なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(25)「『聞く』ということ」ヨハネ5:24-29

7月16(日)聖霊降臨節第8主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌    17(聖なる主の美しさと)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-017.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編38編16-23節(讃美歌交読文42頁)

⑥ 聖  書   ヨハネによる福音書5章5章24-29節(新約172頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    194(神さまはそのひとり子を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-194.htm

⑨ 説  教   「『聞く』ということ」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

  • 今日は説教題を「『聞く』ということ」にしました。それは、今日の聖書箇所のヨハネ福音書の5章24節に、「アーメン、アーメン、汝らに告ぐ、私の言葉を聞いて私を遣わした方を信じる者は永遠の生命を持ち、裁きに入ることがない。すでに死から生へと移ったのである」(田川訳)と言われているところからつけました。ここに、イエスが語った言葉として、「私の言葉を聞いて私を遣わした方(神)を信じる者」と言われています。

 

  • エスの言葉を聞いて神を信じる者、本田さん流に言えば、「わたしが身をもって告げることを耳にして、わたしをつかわされた方に信頼をもってあゆみを起こす人」ということになります。それは、私たちキリスト者を指している言葉として理解することが出来ると思います。イエスの語る言葉に耳を傾け、イエスを遣わされた神を信頼して歩みを起こすこと、これがイエスを信じるということなのだと言うのです。

 

  • 信仰は、私たちの中にある敬虔さではありません。もし信仰が人間の敬虔さということであるならば、敬虔な人には信仰があるわけですから、日曜日ごとに教会に来て礼拝をしたり、日々聖書を読んだり、祈ったりする必要はありません。すでに敬虔な人には信仰があるわけですから、その必要はないことになります。それでもそうするとすれば、自分の敬虔さを示すための振る舞いということになります。毎週教会の礼拝に行くのは、自分が敬虔なクリスチャンであることを示すためとういことになります。

 

  • そういう勘違いをしている人がいないとは言えないかもしれませんが、私たちが毎週教会に来て礼拝するのも、日々聖書を読み、祈るのも、自分の敬虔さを誇示するためではありません。幼子が乳を慕い求めるように、命の源である神の言葉を聞くためです。神の言葉を聞いて、信じて歩みを起こしていくためです。

 

  • 何故繰り返し神の言葉を聞かなければならないのかと言えば、私たちは一度神の言葉を聞いて、信じて歩みを起こしたとしても、私たちが生きているのは世俗の現実であって、そこには信仰によって歩みを起こす者から信仰を無意味にする様々な誘惑・試練が渦巻いているからです。信仰で飯が食えるのか。隣人愛というけれども、本当にあなたは隣人を愛しているのか。キリスト教ロシア正教のように戦争を仕掛けるプーチン(国家)を支えているではないか。和解と平和と言うが、現実は対立と争いなんだよ、この世の中は! 「人を殺してはならない」と言うが、現実の人間は殺し合って生きているのだよ。等々。

 

  • キリスト者は、くり返し繰り返し神の言葉を聞いて、信じて歩みを起こすことをしていないと、この世俗の現実の中に埋没して行かざるを得ないのです。私たち自身は、人間としてこの世の人と全く同じですから、新しい命が注がれ続けなければ、何時でも世俗に埋没した人間になるのです。

 

  • ですから、聞いて信じるということが、私たちキリスト者には欠かせないことなのです。パウロも、ローマの信徒への手紙の中で、このように語っています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(新共同訳)と。

 

  • 岸田首相は「聞く力」を大切にしていると、首相に就任した時には強調していました。ところが、ここ一年数か月の首相在任期間を通して明らかになったのは、岸田首相の「聞く力」とは、「聞き流す力」であるということです。聞く振りをするだけで、訴える人々の言葉を聞いて、それを心に受けとめて、それにふさわしい行動をしていくというのが、本来の聞く力ではないかと思うのです。

 

  • その意味で、私たちも、信仰の振りをするのではなく、真剣にイエスの言葉に耳を傾け、その聞いたことを心で受け止めて、神を信じて歩みを起こす、生きた信仰を持って歩んでいきたいと思います。

 

  • そこで、24節、25節を、もう一度読んでみたいと思います。「アーメン、アーメン、汝らに告ぐ、私の言葉を聞いて私を遣わした方を信じる者は永遠の生命を持ち、裁きに入ることがない。すでに死から生へと移ったのである。アーメン、アーメン汝らに告ぐ、死者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。そして今がそうである」(田川訳)。

 

  • 両節とも、「アーメン、アーメン、汝らに告ぐ」(新共同訳「はっきり言っておく」)という言葉で始まっています。この言い方は、重要な新しい内容が導入されることを合図する言い回しと言われます。24節では、イエスの言葉を聞いて、神を信じて歩みを起こす者、すなわちキリスト者は「永遠の生命を持ち、裁きに入ることがない。すでに死から生へと移ったのである」と言われています。25節では、「死者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。そして今がそうである」と言われています。ここには、聞いて信じる者は、どのような人間になるのかということがはっきりと語られています。

 

  • 先ほど私は、キリスト者と言えども、私たち自身は、人間としてこの世の人と全く同じですから、くり返し繰り返し神の言葉を聞いて、信じて歩みを起こすことをしていないと、この世俗の現実の中に埋没して行かざるを得ない、と申し上げました。24節、25節は、イエスの言葉を聞いて、神を信じて歩みを起こす人間に与えられる福音が語られています。ある人は特権と言っていますが、私には特権という言い方にはなじめません。この福音は、闇の中に生きるキリスト者に与えられた灯のようなものと言えるように思います。

 

