なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

飯塚光喜牧師を天に送って(鶴巻通信30)

  • 「船越通信(608)」で、<飯塚光喜牧師のことは、昨年の夏に行われた「障がい者と教会の集い」(主題「飯塚光喜牧師から問われたことを考える」)でした私の発題が、この日出席者にプログラムと共に配布された報告集に掲載されていますので、そちらの方をご覧いただければ幸いです>と書きましたが、その私の発題を、「鶴巻通信」として掲載します。

 

 

飯塚光善牧師を天に送って~飯塚光善牧師のめざしたものと私たちが継承すべきもの~       2023年8月27日(日)障がい者と教会の集い発題

       

                            北村慈郎

 

最初に少し私の個人史についてお話させてもらいたいと思います。キリスト者になってからの私の個人史の中で大きな出来事は、神学生時代から最初の任地である足立梅田教会時代の10年間に関わった廃品回収を生業(なりわい)としていた人たちとの出会いです。当時そのような人たちを括弧つきで「バタヤさん」と呼んでいました。足立梅田教会がある地域は梅田町ですが、その梅田町に隣接して関原町や本木町がありました。本木町に「バタヤさん」が多く住んでいました。仕切屋という「バタヤさん」が集めてきた廃品を買い取るところがあって、その仕切屋さんが長屋を持っていて、そこに「バタヤさん」が住んでいました。その長屋は、3畳ほどの部屋が並んでいる隙間風が入る劣悪な建物でした。すでにその頃東京都が仕切屋さんの場所を買い上げて、そこに5階建てのアパートを作り、「バタヤさん」を入居させていましたが、まだ仕切屋さんの長屋で生活していた人も結構いました。私は神学生時代から本木町にあった隣保館というセツルメントで先輩が始めた「バタヤさん」の集会を、先輩が卒業してそれぞれの任地に行くことになったので、同級生の友人と二人で引き継いでその集会の責任をもっていましたので、足立梅田教会の牧師になってからもその集会を続けていました。

私が足立梅田教会の牧師時代に「バタヤさん」の中に洗礼を受けた人がいて、足立梅田教会のメンバーに数名の人がなっていました。その一人の方が真冬に心不全で仕切屋さんの長屋で亡くなりました。島田さんという、相当目の不自由だった人ですが、私はその知らせを受けて、長屋に行き、島田さんが亡くなっている状態を見ました。集めたくずの山の中でかろうじてつくられている寝床で冷たくなっていました。猫がいて、布団の周りには猫の糞が散乱していました。私は仕切屋さんと福祉の方にお願いして、教会で葬儀を出すようにしました。そして島田さんのお骨は、当時足立梅田教会には墓地がありませんでしたので、東京教区の墓地にカロートを買って、埋葬しました。島田さんのような方が他にお一人いて、二人の方のお骨が東京教区の墓地に埋葬されています。今は合葬になっていますが、二人の身元引受人に私がなりましたので、今は来なくなりましたが、長い間東京教区の墓前礼拝の案内が私の所にも来ていました。

私は、この本木での経験を通して、イエスは誰のために死んでくださったのかということを考える時に、「バタヤさん」のようなこの社会の中で最も小さくされている方々のためではないかと思うようになりました。そのようなイエスの生涯と死が、わたしへの問いであり、そういう形でイエスの生涯と死は、私のためでもあるのではないか、と思うようになっていきました。私は、その生き方や信仰観からすれば、1960年代後半に山谷に入って活動された伊藤之雄さんの影響を強く受けていますが、伊藤さんより先に山谷で活動していた中森幾之進さんの「下に登る」や婦人保護施設をつくった深津文雄さんの「底点志向者イエス」と言われるようなイエス理解に共感を覚えています。イエスは、上をめざしたのではなく、「下」を、「底点」をめざして生きて、死んで、甦って、今も私たち一人一人に「わたしに従ってきなさい」と招いておられるのではないかと思うのです(マルコ10:45参照)。

