(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」 (ローマ5:5)
③ 讃美歌 6(つくりぬしを賛美します)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-006.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編52編3-11節(讃美歌交読詩編57頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 ローマの信徒への手紙4章13-17節a(新約278頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 516(主の招く声が)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-516.htm
⑨ 説 教 「アブラハムの約束」 北村慈郎牧師
祈 祷
- バルトの『ロマ書講解』では、ロマ書4章13節から17節a(前半)までの今日の個所に、「信仰は創造である」という表題がついています。みなさんは、信仰についてどのようにお考えでしょうか。
- 信仰は信頼である、と考えている方もあるかと思います。確かに信仰には信頼という面があります。神を信頼する、イエス・キリストを信頼する、というような言い方を私たちはします。
- 幼い子供は両親をはじめ、父も母もいない場合は、身近な大人に全面的に自分の身を委ねる以外に生きる手立てはありません。つい最近も立て続けに、若い母親が自分の生んだ子供を殺してしまうとういことがありました。両性の合意による結婚を経ての出産ではなかったようですので、生まれた子どもをどうしていいか分からずに、殺してしまったということのようです。性の解放の未熟な理解からの悲劇といっていいのかも知れません。
- しかし、生まれてきた命にとっては、たまったものではありません。生まれたばかりの子供の命は、全面的に大人の責任で育てていかなければ、その命の成長はあり得ません。大人は生まれてきた命の信頼に応えて、その命の養育を引き受けていかなければ、その命は育ち、成長し、ひとりの人格を持った人間になるということはあり得ないのです。今私たち大人が子どもたちから信頼された存在であるかどうかが問われているように思います。幼い子どもは特に、大人を信頼しなければ生きていくことすらできません。信頼できない大人の中では、育つ命も育たないからです。
- 私の一番目の男の子が、まだ3,4歳のころ、家族で出かけた時に、人通りの多いところで、いつの間にか私の手から離れて、他の男の人と手を繋いで歩いていたことがありました。その男の人も私たち夫婦も分かっていて、しばらくそのままにしていました。それから息子が手を繋いでいた人の顔を見上げて、父親である私でなかったので、びっくりして不安そうな顔をしたことがありました。すぐに私が息子を抱きかかえ、息子が手を繋いでいた人に挨拶をしました。それで息子は安心したようでした。自分が手を繋いで頼りにしていた人が、気がついたら全く知らない人だったわけですから、幼い息子が驚き不安な顔をしたのは当然です。
- このことは、信頼としての信仰とは何かと考えるヒントになるように思われます。
- 信仰を持たない人は、自分の力で生きていると言えます。この生き方は、今までロマ書を通しても学んできましたように、「律法による義」を求める生き方と言えます。自己救済を求める生き方と言ってもいいかも知れません。自分で自分を救済する生き方です。
- ロマ書の時代、特にユダヤ人は例外なく神信仰をもっていました。彼ら彼女らの人生の目的は神の前に誇ることの出来る人生を送ることでした。ですから、神がかく生きよと命じる律法(トーラー)に従って、誠実に生きようとしたのです。
- 一つは、この食べ物は食べてよいが、これは食べてはならないという、食べ物に関する律法です。あるいは、手を洗ってから食事をしなければならない、手を洗わないで食事をしたものは穢れるというような律法もありました。これが一つの種類の律法です。日常生活上の決まりといったらいいかと思います。
- もう一つは、礼拝祭儀とか信仰上の決まりです。供え物の規定では、動物の中で障がいのある動物は供え物にはできないとか、一日何回祈らなければならないとか、貧しい人には施しをしなければいけないとかいう決まりとしての律法です。これは礼拝や信仰生活上の律法と言えます。
- 三つめは、例えば「神を愛し、己の如く隣人を愛しなさい」というような律法です。これは道徳というか、人倫に関する定めです。
- 一番目の食べ物や手洗いのような律法や、二番目の、神への供え物とか、何回一日に祈らなければならないとか、施しをしなければならないとかという律法は、守れる人は守ることができる律法です。しかし、三番目の、「神を愛し、己の如く隣人を愛しなさい」という人倫に関する、人としての道を示す律法は、無限の課題であって、本当にこの戒めを守っていると言える人は皆無に等しいわけです。
- 聖書の中にでてくるファリサイ派の人たちや律法学者は、一番目と二番目の律法は生真面目に守っていたのでしょう。自分たちは律法をきちっと守っている正しい人間だと自負していたようです。ですから、ユダヤ人の中には1番目と2番目の律法も守れない人がいましたので、そういう人々を律法違反者として、彼ら彼女らは汚れていると言って差別していたのであります。回心前のユダヤ教徒であったパウロはこのように差別していたユダヤ人の一人でした。
- 回心後のパウロは、どちらかと言うと、律法の中でも三番目の、人としての生き方を示す律法を大切に考えていて、このような律法は、私たちが自力ではそれを守れないということを気づかせるものであって、私たちに自分は罪人であるという自覚を促すものなのだと、律法を理解していたように思います。そいう意味で、律法も信仰へと人を導くもうのと考えていたのではないでしょうか。
- 今日のロマ書4章の15節に、≪何故なら、律法は(神の)怒りを生ぜしめるのだが、律法のないところには、律法違反もまたないのである≫(田川訳)と言われていますが、これも律法は私たち人間が守れるものではなく、むしろ律法によって、律法を守ることの出来ない、神の怒りの下にある私たち罪人の現実を明らかにするものだと言っているのであります。
