なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ガラテヤの信徒への手紙による説教(16)

     「愛によって働く信仰」ガラテヤの信徒への手紙5:2-6、

                   2016年12月11日(日)船越教会礼拝説教

・私は、今日は午後に、三浦霊園で納骨式を頼まれています。全く見ず知らずの方で、たまたま私の支援

会を通して親しくさせていただいています、大阪のT教会牧師、Kさんから頼まれた方です。Iさんという方

ですが、この方は召されて、T教会で葬儀を行いましたが、ご子息家族が横浜にいて、三浦霊園に埋葬する

ことになりました。そこで三浦霊園に近い教会の牧師に頼みたいとK先生から相談され、三浦霊園なら船越

教会からそう遠くはないので、私がしましょうか、ということで、今日の午後納骨式を行うことになった

のであります。

・そこでK先生からIさんに関する愛唱讃美歌や愛唱聖句が書かれたメモが送られてきました。それを見ます

と、Iさんの愛唱聖句はガラテヤ書2章9~10節で、メモには文語訳でこのように記されていました。<我キリ

ストと共に十字架につけられたり。もはや我生くるにあらず。キリストが我が内にありて生くるなり>。新

共同訳で読みますとこうなります。<わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているの

は、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです>。

・みなさんには愛唱聖句がありますか。私もそうですが、特に愛唱聖句はないという人もいると思います。

けれども、年配のキリスト者の方の中には、愛唱聖句を持っている人が多いように思います。特に文語訳聖

書に慣れ親しんだ方の場合は、その頃の教会では聖句暗唱が勧められていたこともあり、また文語訳聖書は

聖句を覚え易いこともあって、愛唱聖句をもっている人が多いのではないかと思います。

・けれども、Iさんのように、ガラテヤ書のこの箇所を愛唱聖句にしている人は、そう多くはいないのでは

ないかと思います。「神は愛なり」(汽茱魯4:16)とか、ヨハネ福音書3章16節の「神はその独り子をお

与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである>

のような聖句を愛唱聖句とする人は多いと思うのです。調べたわけではありませんが、神の慈愛、神の恵み、

エスの慰めと励ましを語る聖句が、キリスト者の愛唱聖句になることが多いように思われるのであります。

ところが、このガラテヤ書の聖句は、信仰によって変えられた己の実存についてパウロが語っている聖句

です。まず「我」と言われています。「我キリストと共に十字架につけられたり」。ここでは、この自分は

キリストと共に十字架につけられて、一度殺されて死んだと言われているのです。つまり、生まれながらの

古い自分はキリストと共に十字架につけられて死んだのだというのです。今このように自分が生きているの

は、生まれながらの自分が生きているのではなく、「キリストが我が内にありて生くるなり」、つまり私の

中で私ではなくキリストが生きているのだというのです。

パウロは、同じ内容のことをローマの信徒への手紙14章7節以下でも語っています。<わたしちの中には、

だれ一人自分のため生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとす

れば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても死ぬにしても、わたし

たちは主のものです>(14:7,8)。

・このように私たち自身がイエス・キリストと密接不可分に結ばれている存在であるということを、私たち

は見失ってはなりません。パウロがガラテヤの信徒への手紙でユダヤ主義者である論敵の信仰理解を厳しく

批判しているのは、この論敵の信仰理解によれば、キリスト者である私たちからキリストを引き離し、キリ

スト者である私たちを「キリストとは縁もゆかりもない者」にしてしますからであります。

・先程司会者に読んでいただいたガラテヤの信徒への手紙5章の2節には、このように記されていました。<

ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとって、キリスト

は何の役にも立たない方になります>と。このようにパウロが語っているということは、このガラテヤの信

徒への手紙の読者であるガラテヤ教会の人たちが、パウロの論敵たちの影響を受けて、割礼を受ける寸前の

状態に至っていることを示しています。割礼を受けることは、ユダヤ人と同様に律法の規定を遵守する生活

を送ることを意味しました。パウロの論敵たちの多くのユダヤキリスト者たちは、キリストへの信仰と律

法の遵守とが両立するものと考えていたのです。彼らがガラテヤ人たちに割礼を受けるように勧めた真意は、

を受けることは、イスラエル民族に属し、アブラハムに約束された祝福に与ることに結びついていました。

こうした初期ユダヤ教の考え方を継承している論敵たちは、異邦人回心者が割礼を受けることは、祝福へ到

る道を開くことによってキリストへの信仰を完成すると考えたのであろうと思われます。

・ところが、パウロの理解によれば、律法の下にある生活は律法の行いに基づく生き方であり、キリストへ

の信仰に基づく生き方とは原理的に対立します。割礼を受けて律法の下に立つことは、結果として、キリス

トとの結びつきを否定することになると、パウロは言うのです((以上、原口尚彰『ガラテヤ人への手紙』に

よる)。

・<割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があります。

律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者と

され、いただいた恵みも失います>(ガラテヤ5:3,4)と。それに対してパウロは、福音の宣教によって回

心して、イエス・キリストを信じて義とされた<わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、

“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の

有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です>(ガラテヤ5:5,6)と言っているのです。6章15

