「 神の恵みを無にしない」ガラテヤ2:15-21、2016年3月13日(日)船越教会説教
・今日は、ガラテヤの信徒への手紙2章15節以下から、私たちプロテスタント教会の信仰者にとってその信仰
の基本と考えられています「信仰による義」(信仰義認)について確認したいと思います。
・最近私の支援会から出版しました『戒規か対話か…』の中で、渡辺英俊さんが「『迫害者サウロ』症候群」
ということを述べています。これは回心以前のパウロがなぜキリスト教徒を迫害したのかということです。
渡辺さんはこのように述べています。少し長くなりますが、先ず紹介させてもらいます。「回心前の迫害者
サウロ。なぜ彼はキリスト者の存在が許せなかったのか。自分に何の危害を加えているわけでもないキリス
ト者をなぜあんな風に迫害しなければいられなかったのか。それは自分の同族であるユダヤ人でキリスト教
になった人たち、ナザレ派に入った人たちが、割礼のない異邦人でも自分たちと一緒に神の救いに与るとい
うメッセージを宣べ伝えている。ユダヤ人のくせに割礼を受けない異邦人でも割礼なしに救われるなんて言
う奴はどうしても許せない。なぜ許せないかと言うと、迫害者サウロ自身が自分のアイデンティティーの根
拠として、自分は割礼を受けたイスラエルであるという風に思っていた。それが彼の誇り、つまりアイデン
ティティーの根拠であった。(その点は、先ほど司会者に読んでいただいたガラテヤの信徒への手紙2章15節
にも現れていると思います。「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではあ
りません」)。これを後に彼は『わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミ
ン族の出身で、ヘブライ人中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員……』(フィリピ
三・五)と、自分の誇りだったことを書いていますが、これはアイデンティティー、つまり自分がここに存
在してもいいと思えるという、人間にとって生きる根本になる大事なものです。そこまではいいとして、割
礼を受けたユダヤ人であることが救いの絶対条件とされ、救われない異邦人に対する優越感がアイデンティ
ティーの支えになる。・・・ところが、割礼を受けなくとも、救いに与ることができるということを、同じ
ユダヤ人が言うというのは、その自分の存在根拠であるアイデンティティーを脅かす、突き崩すものであっ
た。だから、同意できないというレベルを超えて、そういう連中の存在自身が許せない。自分のアイデン
ティティーを危機に陥れるものは、排除しなければ自分が否定されてしまう。やっつけないと安心できない
という心理状態。それが「迫害者サウロ」症候群だと思うんですね。/・・・・・/ところが、後にパウロ
に何が起こるかと言うと、彼は回心するわけです。その結果どういうアイデンティティーが彼にできるかと
言うと、「キリストにある無代価、無条件の救い」、それが彼の新しいアイデンティティーになるわけです。
つまり、恵み・恩寵は人間の想定する条件よりもはるかに広く大きいのであって、洗礼を受けていない人で
も救うということが神にはできるはずだ。やろうとすればできる。それは神の自由に属することで、人間の
限定することではない」。そのように渡辺さんは言っているのですね。
・さて、「信仰による義」とはどのような出来事なのでしょうか。通常ここでの「信仰」とは、私たちが
イエス・キリストを信じる信仰、イエスキリストへの私たちの信仰というように理解されていると思います。
16節の新共同訳でもそのように訳されています。<人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信
仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではな
く、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人
として義とされないからです>。ここで「イエス・キリストへの信仰」「キリストへの信仰」と訳されてい
る所は、素直に訳すと<イエス・キリストの信仰>、<キリストの信仰>と訳すことができるのです。文法
的にはこの「の」という属格には、二つの意味があります。主格的属格の場合は、イエス・キリストの信仰、
キリストの信仰です。目的格的属格の場合は、イエス・キリストへの信仰、キリストへの信仰となります。
ある注解者は、この16節の文脈からしてこの「の」は後者目的格的属格に訳すべきであると言っていますが、
田川健三さんはむしろここは主格的属格以外に訳せないと言っているのです。田川さんは「信仰」ではなく、
ただの「信」と訳しています。「イエス・キリストの信」「キリストの信」と。この「信」とは、信仰であ
ると同時に信実・真実・忠実という意味を持っています。
・イエス・キリストの信・まこと(信実=真実)によってすべての人が義とされるがゆえに、私たちはその
イエス・キリストの信の出来事に信頼して、その出来事に与かって義とされた者として生きようとしている
のではないでしょうか。ですから、「信仰による義」は「イエス・キリストの信による義」「イエス・キリ
ストの信実=真実による義」ではないでしょうか。もしそうだとすれば、私たちに信仰があろうが、なかろ
