なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(54)「イエス憤激する」ヨハネ11:28-44

4月7(日)復活節第2主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃 美 歌   205(今日は光が)

https://www.youtube.com/watch?v=AiXb2QVdWxY

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編118編13-25節(讃美歌交読文130頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書11章28-44節(新約189頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    361(この世はみな)

https://www.youtube.com/watch?v=H8Jbz3g5OOA

⑨ 説  教  「イエス憤激する」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日もヨハネ福音書11章のラザロの復活の物語の一節から聖書の語りかけを聞きたいと思います。ラザロが葬られて四日経ってから、イエスはラザロが葬られているマルタとマリアの姉妹が住んでいるベタニヤにやって来ました。前回のイースターの礼拝では、その時イエスを出迎えたマルタとイエスの会話の箇所、特にイエスの自己宣言の言葉である「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:25,26)という言葉から語りかけを聞きました。このマルタとイエスの会話の後、マルタは<家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちし(まし)た>。すると<マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行>きます。その時、<家の中でマリアと一緒にいて、慰めていた(悔みのために来ていた)ユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追>います。<マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と>、マルタがイエスに言ったのと同じことを言います。そこからマルタとイエスの会話に続いて、今度はマリアとイエスの会話が始まるのであります。それが今日のヨハネ福音書の箇所です。

 

そのマリアとイエスの会話の中でのイエスの振る舞いに注目したいと思います。まずこの場面で注意を引くのは、イエスがこのラザロの死の出来事に直面して、激しく心を動かしているということです。イエスは決してラザロの死に直面して平静に振る舞ってはいません。33節で<イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか」>(新共同訳)と記されています。ここには<心に憤りを覚え、興奮して>という感情を露にするイエスの姿が記されているのであります。<心に憤りを覚え>という言葉は、38節にも出てきて、<イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた>と記されています。この<心に憤りを覚え>という言葉は、もともとは「馬が鼻を鳴らす」いう言葉で、そのことから、「激しく怒る」、「憤怒する」という意味で用いられる言葉だということです。

 

また35節では<イエスは涙を流された>と記されています。イエスは、ラザロの葬りという出来事を前にして、それに対する人々の反応を含めてでしょうが、<心に憤りを覚え、興奮して>とか、<涙を流された>と、感情を露にする態度を示されたということは、注目すべきことではないかと思います。

 

しかし、田川建三さんは、新共同訳が<心に憤りを覚え、興奮して>と訳している言葉を<霊にて激しく息をし、みずから混乱して、>と訳しています。そしてこれは、ラザロの死の出来事によって涙を流しているマルタやマリアの姉妹と弔問に来ているユダヤ人たちに出会って、人間イエスが動揺した姿を語っているのだと言うのです。それに対して、39節以下のラザロを復活させたイエスの奇跡では、人間イエスではなく神であるイエスの記述になっていて、人間イエスの記述と神であるイエスの記述が、ここでは整合性なく並列して記されていると言うのです。ですから、「39節以下の、復活の奇跡そのものの描写になれば、著者としても、再びたんたんとして神の子の行動に舞いもどらざるをえない。ちょうど、何の感情もまじえずにたんたんとして婚礼の席で水を葡萄酒に変えた時と同じように、たんたんとして神の子の奇跡を実行する。ここの描写ではもはや、もう一つの(人間イエスを描く)著者の思いは消えている。本当なら、弟が死んでいたのに復活したとすれば、ほかの何よりも、復活した弟を迎える姉たちの驚愕と喜びを描くはずである。しかし彼本来の宗教ドグマ的主題にもどってしまった著者は、もはや姉たちのことも忘れている。ラザロは無事姉たちのところにもどって来ました、ということさえ言わないのである」と言っているのであります。

 

けれどもヨハネ福音書のイエスは、1章1節に「言は神であった」と言われていて、イエスは真の神なのであります。また1章14節では、<言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた>と、受肉の真理であるイエスを人間となった神として描いています。

 

ヨハネ福音書の真の神であるイエスについて、バルトはこのように述べています。「イエスは、忘れられ誤解された『神の考え』を再び明るみに出されました。イエスは神への想起だけでなく、神ご自身をお持ちでした。イエスにとって神は見知らぬ方ではなく、最も自然で最も熟知している方でした、離れてはおらず、最も近くにあるものでした。イエスは神を逆さまな鏡では見ず、顔と顔を合わせて見ていました。イエスにとって神はだから恐ろしいものではなく、喜びでした、善行は強制ではなく、自由でした。愛はねばならぬことではなく、許可、意志、行為でした。/救い主(イエス)の生涯において、神の本来の隠された本質が何と素晴らしく完全に明るみに出たことでしょう。つまり、生きている神、一切の悪を放棄させ一切の善を自ら成長させるために、……ただ一言仰せになるだけで、罪の縄目、金銀の宮殿、病気の城、それどころか死の一味は陥落します。愛そのものであられる神、特別な愛の言葉を言ったり行ったりする必要はなく、純粋に愛することだけが神から私に、私たちに、世界の中に入ってくるのです」。

