけでなく、我らの父祖アブラハムが無割礼であった時の信の足跡を歩むこともする者たちに対してそうなのである」田川訳)で彼は割礼を受けた者の父でもあるとされます。ただしパウロはこれに、アブラハムが彼らユダヤ人の父であるのは、アブラハムが割礼以前に示した信仰の足跡を歩む限りにおいてであるという制限を付け加えます。要するに割礼のあるなしにかかわらず、唯一信仰だけがすべての人に開かれた義認への道であることが、もう一度確認されるのであります。

 

  • ユダヤ人と異邦人の違いに関係なく、唯一信仰だけがすべての人に開かれた義認への道であるということは、既に3章29-30節でパウロは語っています。

 

  • ≪あるいは、神はユダヤ人だけの神か。異邦人の神でもあるのではないか。そうだ。異邦人の神でもあるのだ。もし神が本当に唯一であるのなら。だからその神は割礼(の者)を信から義とし、無割礼(の者)を信によって義とするのである≫(田川訳)。

 

  • では、パウロはこの4章でアブラハムを範例にして、3章29-30節と同じことを繰り返して語ったのでしょうか。ケーゼマンは、そうではなく、パウロアブラハムをわざわざ引き合いに出して、信による義(信仰義認)をユダヤ人にも異邦人にもすべての人に与えられた神の恵みとして語ったのは、信仰義認がアブラハムの神の選びによる人類に対する神の救済の歴史と密接不可分にかかわっているからだと言うのです。

 

  • <救済史はパウロ神学の中心部であるとは主張し得ないが、しかし逆に義認論と不可分離に結びついていて、そのことがここで明瞭になっていることも否定できない。‥‥救済史はパウロにおいては地上的諸可能性や期待に逆らう神的「約束」の歴史である>と言って、このロマ書4章のパウロの言葉から、パウロがここで信仰義認をアブラハムに始まる神の救いの歴史と関係づけて語っていると言うのです。

 

  • このケーゼマンの見解について、川島重成さんは、<幸いこの信仰と歴史の関係を論じたケーゼマンの見解に深く共感した関根正雄の分かりやすい文章があるので、少し長くなるがそれをそのまま紹介したいと思う>と言って、関根正雄さんの文章を紹介しています。前回の説教に引き続き、その関根正雄さんの文章を紹介します。

 

  • <‥‥信仰は過去の歴史とどうつながりを持つのか‥‥ケーゼマンは丁度このところでこの問題に向かいます。歴史というものは信仰と無関係ではない。けれど信仰は決して歴史に依存していない、むしろ神の言が歴史の節をつくっているということを言っています。‥‥神の言による歴史が歴史の本当の意味を明らかにしているというのがパウロの立場である‥‥歴史の中心をパウロが義認に認めているということです。‥‥この義認の問題は、ケーゼマンに言わせれば‥‥世の終わりまで続くのです。‥‥神の言の中心はキリストによって義とせられるというところにある。これがパウロ歴史観の中心であるとすれば、現在のわれわれの問題にそのまま繋がるのです。われわれがこの世の中で生きていく場合に、歴史のいろんな問題と折衝せざるをえない。けれども、その場合に常に心にとめておかなければならないことは、聖書の言っている歴史の見方が、内村先生が教えられたように、再臨の光で歴史を見るということである、とう点です。そのことをケーゼマンは黙示的というか、黙示文学的というか、そういう表現で申しまして、パウロの義認の問題あるいはキリスト論の問題を常に終わりと関わらせて見ている。これはきわめて正しい洞察と思います。ですから義認とは世と歴史の全体を含んで人類がキリストにあって義とせられたということです。‥…パウロの歴史理解は、あくあまでも神の言を中心として、キリストを中心とし、ことにキリストによる義認ということが歴史を一貫しているのだとうことです。アブラハムの時からずうっと一貫している。そしてケーゼマンの言うことをそのまま受けとるとすれば、世の終わりに至って義認が完全に約束の成就として成る。そのように神の歴史を貫いて、キリストによって義とせられるということが受けとられているのです。ですからわたくしが強調したいことは、エクレシアの問題であって、義認の信仰を過去から受けついで神の国の成就に至るまで貫くものは一人びとりではありませんで、長い具体的な教会の歴史、神の民の歴史でなければならないということです>。

 

  • アダムとイブの堕罪によって罪人としての人類の歴史が始まりました。その歴史はノアの洪水とバベルの塔という結末を迎えざるを得ない滅びの歴史です。私たちは、現在もこの滅びの歴史を生きているのです。自由主義的経済と気候温暖化は人類が滅びに向かっていることを示しているかのようです。そういう罪人としての滅びの歴史を生きている私たちですが、一方聖書を通して神の救済の歴史の担い手として私たちが神に招かれていることを、私たちは信じているのではないでしょうか。神がイエス・キリストを通して私たちを、イエスの信による義に算入させてくださり、信による義によって人間の歴史が終末の完成を迎えることを信じ、その神による終わりから、この今を私たちがイエスの信による義を信じて生きているのではないでしょうか。それは人類の滅びの歴史の中に始まっている神の救済史を担うエクレーシア(教会=神の民)の一員として、私たちが生きるということを意味しているのです。私たちに与えられています信による義(信仰義認)を、個人的な出来事として矮小化して受け取るのではなく、全ての罪人を救う神の救済史という広く、深い出来事においてとらえることができれば幸いです。信仰に関係ない人には誇大妄想と思われるかもしれませんが・・・。

 

祈ります。

  • 神さま、今日は久しぶりに会堂に集まって礼拝をすることができ、心から感謝いたします。新型コロナウイルス感染拡大によって、それ以前の私たちの生活からしますと、ずいぶん変わってしまいました。何の気兼ねなく人との交わりが可能だったコロナ以前の生活から、今は不安を抱えながらでしか人との交わりができないかのような状況になっています。また仕事を失い、経済的に厳しい生活を強いられている人も多くなっています。
  • 神さま、新型コロナウイルス感染で苦しんでいる一人一人を支えてください。また私たちがこのことを契機にして、感染症に脅かされても、一人一人の生活が成り立つ社会を創造していくことができますようにお導きください。そのために私たちの中に互いに相手を思い合う心を豊かにしてください。
  • 神さま、今日はこの人間が造り出している現代の混とんとして、痛みの多い社会の中に神の救済史が貫かれていて、エクレーシア(教会=神の民)の存在の重要性について、改めて教えられました。その神の民の一員として、私たち一人一人が、あなたがイエス・キリストを通して与えて下さっている信による義に生きることができますようにお導きください。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌      536(み恵みを受けた今は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-536.htm   

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。