障がい者との関りは、名古屋の御器所教会時代(1977年4月~1995年3月)に脳性麻痺の方が教会員にいて、愛知西地区だったと思いますが、神奈川教区の障がい者と教会の集いのような会を一年に一回開いていましたので、その集いには彼の付き添いで毎年必ず参加していました。彼は晩年三重の菰野にある聖公会の施設で生涯を終えるのですが、私は、1995年に紅葉坂教会の牧師になってからも、彼の身元引受人になっていましたので、何度かその施設に彼を訪問し、彼が帰天したときに私が彼のお骨を引き取り、その後彼も教会員の一人であった名古屋時代に私が牧師をしていた御器所教会の墓地に埋葬しました。名古屋時代に彼との関係もあって、紅葉坂教会の牧師になってからも、この神奈川教区の障がい者と教会の集いには毎年参加するようにしてきました。

飯塚光喜牧師とは、この障がい者と教会の集いによって初めてお会いしました。それが1995年だったと思います。紅葉坂教会の牧師になった最初の年の夏だったと思います。その時確か先生から私と一度話したいと言われ、お話しする機会を持ちました。その時に私ははじめて藤沢ベテル伝道所の設立の時に紅葉坂教会が関係教会を引き受けていたということを知らされました。私が紅葉坂教会から招聘される時には、紅葉坂教会から紅葉坂教会が藤沢ベテル伝道所の関係教会であるということは聞いていませんでした。そのことからも明らかなように、当時の紅葉坂教会には藤沢ベテル伝道所の関係教会であるという意識はほとんどありませんでした。飯塚先生は、藤沢ベテル伝道所の設立に関係教会として関わった紅葉坂教会との関係を、設立の時だけでなく、ずっと紅葉坂教会を藤沢ベテル伝道所の関係教会として意識されていました。紅葉坂教会と藤沢ベテル伝道所との間に、そのズレができたのは、後でわかりましたが、私はこのことを知って、紅葉坂教会の役員会に諮って、紅葉坂教会と藤沢ベテル伝道所が関係教会であることを、改めて確認し、それ以来毎年9月の初めの藤沢ベテル伝道所の創立記念の礼拝には役員を藤沢ベテル伝道所に派遣することと、私が年度末に藤沢ベテル伝道所を訪問することを決め、それ以来、私は飯塚光喜牧師とは比較的よく話をしてきた者の一人ではないかと思っています。

それは私が紅葉坂教会の牧師だったということもありますが、私自身が若い頃父の会社の倒産による経済的な貧しさや筋萎縮症という全身動けない母の病気との出会いという形で、貧困や病による人間の痛みを多少味わっているということが、目の不自由な飯塚光喜先生の痛みを他人事とは思えない、先生の痛みへの共感を、勿論十分とは言えませんが、私が持つことが出来たということも、先生との関係を最後まで持続できた要因の一つではないかと思います。この様々な苦しみを負っている人間の苦しみへの共感は、苦しんでいる人と共に生きるという体験をしないと、私たちはなかなか持つことが出来ないのではないかと思います。勿論、共に生きるという体験をしたからといって、必ず持てるというわけではありませんが、体験がないと苦しみを持った人との関係が観念的になりがちのように思います。

例えば、健常者のキリスト者が、イエスの教えである「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という戒めを、自分は実践しなければならないという意識が先走って、障がい者の方のために何かしてあげなければと思って、一生懸命に相手に関わろうとするということがないとは言えません。こういうあり方は、善意の強制になりかねないもので、相手は余計なお世話だと思うのではないでしょうか。その結果、その人はひとり相撲をしているだけに過ぎないことになります。もう一つ、私たちが苦しみを持った他者との関りで犯しやすい過ちがあります。それは苦しみを持った人と共に生きていくことに自分をかけていくというよりも、その人の側に自分が立って、その抑圧差別をなくそうとする運動を自己目的にしてしまうことです。それは、或る意味で苦しむ人を利用して運動そのものに自己没入して、結果的に苦しんでいる人からの収奪になりかねません。

そういうことからしますと、私たちの中には、飯塚光喜先生のやり方に違和感を持たれた方もいるかもしれませんが、飯塚光喜先生は、この障がい者と教会の集いにしても、社会福祉小委員会にしても、障がい者としての当事者性を大切にされたように思います。当事者性とは、障がい者自身が中心になっていくということです。ですから、障がい者と教会の集いは、障がい者と共に1泊2日でも一緒に過ごすということをメインに設定されていたのではないでしょうか。生活を共にし、出会いを通してお互いに知り合うということを経験するということです。この集いの副題に「知り合うこと、ふれ合うこと、生活を共にして」とある通りです。