 

エスがラザロの死の出来事に憤りを覚えたり、涙を流されるのは、ヨハネ福音書の著者によれば、この真の神であるイエスは、人間の苦しみや悲しみを、どこか高い所から見下ろしておられるような方ではないということを告げているのではないでしょうか。

 

ことに、35節の「イエスは涙を流された」という表現に注意したいと思います。ヨハネ福音書のイエスは、先ほども触れた25節での自己宣言でも明らかにされたように、自ら復活(よみがえり)であり、命である方であります。イエスによって、死はもう打ち勝たれたもの、克服されたものであります。イエスは死に対する勝利者であります。そして、今そのことの実証として、ラザロの復活が行なわれようとしている、そのような方であります。そのようなイエスが、今ここでラザロの死という事実に直面して、それを決してもうすでに解決済みの事、克服されたこととして、冷静に振る舞われないということ。そうではなくイエスが、マルタやマリヤやユダヤ人たちの嘆き悲しみを、共にされているということ。彼らと共に涙をながしているということ。文字通り「泣く者と共に泣く」方であるということ。それは私たちにとって、感動的なことではないでしょうか(井上良雄)。

 

しかし、イエスがラザロの死という事実に直面して、そのように激しく憤られたという場合に、彼は何に対して憤ったのでしょうか。「イエスがここで憤怒されたのは、第一には、また直接には、人々がラザロの死をめぐって、ただ嘆き悲しんでいる状態に対してであります。すなわち、人間の敵である死の方に、ただ屈服している状態に対して、彼は憤っているのです。しかし、イエスが憤怒しているのは、それだけでなく、そのようなことを越えて、彼の怒りは死の力そのものに向けられています。人間をそのように苦しめ、悲しませる死の力そのものに向かって、彼の憤りは発せられているのです。

 

エスは、ラザロを死なせ、マルタやマリヤや人々を悲しませている死の力に対して激しく憤り、さらにそのような力の支配を何か当然のことのように、それに対して何の抵抗もできないかのように受け入れ、それを承認し、それに屈服し、諦めている人々の姿にも憤って、ラザロを閉じ込めている墓の中に入って、「ラザロよ、出てきなさい」と叫ばれます。すると、もう死んでから四日も経ったラザロが、手足を布で包まれ、顔も顔おおいで包まれたまま、墓穴から出てくるということが、そこで起こるのです。

 

このヨハネ福音書のラザロの死に悲しむ人々を前にして、心に憤りを覚え、涙を流すイエスに通底しているのは、ローマの信徒への手紙8章に記されている「うめく」神ではないでしょうか。そこでは、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(26節)と記されています。「“霊”自ら」とは神自身を意味しますので、ここには、神が人間のためにうめきながら執り成していいていてくださると言うのです。そして「神は愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています」(28節)と記されています。うめく神は、私たちと同じ現実に立ちたもう方でありますが、同時に、私たちのいるところから、私たちを連れ出し、神のみ心にふさわしい形に変えてくださる方でもあるというのです。そして神がそのように私たちの味方であり、私たちのためにありとあらゆる労苦と犠牲を、惜しまずに、私たちをとらえ、愛したもうとするならば、私たちは何物も恐れる必要がないと言えるのです。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(38,39節)と言われているように、です。

 

このことによって私たちが知り得ることは、死という私たちにとって最大の敵であるものが、神の目にも敵として映っているということです。神は、死というものを抵抗できないものとして――その前にただ忍従し屈服し受け入れるより他ないものとしては、見てはいません。したがって神は、私たちにとっても、死というものを、何か当然のこととして、やむを得ないものとして、承認することを許されません。死は、神自身にとって、あるべきでないもの、もっとも厭わしいもの、奇異なものであります。神自身にとっても、最大の敵であります。そして、このラザロの復活の出来事が示しているように、そして、さらに最終的にはイエス御自身の甦りの事実が示しているように、この最後の敵である死に対する勝利が私たちにはイエスによって約束されているのであります。このことは、「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者」(ヘブル2:15)としての私たちにとって、何という大きな慰めであり、力づけでしょうか。

  

祈ります。

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日は弟のラザロの死を悲しむマルタやマリアの姉妹と、ラザロの死を知って弔問にかけつけてきたユダヤ人たちを前にして、心に憤りを覚え、涙を流すイエスについて思いめぐらしました。
  • 死に支配されている私たちですが、その私たちのために呻き、憤り、涙を流す方がおられることを覚えて感謝いたします。私たちは一人この世に放り出された者ではなく、ご自身の命を捧げて下さるほどに、私たち一人一人を大切にしてくださり、愛してくださる方がおられることを覚えて、日々その方と共に生きることができめすように導いてください。
  • 戦争や災害によって苦しむ人々を支えて下さり、その一人一人に希望をお与えください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌   486(飢えている人と)

https://www.youtube.com/watch?v=jFUwwzN1XN0

⑭ 献  金 

⑮ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑯ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

 

※今日の説教も、井上良雄『ヨハネ福音書を読む』の当該箇所から示唆を受けています。