うが、イエス・キリストの信によってすべての人は義とされるという福音は、すべての人に注がれてあると
いうことになるのではないでしょうか。それは洗礼を受けた信仰者だけが受けることができる恵みではあり
ません。その点からしても、洗礼を受けた者だけが聖餐に与かることが出来、洗礼を受けていない者は聖餐
にあずかることはできないということは、イエス・キリストの信によってすべての人は義とされるという神
の恵みの福音とは反することになるのではないでしょうか。信仰者と言えども、私たちは全ての人に与えら
れているイエス・キリストの福音を私物化することはできません。
・ですから、16節はこのように読むことができるのではないでしょうか。<人は律法の実行ではなく、ただ
イエス・キリストの信によって義とされることを知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。こ
れは、律法の実行ではなく、キリストの信によって義としていただくためでした>と。パウロはこの「神の
恵みをわたしは無にはしません」と言っているのです(21節)。イエス・キリストの信によってすべての人
が義とされる、その神の恵みはこの自分にも与えられたことをわたしは信じているので、「わたしは、神の
恵みを無にはしません」というのです。パウロは、そのイエス・キリストへの自らの信仰によって自分自身
をこのように捉えているのです。<わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、
もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きているのです。わたしが今、肉において生きて
いるのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、
神の恵みを無にはしません>(19-21節)。パウロの信仰はイエス・キリストの信に対する応答にすぎませ
ん。パウロの信仰が人を義とするのではないのです。人を義とするのはイエス・キリストの信のみです。イ
エス・キリストの信によってすべての人は義とされるのです。
・パウロはイエス・キリストを信じることによって、渡辺英俊さんが言うように、「キリストにある無代価、
無条件の救い」、それが彼の新しいアイデンティティーになるわけです。つまり、恵み・恩寵は人間の想定
する条件よりもはるかに広く大きいのであって、洗礼を受けていない人でも救うということが神にはできる
はずだ。やろうとすればできる。それは神の自由に属することで、人間の限定することではない」と。と同
時に、パウロの内面において「キリストにある無代価、無条件の救い」というパウロの新しいアイデンティ
ティーが、古い自己の死とキリストにある新しい自己に生きるということでもありました。<わたしはキリ
ストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわた
しの内に生きているのです>と、パウロは言っているのです。ローマの信徒への手紙14勝7節以下でもパウ
ロはこのように語っています。<わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人
自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のため
に死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主ものです>と(7-8節)。
・ハイデルベルク信仰問答の第一の問いと答えを想い起します。<問1:生きるにも死ぬにも、あなたのた
だ一つの慰めは何ですか。答:わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わ
たしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもって、わた
したちすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしたちを解き放ってくださいました。また、
天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守
ってくださいます。実に万事がわたしの益となるように働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によっ
てわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさ
わしいように整えて下さるのです>。
・「キリストにある無代価、無条件の救い」を信じつつ、「キリストがわたしの内に生きている」。この
ことをパウロと共に大切にしたいと思います。人の命と生活が様々なところで脅かされているこの社会の
現実を目の前にして、私たちは自分の平安に逃げ込み、目を閉じて何も見ないようにして生きる誘惑にか
られます。また、余にも重い問題を目の前にして、自分の力なさを嘆くのみという落とし穴にはまり込ん
でしまうかもしれません。けれども、「キリストがわたしの内に生きている」とするならば、私たちはこ
の不条理な社会の現実に直面しつつ、キリストならばどうされるだろうかとと問いつつ、キリストに従っ
て生きていくことへと導かれていくのではないでしょうか。