なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(53)「起こしに行く」ヨハネ11:7-16

3月24(日)受難節第6・棕櫚の主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃 美 歌   171(かみさまのあいは)

https://www.youtube.com/watch?v=fSXOcCTZv-8

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編64編1-11節(讃美歌交読文67頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書11章7-16節(新約188頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     441(信仰をもて)

https://www.youtube.com/watch?v=Ito3vJhhxlg

⑨ 説  教   「起こしに行く」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日は、教会歴ではイエスエルサレムにろばの子に乗って入城された日で、棕櫚の主日になります。今日から受難週で、来週の31日の日曜日がイースターになります。今年は棕櫚の主日イースターも、礼拝説教は、ヨハネ福音書の続きからメッセージを聞きたいと思います。今日はヨハネ福音書の11章の7―16節になります。

 

7節、8節を読みますと、「それから、(イエスは)弟子たちに言われた。『もう一度、ユダヤに行こう』。弟子たちは言った。『ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか』」。と記されています。ユダヤ人がイエスを殺そうとしたということは、すでに9章の終わりに書いてありました。弟子たちは、そのことを思い出したのでしょう。彼らはイエスの出発を押しとどめようとします。

 

しかしそれに対して9節で、「イエスはお答えになった。昼間は十二時間あるのではないか、昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ」と書かれています。このイエスの言葉は、9章の生まれつきの盲人の癒しの物語の中で、イエスが「わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である」(9:4,5)と言われたのと基本的には同じことを、語っているように思われます。それは一言で言えば、イエスのこの地上での働きの時間、活動の時間は限られている、ということです。やがて光のない夜を迎えなければならないということです。それゆえに、まだ光のある、人々がつまずくことのない昼間の時間を、用いつくさなければならないといことです。したがって、弟子たちが抱いているようなユダヤ人に対する恐れに妨げられずに、自分たちはベタニヤに行かなければならないと、イエスは言われるのです。

 

それからさらにイエスは言葉を続けて、11節で、「わたしの友ラザロは眠っている。わたしは彼を起こしに行く」と言われます。イエスがここで、「ラザロが眠っている」と言われたのは、すぐあとの13節で説明されているように、ラザロが死んだということを言われたのですが、しかし弟子たちはそれを誤解して、ラザロは文字通り、眠っていると言われたのだと思い、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」などと言うのです。

 

しかし、14節、15節には、「するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、『ラザロは死んだのだ。そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである。では、彼ところに行こう』」と、記されています。

 

この15節でイエスが言っておられることは、次のようなことだと思います。<もしあの時、ラザロの病気の報せを聞いて、直ぐにベタニヤに向けて出発していたなら、恐らくまだ生命のあるラザロに会うことが出来たであろう。しかし、その場合には、あなた方が経験するのは、病気の癒しという奇跡に過ぎなかったであろう。だが私は、あなた方にさらに大きな奇跡を示したいと願っている。すなわち、死人の甦りという奇跡を示したいと願っている。そしてそのことによって、あなた方の信仰を喚び醒ましたいと思っている>。――そのように、イエスは、15節で言っているのだと思います。ですからイエスは、「わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ」と言われるのです。

 

そのようなこと、すなわちイエスがラザロの死からの甦りという奇跡を示すことによって、弟子たちの信仰を喚び醒まそうとして、出発を二日延ばされたということ、それはあるいは人間的に言うならば、問題のあることかも知れません。ラザロというひとりの人間の扱い方として、問題のあることかも知れません。少し先の21節で、マルタは、イエスを迎えた時、イエスに向かって、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と言っています。そして、さらに先の32節でも、今度はマリヤが、同じ言葉をイエスに対して語っています。このマルタとマリヤのイエスに対する言葉の中には、イエスに対して多少の不満の気持が、いわばイエスをなじるような気持が、含まれていたと言っても差し支えないと思います。

 

しかし私たちは誤解してはならないと思うのですが、ラザロに対する、またラザロ一家の人々に対するイエスの愛に、何の欠ける所があったのでもありません。そのことは、この聖書箇所でくり返し、イエスの彼らに対する愛が強調されていることでも、明らかだと思います。すなわち、3節では、「主よ、ただ今、あなたが愛しておわれる者が病気をしています」と言われ、5節では「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」と記されています。さらにずっと先の方の35節以下では、ラザロの死に対して涙を流されるイエスの姿を見たユダヤ人たちが、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」と言っています。そのように、ラザロの一家の者たちに対するイエスの愛の深さを、私たちは疑うことができません。

 

その上で、井上良雄さんは以下のように述べています。<しかし、イエスは、そのようにラザロ一家の者たちに注がれるのと同じ愛によって、人間全体を包み給わなければならないのです。彼は、人間全体に対する救いの御業を推進し給わねばなりません。そのためには、ラザロの死を通し、神の栄光とイエス御自身の栄光が示されなければなりません。ラザロの死からの甦りという大きな出来事が、人々に示されて、それによって、弟子たちの信仰が喚び醒まされなければなりません。そういう大きなご計画のなかで――人間全体の救いという壮大なご計画の中で、ラザロの死が用いられるのです。そしてそのために、イエスがベタニヤへの出発を二日延期されるということも起こるのです。/今、申しましたことは、一般化して言えば、世界全体、また人間全体に対する神の救いのご計画の中で、私たち一人一人の問題がどのように位置づけられているか、どのように考えられているのかという問題だと言うことができるかと思います。新約聖書では、人間一人一人の問題が決して無視されてはいないけれども、しかし、それが主題とはなっていないし、中心的な問題とはなっていないということです。そして、新約聖書の主題は人間全体に対する神の救いの計画であって、そういう壮大な計画の中に組み入れられ用いられるということの中に、一人一人の人間の祝福も救いも喜びも希望もあるのだということです>。

