なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(53)「イエス・復活と命」ヨハネ11:17-27

3月31(日)イースター礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神」。  

                       (詩編68:20-21)

③ 讃 美 歌   204(よろこびの日よ)

https://www.youtube.com/watch?v=1lSZeXpQr54

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  30編5-13節(讃美歌交読文31頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書11章11章17-27節

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    326(地よ、声たかく)

(ユーチューブ奏楽なし)

⑨ 説  教  「イエス・復活と命」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日はイースターの礼拝です。ヨハネによる福音書11章のラザロの復活の物語の一部である11章17節から27節、特に25節、26節のイエスがマルタに語った言葉「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(新共同訳)からメッセージを聞きたいと思います。

 

このイエスがマルタに語られた言葉が、どのような状況の中で語られたのかについて、初めにお話ししたいと思います。問題の発端は、イエスが愛されたマルタ、マリア、ラザロの姉妹兄弟が、エルサレムに近いベタニヤに住んでいて、ラザロが病気になり、死にそうになったことから、この物語は始まります。その頃イエスの一行は、ヨルダン川の向こう側のバプテスマのヨハネが洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在していました。マルタとマリアの姉妹から使いがイエスの所に遣わされ、イエスはその使いの者から、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です」というマルタとマリアからの伝言を、そこで聞きます。しかし、イエスはすぐにベタニヤに駆けつけることはせずに、ラザロが死んで葬られるのを待っているかのように、なお二日間同じところに滞在します。それからイエスは、ベタニヤに行きます。弟子たちは、エルサレムに近いベタニヤに行けば、以前イエスを石で打ち殺そうとしたユダヤ人たちが、またイエスを殺そうとするのではないかと心配したのですが、イエスはその弟子たちの心配を押し切ってベタニヤ行きます。

 

そこからのことが今日のヨハネによる福音書の11章17節以下に記されています。ベタニヤは、18節にも書いてあるように、エルサレムに近い小さな村で、エルサレムから3キロ(「15スタディオン」)ほどということですから、歩いて40分位の距離にある村です。イエスがそこに行った時には、ラザロの死を知って、新共同訳では、エルサレムからも大勢の人が、マルタ、マリアを「慰めに来ていた」と言うのです。田川さんは、この新共同訳の「慰める」と訳された言葉は、「そばで言葉をかけてあげる」と訳せれる言葉で、死者の弔問の時には、「お悔やみを言う」の意味に用いられるのが普通であると言っています。

 

マルタとマリアのところに大勢のそういう弔問客が来ていた所に、イエスの一行が到着します。「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた」(20節、新共同訳)と書かれていますので、マルタが先ずイエスを出迎え、妹のマリアの方は、家に残っていて客の接待に当たっていたのでしょう。そこで、21節から27節まで、マルタとイエスの対話が記されています。この2人の対話を通して、ヨハネ福音書の著者は「イエスは 復活であり、命である。イエスを信じる者は、死んでも生きる。生きていてイエスを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と語っているのであります。マルタとイエスの対話を追って行きながら、このイエスの言葉の意味を考えたいと思います。

 

21節でマルタはイエスに、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言っています。このマルタの言葉には、イエスに対しての多少の不満の気持が込められていると思われます。しかしそれだからと言って、そのために、マルタのイエスに対する信頼の気持ちが少しでも損なわれるということはありませんでした。何故なら、マルタはイエスに対して、続けて22節で、「しかしあなたが、神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(新共同訳)と言っているからです。ここでマルタはイエスに、「この世にあなたが来て下さった以上、神は何らかの仕方で、私たちのこのラザロを失ったという悲しみを和らげてくださるに違いない」と、期待と願いを込めて言っているのです。

 

それに対してイエスは、23節で「あなたの兄弟は復活する」(新共同訳)と言われます。しかし、マルタはこのイエスの言葉を理解しません。彼女は「「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節、新共同訳)と言います。マルタは復活を未来に起こる終末の出来事としてしか理解していません。この終末の時に起こる復活は、当時のユダヤ人社会では、エルサレム神殿の祭司たちによって構成されていたサドカイ派は信じていなかったと言われますが、ファリサイ派を初めユダヤ人の多くの人は信じていたと言われています。そういう極めて一般的な信仰告白を、マルタはここで、ただ繰り返すように言っているのです。しかし、この彼女の言葉には、一種の諦めと嘆きが込められているように思われます。つまり、「私は弟ラザロが終りの日に復活するということを、多くの人が信じているのと同じように信じている。しかし、もしそれだけのことならば、それは今私にとって何の慰めでもない。そのような信仰は、今のこの私の悲しみを少しも和らげてはくれない」と、マルタは語っているように思われるからです。

 

そういうマルタの言葉に対して、イエスは、25節、26節で、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(新共同訳)と、言われます。

 

エスはここで「わたしは復活であり、命である」と言われます。これは、「わたしは・・・である」(エゴー・エイミ)という、ヨハネ福音書にしばしば出て来るイエスの自己宣言の言葉です。これと同じ言い方は、これまでもこれからもヨハネによる福音書の中でしばしば出会う言い方です。今までにも、「わたしは命のパンである」(6:35)、「わたしは世の光である」(8:12)、「わたしは良い羊飼いである」(10:11)というイエスの言葉があります。これからも「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)、「わたしはぶどうの木、わたしの父は農夫である」(15:1)というイエスの言葉がでてきます。これらは同じ言い方で、そういう言い方全部に共通して言えることは、終りの日に起こるべきことが、今イエスにおいて、現在のこととして、私たちの目の前にある、ということです。今、マルタの前に立っているイエスご自身が、復活(甦り)であり、命そのものであるということです。もし私たちが信仰において、イエスを信じて歩みを起こすならば、復活(甦り)であり、命であるイエスと共に在るということになりますので、パウロが言うように、「イエスの命が私たちの死ぬべき肉体に現われる」(Ⅱコリント4:11)ということが起こるということです。