- ですから、律法による義を自力でいくら求めても、私たち人間には義(=救済=解放)に至ることは不可能です。従って、律法に頼る者は、神がアブラハムとその子孫にした約束に与かることはできないのだと、パウロはここで語っているのです。
- パウロは、16節で、≪この故に、信から、なのだ。つまり、恵みに応じて、ということである。その結果、約束がすべての子孫に対して確かなものとなったのだ。律法からの者に対してだけでなく、アブラハムの信からの者に対しても。アブラハムは我々皆の父祖なのである≫。
- つまり「律法によって」ではなく、「信(信仰)から、(神の)恵みに応じて」、私たちは義とされ、アブラハムの約束に与かることができるのだと、パウロは言っているのです。この個所で、パウロは、信(信仰)による「義」を、アブラハムとその子孫に与えられた神の「約束」に置き換えて語っているのです。
- そこでバルトがこの個所につけた、「信仰は創造である」とはどういうことなのかを考えたいと思います。この「信仰」は、バルトにとっては「イエスの信仰」であり、「神の真実」を意味します。人間の側の信仰ではありません。人間の側にも信仰がなければ、イエスの信仰も神の真実も受けることはできませんが、人間の側の信仰はそれ自身に命があるわけではありません。
- アフガニスタンで銃撃されて殺された中村哲さんは、医師として長年の不安定な政治状況の中で貧しい生活を強いられていたアフガニスタンの人々の命と生活を守る働きの中で、食糧生産が必須と考えました。そして灌漑工事による水路を現地の人々と何年もかけて作り、水を引き入れ、それまで荒れ果てていた土地を農地に変えて、食糧を産み出し、アフガニスタンの人々の命と生活を守ってきたのです。中村哲さんの死後、アフガニスタンがタリバンの支配下になっても、その働きは受け継がれています。
- この荒廃した土地に水を引き入れるための水路、これが人間の側の信仰ではないかと思います。ある人は、人間と神をつなぐ水道管のような管を、人間の信仰と言いました。水路や管は、それ自身では何の役にも立ちません。水源や貯水池に直結して、はじめてその水路や管をとおして水が必要なところに届くのです。水路や管は、水源があり貯水池があるから、そこにつなげるために造ります。そういう意味では、水路や管は、水源や貯水池に触発されてつくられた不随物と言えると思います。不随物とは「他のものにつきしたがうこと。 主な事柄と密接に結びついていること。 付属」という意味の言葉です。そういう意味で、人間の側の信仰は、それ自身で単独で意味を持つものではなく、イエスの信、神の真実があってはじめて意味を持のであり、その意味では人間の信仰も、イエスの信、神の真実に触発された不随物に過ぎません。
- そこで、「信仰は創造である」ということですが、水源から水路を通して流れてきた水が、荒廃した土地を豊かに潤し、植物を成長させて、食糧としての農作物を産み出してくれるように、イエスの信、神の真実が、自分中心にしか生きられなかった私たち罪人を、神の国を受け継ぐアブラハムの子孫の一員に変えてくださるということ、それが「信仰は創造である」ということではないでしょうか。
- 今月3日、和歌山市の紀の川にかかる水管橋が突然崩落。市北部のおよそ6万世帯では断水が続いています。7日も仮の水道管を設置する工事が行われていて、9日中の断水解消を目指していますと言われていますが、どうなったでしょうか。また、7日の夜に起きた千葉を震源地とする地震では、古くなった水道管が破裂したところが多発しているとも言われています。
- 水道管も古くなると破裂して、水を必要なところに引き入れることができなくなってしまいます。私たちの側の信仰の管も、古くなると破裂して、水を引き込めなくなってしまったり、管の中の壁にゴミがついて管が細くなり、十分に水を引き込めなくなってしまうこともあります。
- また、せっかく作った水路や水道管も、水源が枯れてしまえば何の役にも立ちません。けれども、「信仰は創造である」と言われる「信仰」、つまり「イエスの信」「神の真実」は枯れることはありません。常にすべての人にとっての神の豊かな命の水源であります。私たちにその神の豊かな命である水が届かなくなるのは、私たちの側の信仰の水路、水道管がつまって機能しなくなるからです。その多くは、一度イエスを主と信じてキリスト者になったとしても、いつの間にかこの世を生きていくうちに、弱い時にこそ強いという信仰の逆説に絶望して、自分の知恵や力を頼ってしまったり、権力や資本(お金)の魅力に負けたりしてしまうからではないでしょうか。
- イエスは、「幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」と言われました。幼子が絶対的に大人に信頼して生きているように、イエスの信、神の真実への絶対的な信頼を失わずに生きていきたいと願います。
祈ります。
- 神さま、今日も会堂に集まって礼拝をすることができ、心から感謝いたします。新型コロナウイルス感染拡大も大分収まっています。更に安全なワクチンや治療薬の開発、私たちの行動変容が、このウイルスと共に私たちが生きていくことのできる条件と思われます。グローバルサウスの人々を含めて、どうかその道を切り開いていけますように、私たちをお導きください。
- つい数日前に千葉を震源地とする大きな地震がありました。改めて地震の恐さを実感しました。10年前の3・11東日本大震災、最近起きたハイチの地震でも多くの方々が亡くなっています。その悲しみが癒され、地震に対処できる社会をつくる知恵と力を私たちに与えてください。
- 神さま、あなたのみ国を創造する信仰に、どうぞ私たち一人一人が生きることができますようにお導きください。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
- 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 讃 美 歌 457(神はわが力)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-457.htm
⑪ 献 金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。