 

ところで、そういう14節、15節のイエスの言葉があって、最後にイエスが、「では、彼のところへ行こう」と言われて、弟子たちの一行は、ベタニヤに向けて出発します。16節に、弟子の一人であるトマスが、「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」という危険に向かって進んで行く自分たちの決意を表明する言葉が記されています。                       

 

いかに弟子たちが重苦しい空気に包まれていたかを、トマスははっきりと語っているのです。ただ弟子たちに残されたことは、イエスひとりを死なせるのでなく、共に死に赴くことによって、その忠実な同志としての道を示す以外にないと、トマスは考えたのでしょう。イエスが弟子たちに対し、何か全然別なものを与えようと考えておられるのに、トマスにはまだそれが分からないのです。それはイエスと共に死ぬことでなく、イエスのために生きることです。それはイエスの使者として世界中にイエスの福音の喜びを伝え、イエスに従って人々に仕えて生きることにほかなりません。

 

キルケゴールは『死に至る病』の中でこのように述べています。「…キリストは、ラザロを死からよびさましたあの奇跡、したがって<この病>は死に至らなかったばかりではなく、キリストが予言した<神の栄光のために>(同11:4)のあの奇跡のことをかんがえられておられたのであることをよく知っている。ああしかし、たとえキリストがラザロをよびさまさなかったとしても、この病が、死そのものさえが、死に至るものでないということが、同じように言えるのではあるまいか。…<復活にして生命>(同11:25)であるキリストが墓に歩み寄るというそのことだけで、この病は死に至らないことを意味していはしないであろうか。キリストが現にそこにいますということが、この病が死に至らないことを意味してはいないであろうか! またラザロが死人の中から呼びさまされたとしても、結局は死ぬことによってそれも終わりを告げねばならないのであるとしたら、それがラザロにとって何の役に立つことであろう。…いや、ラザロが死人の中から呼びさまされたから、それだからこの病は死に至らないと言えるのではなく、よみがえりであり、生命であるキリストが、現にそこにいますから、それだからこの病は死に至らないのである」。

 

ここには、まことに深い、イエスの言葉への洞察が記されています。キルケゴールが書いているように、ラザロが死んでよみがえらされたので、「この病は死に至らず」と言われているのではないのです。なぜなら、よみがえらされたラザロの生命そのものは、決して永遠の生命ではなく、「結局は死ぬことによってそれに終わりを告げねばならないものである」としたら、そのこと自体は驚くべき奇跡ではありますが、ただ今死ぬべき生命が、しばらく先に引き延ばされたというだけのことに過ぎないのではないでしょうか。復活されたラザロも、やがて死を免れることはできなかったのですから。

 

森野善右衛門さんは、「イエスは、人生の医者としてこの世に来られたかたです」と言って、このように述べています。「ですから、イエスの前では、自分の健康を誇ることが死に至るのであり、自分の病を自覚することが生命に至る道に入る第一歩なのであります。イエスは、死に至る病の中にある人間の世界に、真のいやし、救いと、生きる希望をもたらすために来られたのです。真に恐るべきもの、死に至る病とはなんであるかを示されたのです。/「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」(マルコ2:17)とは、イエスの語られた意味深い言葉です。自分が義人であり、健康無比であることを誇っていたファリサイ派の人々が、実はイエスの目から見てもっとも重大な病にかかっていたのであります。しかも彼らは、そのことの自覚がなかった。そこに、死に至る病が確実に進行していたのです。私たちもしばしば自己過信をして、自分の病に無自覚であることが多いのです…。人生の医者であるイエスの前に、自分は丈夫であるから医者はいらない、と言い切れる人が果たしているでしょうか」と。

 

私たちは、自らの病を自覚して、人生の医者であるイエスの導きに従って健康な人間として生きていきたいと願います。

 

主がそのように私たち一人ひとりを導いてくださいますように!。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日は棕櫚の主日です。イエスエルサレムに群衆の歓呼の叫びを受けて、ろばの子にのって入城された日です。しかし、この週の金曜日にはイエスは十字架に架けられて殺されます。そのイエスの生涯と十字架と復活の出来事を通して、イエスは今も私たちの人生の医者として、病んでいる私たちを癒してくさり、人間として健康に生きるように導いてくださっていることを覚えて、感謝いたします。どうかそのイエスに従って生きていくことができますように、私たち一人ひとりをお導きください。
  • けれども、この世界の現実は、私たち人間の病がますます進行しているかに思われるほどに、ウクライナやガザでの戦争をはじめ、分断と対立が各地で顕在化しています。気候変動による災害も頻発しています。そのために幼い子供の命をはじめ、沢山の人々の命や生活が奪われています。
  • 神さま、どうか世界に平和と和解が実現しますように導いてくさい。苦しむ人々を助けてください。そのために私たちを平和と和解の使者として、できることをしていくことができますようにお導きください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌   502(光の在る間に)

https://www.youtube.com/watch?v=v5Reex3AQ7c

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。