節では、<割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです>とパウロは言っていま

す。

・福音の宣教の言葉によって回心し、神の子となったしるしは、信仰を通して神の霊が与えられたことなの

です。この神の霊によってイエス・キリストを信じる私たちが新しく創造されること、それは「愛の実践を

伴う信仰」であるとパウロは言うのです。それこそが大切なことであって、割礼を受けるかどうかという事

が問題なのではないと。

・最初に申し上げたIさんの愛唱聖句、<我キリストと共に十字架につけられたり。もはや我生くるにあらず。

キリストが我が内にありて生くるなり>。新共同訳で読みますとこうなります。<わたしは、キリストと共

に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生

ておられるのです>も、キリストによって私たちが新しく創造されることを示しているのであります。

・なぜパウロは、ただイエス・キリストを信じる信仰だけではなく、割礼も必要であるとした論敵であるユ

ダヤ主義者の信仰理解を批判し、それを強く否定したのでしょうか。そのことを、戦時下の日本のキリスト

者による朝鮮人キリスト者に対する神社参拝の強要という、私たちの先達の過ちから考えてみたいと思いま

す。

・1938年、日本基督教会大会議長のTは、日本基督教連盟議長として朝鮮のCに神社参拝を勧め、「諸君の殉

教精神は立派である。しかし、わが政府は基督教を捨て神道に改宗せよと迫ったか、その実を示してもらい

たい。国家は国家の祭祀を国民としての諸君に要求したに過ぎない。」と、神社参拝を行う限りにおいて日

本政府がキリスト教を容認している事実を示し、神社参拝の非宗教性を主張し、神社参拝を強要しました。

・それに対して、Cは、1938年6月末、「神社参拝は宗教ではない」と主張する日本基督教会大会議長のTと

対峙し、神社参拝は偶像崇拝だと明言した。Cにとって神社参拝は信仰と魂に関わる問題でありました。Cは

神社参拝をモーセ十戒に反する罪だと考え、神社参拝をする者たちは地獄に落ちると信じていました。C

はTに対し、「T牧師、あなたは豊かな神学知識をもっておられる。しかし、あなたは聖書を知りません。神

社参拝は明らかに第一戒を破っているのに、どうして罪にならないと言われるのですか。」と言ったという

のです。神社参拝を拒否したCは4度投獄され、5年間獄中にありました。獄中でひどい拷問を受けている時で

も、天皇は地獄に落ちるのかとの問いに対して、「人間はすべて同じ、天皇も、神を信じず過ちを犯せば地

獄に落ちる」と答えたというのです。日本による凄まじい拷問の末、1944年4月21日、平壌刑務所で死亡。

49歳でした。拷問で爪はすべてはがされ、遺体は骨と皮だけになっていたそうです。

・この場合、戦時下の日本のキリスト教の指導者たちの多くは、ただイエス・キリストを信じる信仰のみに

立ち続けると、当時の天皇制国家から弾圧を受けるので、その弾圧を避けるために、神社参拝を容認したの

であります。その神社参拝を、当時日本の侵略下にありました朝鮮の教会のキリスト者に強要したのです。

悲しいことではありますが、これは歴史的事実でありますから、私たちはこのことも直視しなければなりま

せん。

・Tは、戦後初の常議員会で、一議員からT統理と役職員は、戦争責任をどのように考えるべきかと問われて、

「余は特に戦争責任者なりとは思わず」と言い切り、戦後になっても戦争責任を感じてはいなかったと言わ

れます。

・この問題は過去の問題ではなく、現在でも信仰者である私たちに問われている非常に重要な問題です。私

たちの信仰がキリストによる己自身の変革にまで浸透していないと、私たちはいつでも、神社参拝を認めた

Tはじめ戦時下の多くのキリスト者たちと同じ過ちを繰り返すことになります。キリストに己を明け渡すと

いうことは、知識ではありません。神社参拝を強要されて、日本の官憲による拷問によって殉教したCの口か

ら出た言葉は、知識から生まれたものとは思えません。CはTに対し、「T牧師、あなたは豊かな神学知識をも

っておられる。しかし、あなたは聖書を知りません。神社参拝は明らかに第一戒を破っているのに、どうし

て罪にならないと言われるのですか。」と言ったというのです。また、獄中でひどい拷問を受けている時で

も、天皇は地獄に落ちるのかとの問いに対して、「人間はすべて同じ、天皇も、神を信じず過ちを犯せば地

獄に落ちる」と答えたという、その言葉も知識から出て来るとは思えません。私たちは知識によって自分を

守るのではないでしょうか。

・Tは神学的知識と護教(キリスト教を護る)の意識によって、天皇制国家に妥協し、神社参拝を容認したの

だと思いますが、それがキリスト者として正しい選択だと考えていたのだと思います。キリスト教信仰がそ

ういう倒錯を起させるということも、私たちはよく考えておかなければなりません。

・Tに反して、Cの信仰はファンダメンタルと思えるくらいに素朴です。十戒の第一戒、「わたしの他に何も

のをも神としてはならない」という聖書の言葉を素朴に信じて、それに従って生きるのです。幼子のよう無

条件の信頼を寄せる者に、キリストは喜んでその人の中に入ってきてくださるのではないかと思います。

<我キリストと共に十字架につけられたり。もはや我生くるにあらず。キリストが我が内にありて生くるな

り>と。

・イエスは「幼子のように神の国を信じるのでなければ、そこに入ることはできない」と言われました。こ

の幼子性を与えられるように、私たちは祈り求めたいと思います。キリストは、いつでも私たちの内に住み

たもうて、私たちを通してキリストの香り(アロマ)を周囲の人々の放とうとされているのです。それは愛

の香りです。

・「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」

と言われていますように、信仰は私たちに実践を生み出すのです。<愛は忍耐深い。愛は情け深い。ねたま

ない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せす、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかない。不

義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える>(汽灰螢鵐

13:4-7)。この愛からどうして朝鮮人キリスト者に対する神社参拝の強要になるでしょうか。「キリスト・

エスに結ばれていれば、・・・愛の実践を伴う信仰こそ大切です」というパウロの言葉をよく噛みしめた

いと思います。