滋賀県止揚学園という福井達雨さんが始めた障がい児・者の施設があります。止揚学園は入所者と職員家族の生活共同体の形をとっていて、食事は全員でしています。私は、当時名古屋の御器所教会の牧師として、私が牧師になる前から御器所教会で行われていた中高生の夏のキャンプを近江八幡で行ない、その中の一日を止揚学園でワークをさせてもらって、朝から夕方まで止揚学園で過ごさせてもらっていました。ですからお昼の食事は、私たちもバラバラに入所者と職員家族が一緒の食事の席に加えてもらっていました。障がいをもった方の中には、食事をスムーズに飲み込めずに、口から吐き出してしまう子もいました。そのような時に御器所教会の子どもたちはびっくりして、中には自分の食事が出来なくなる子もいましたが、止揚学園の職員の子どもたちは、そのような時にも慌てずに自然に対応していました。共に生活するということは、そういうことなのだと、その時納得させられた経験があります。異質な他者と出会い、触れ合うことによって相手を理解し、それまでの自分も変えられて、共に生きるようになっていくのではないでしょうか。

私は御器所教会の牧師時代以来、異質な他者である隣人の発見・変容・共生という形で、底点志向者イエスが目ざした、最も小さくされた人を中心にした共生の場として教会を考えてきました。そのような私の教会についての考え方を、私が当時の教団議長の山北宣久さんから教師退任勧告を受けた頃、確か2009年だったと思いますが、新教出版社の小林さんから勧められて、自分の牧会の中で話したり、書いたりしたのをまとめて、『自立と共生の場としての教会』という本にしています。この本はキリスト教関係の点字図書館から連絡があって、点字にもなっていると思います。飯塚先生も藤沢ベテル伝道所で洗礼を受けたり、転入する方に一時期だと思いますが、この本をプレゼントにしていたということを聞いています。この本で私が書いていることは、イエスの出来事(福音)によって、私たちは個として自立すると共に、隣人である他者との共生へと招かれているということです。共生への招きは、隣人である他者との出会い(隣人の)発見・(相互の)変容・(共に生きる)共生の繰り返しではないかということです。教会をそういうイエスの出来事(福音)に基づいた自立と共生の場であるというのが、私の教会についての考えです。

日本基督教団の平均的な教会は、生活にある程度余裕のある健常者が担い手の中心になっています。障がい者が担い手の中心になっていて、健常者は障がい者の支え手として関わっているような教会は、あっても僅かでしょう。神奈川教区では藤沢ベテル伝道所くらいかも知れません。障がい者中心の教会からしますと、比較的生活に余裕のある健常者中心の教会は批判の対象にならざるを得ないでしょう。飯塚先生から、我々牧師の説教や福音理解についての厳しい批判をしばしばお聞きしましたが、先生からしますと、我々の説教や福音理解はイエスの福音に反するように思えたのではないかと思います。特に現在の日本基督教団の主流の教会は、底点志向者イエスにではなく「信仰告白と教憲教規」に基づくドグマ化されたところがありますので、それに対する飯塚先生の批判は強烈でした。

先程深津文雄さんの「底点志向者イエス」について触れましたが、飯塚光喜先生はこの深津文雄さんの「底点志向者イエス」を継承していると思います。深津文雄さんは社会的に底点の人とは言えませんが、飯塚光喜先生は視覚がい者として、或る意味で御自身が社会的に底点の人でもあるわけです。その意味では深津文雄さん以上に飯塚先生は当事者性をもっていた人だと思います。当事者性を持っている人でも、そうでない他者を自分の側にうまく取り込みながら関係を築こうとする人もいると思いますが、飯塚先生は当事者性をありのままに出して他者との関係を築こうとされたのではないでしょうか。それだけ健常者の側は他者の持つ痛みへの共感が求められますので、その共感力に乏しい人には飯塚先生の言葉や行動が自分を攻撃するように思えてしまうのではないでしょうか。そういう意味で、飯塚光喜先生は稀有の人だと思います。その強く断定的な物言いに多少抵抗を感じる人もいると思いますが、私自身は、飯塚先生の強い物言いには先生の当事者性があらわれていると思っていました。

この障がい者と教会の集いにしろ、社会福祉小委員会にしろ、飯塚先生の遺志を引き継いで行ってくださることを希望して、私のお話を終えたいと思います。