 

ですから、ヨハネ福音書のイエスは「わたしは復活であり、命である」という言葉に続けて、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われます。つまり、今すでにイエスと共に生きているイエスを信じて歩みを起こす者も、もちろんやがては死を迎えなければなりません。しかし、そのような人の中にもすでに復活(甦り)であり命である言われるイエスにある新しい命が宿っているとすれば、そのような人がやがて迎える肉体的な死というのは、一体何なのでしょうか。その場合には、死はもうその恐ろしい力を失っています。<その死からは、私たちを苦しめる棘は抜かれてしまっています。その場合には、肉体的な死の時というのは、もはや命から新しい死の世界に入る暗い入口ではなくて、命の一つの在り方から別の在り方への転換のときにすぎません。通過点にすぎません。そのことを、これらのイエスの言葉は語っていると思います。ですから、裏から言えば、「決して死ぬことはない」ということができるわけです>(井上良雄)。

 

ボンフェッファーは第二次世界大戦終結を前にした1945年4月9日の明け方に、フッロセンビュルグ強制収容所で処刑されました。その前日に彼は、彼を引っ立てるために部屋に入って来た民兵を前にして、「これが最後です。しかし私にとっては、生命の始まりです」というチェチェスターの主教ベル宛てのメッセージを同囚の友に託したというのです。井上良雄さんは、<これは感動的な言葉ですが、しかしこの言葉は、私たち信仰者すべての者が地上の生涯の最後の日に語ることを許されている言葉だということを、私たちはお互いに銘記したいと思います>と言っています。私たちもそうありたいと思います。

 

ところでイエスは、マルタに対して語られた言葉の最後に、「このことを信じるか」と問われます。それに対してマルタは、「「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(27節、新共同訳)と答えます。21節から始まったイエスとの問答の中で、マルタの様々な信仰的な動揺を見てきましたが、しかし、この最後の27節に至って、イエスを正しく告白する者になっているマルタを、私たちは知ることができます。ここでマルタが「わたしは信じております」と言っているイエスを「信じる」とうことはどういうことなのでしょうか。それはただ単に「わたしは復活であり、命である」というイエスの自己宣言を正しく受けとめ、それに対して正しく答えるということではないと思われます。そうではなく、それは、イエスが、「わたしは復活であり、命である」と言われるその事実を、自分自身の生活の中で本当に生きた力ある現実とするということです。そのような意味で、イエスはここでマルタに対して、「あなたはこれを信じるか」と問われたのです。

 

しかし、この問いが単にマルタに対しての問いではありません。それは、私たちすべての者に対しての問いかけです。イエスは、「わたしは復活であり、命である。あなたはこれを信じるか」と、私たちすべての者に対して問うているのです。

 

私たち人間の死は、肉体的な死であると共に、心の死、魂の死でもあると思います。他者の命を奪う殺人を犯す人の心や魂は、人間として死んだ心であり、魂ではないでしょうか。自分さえよければ、他の人がどうなっても関係ないという人の心や魂も、死者の心であり、魂ではないでしょうか。ですから、私たちにとっての死は、単なる肉体の死だけではないと思うのです。現在の岸田政権は武器輸出の道を開きました。他国に武器を輸出することは、日本が死の商人になるということです。

 

エスは、ご自身が「復活であり、命である」という、それによって私たちが生きることができ、それなくしては生きることができない恵み深い事実を私たちに示して、その上で、「あなたはこれを信じるか」と問うているのです。このイエスの問いにマルタが「わたしは信じております」と答えたように、私たちも「わたしは信じております」と答えて、生きていきたいと思います。

 

主がそのように私たち一人ひとりを導いてくださいますように!

  

祈ります。

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日はイースターです。主の復活と命を覚えて、イエスの復活を祝う日です。
  • 神さま、私たちが、「復活であり、命である」イエスを信じて、死から解放された者として、この与えられた命を喜び、他者と共に生きていくことができますように、私たち一人ひとりをお導きください。
  • けれども、この世界の現実は、命よりも死が支配してように思われます。ウクライナやガザでの戦争をはじめ、分断と対立が各地で顕在化しています。気候変動による災害も頻発しています。そのために幼い子供の命をはじめ、沢山の人々の命や生活が奪われています。
  • 経済優先が人々から労働の喜びを奪い、多くの人は心と魂をお金のために売らなければならない状況に置かれています。豊かな国の中にも格差が広がって、貧困で苦しむ人も多くなっています。
  • 神さま、どうか私たちが命を大切にして、世界に平和と和解が実現しますように導いてくさい。苦しむ人々を助けてください。そのために私たちを平和と和解の使者として、できることをしていくことができますようにお導きください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌   575(球根の中には)

https://www.youtube.com/watch?v=DSa1TIhfASE

⑪ 讃 美 歌      81(主の食卓を囲み 1、2節)

https://www.youtube.com/watch?v=XV54nqiweqc

⑫ 聖 餐 式

⑬  讃 美 歌      81(主の食卓を囲み、3節)

https://www.youtube.com/watch?v=XV54nqiweqc

⑭ 献  金 

⑮ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑯ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

 

※今日の説教は、井上良雄『ヨハネ福音書を読む』の当該箇所から示唆を受けています。