  • マタイによる福音書の4章16節には、イエスが私たちにもたらしたものは、「暗闇に住む者への光」であることが、預言者の言葉を通して語られています。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(新共同訳)と言われています。聞いて信じる者は、この暗闇のような世俗の世界の中で「光の子」として生きることができるというのです。

 

  • ヨハネ福音書の著者は、ここで、イエスの自己証言として、この光を「永遠の生命」(24節)と言っているのであります。「私の言葉を聞いて私を遣わした方を信じる者は永遠の生命を持」つと。このことは、既にヨハネ福音書の中心的なメッセージと考えられている3章16節以下で、すでに語られていることです。

 

  • 3章16節から21節までをもう一度読んでみたいと思います。
  • 「何故なら神はそれほどに世を愛して下さったので、一人子なる御子を与え給うたのだ。彼を信じる者がみな滅びることなく、世が彼によって救われるためである(新共同訳「永遠の命を得るためである」)。というのも、神が御子を世に遣わしたのは、世を裁くためではなく、世が彼によって救われるためである。彼を信じる者は裁かれることがない。信じない者はすでに裁かれてしまっている。神の一人子なる御子の名を信じなかったからである。真理をなす者は光のところに来る。自分の行為が神においてなされた、ということが明らかにさるためである」(田川訳)。

 

  • 24節は、3章16-21節で語られたことの、ある面で繰り返しになります。信じる者は永遠の生命を持つと言った後、信じる者は、「裁きに入ることがない。すでに死から生へと移ったのである」と言われています。これは、明らかに信じる者の現在の生活を物語っています。イエスの言葉を聞き、イエスを遣わされた神を信じて歩みを起こす信仰者、すなわちキリスト者である私たちの現在の生活は、罪の奴隷として、闇に支配されているのではなく、イエスの学校の生徒として、イエスの光に導かれて生きている、「死から命に移って」いる生なのだと言うのです。それは、決してこれから起こる未来的なできごととしてだけでなく、むしろ「今すでにその時が来ている」(25節)という現在の事柄として、ヨハネは証言しているのです。

 

  • 森野善右衛門さんは、<ヨハネにとって、「死」とは必ずしも肉体的な死を指すのではない。同じ机を並べる友だちや隣人同士の間に真の信頼が失われている、親子兄弟の間にも、真の心の通いがない時、人間としては本当に生きているとはいえないのではないか。人間の不在、不信の生は、それ自体が失われ、死んだ生であるし、そのこと自体が「裁き」を意味しているのではないか。「裁き」と「死」とは、あの世にあるのではなく、実にこの世のただ中にあるのである、というのがヨハネの言わんとするところなのだ。ここから、死と命についてのヨハネの現在的な考え方が出てくるのです。私たちは、死んでこの世を去った後にではなく、この世において、現在、永遠の命を受け、死から命に移されることができるのであり、それはイエスの言葉を、今、ここで、聞いて信じることによってできるのであります。ヨハネの理解する「信仰」は、この一点に単純化され、集約されています>と言っているのであります。

 

  • この現在的に考えるヨハネの「信仰」理解からしますと、28節、29節は違和感があるかもしれません。この28節、29節に記されているのは、当時のユダヤ教の伝統的な終末観である最後の審判に基づいて記されているように思われるからです。28節、29節をもう一度読んでみます。

 

  • 「このことを驚くな、すなわち墓の中にいるすべての者が彼の声を聞く時が来る。そして善をなす者は生命の復活へといたり、悪をなす者は裁きの(ための)復活へといたるのである」(田川訳)。

 

  • これは明らかに未来的な終末論的裁きについて記したものです。信じる者は裁かれないが、信じない者は既に信じないことにおいて裁かれているという24節、25節の信仰の現在的な理解がヨハネのものであるとするならば、この28節、29節も同じヨハネのものと考えるのは無理があるので、28節、29節は、後の編集者による付加であるという人もいます。田川さんははっきりとこの立場をとっています。信仰の現在的な理解をするヨハネについて、後のヨハネ教団に属する編集者が、終末論的な審判思想が生きている状況の中で、この28節、29節の部分を付け加えたのだと言うのです。

 

  • けえども、信仰を現在的に理解していても、信仰者にも未来があります。ヨハネは、その未来を最後の審判の時と、他の聖書の人々と同じように考えていたのではないでしょうか。確かにイエスの言葉を聞いて、神を信じて生きる者は、死から命に移っていて、既に永遠の命を得ているのは確かです。しかし、そのような信仰者であるキリスト者も、この世に生きている限りは、何時か死んで葬られることになる。それですべては終わるのではない。人は、<好むと好まざるとにかかわらず、最後の日に、その墓から出て、キリストの法廷に立たなければならない。誰もキリストによる招集を免れることはできない。彼の声が人々を御自分の前に集まるように呼ばれる時、すべての者は従わなければならない。しかし人は再びよみがえる時、みなが同じ状態でよみがえるのではない。二種類――二集団、二つの団体があるであろう。すべての者が天国へ行くのではないし、すべての者が救われるのではない。よみがえった永遠のいのちを相続する者もあれば、罪を言い渡される者もあろう。それは恐ろしいことである。…/われわれは今、キリストのよみがえらせる御声を確実に聞こうではないか。いのちと健康があるうちに、キリストの真の弟子と数えられようではないか。そうすれば、キリストの声が天地を揺るがし、墓から死者を呼び集められる時にも、われわれは信頼を持つことができ、『この来臨のときに、御前で恥じ入るということ』(Ⅰヨハネ2:28)がないであろう>(ライル)。だから、この28節、29節を、信仰者はイエスを中心に生きることによって、現在永遠の命を得、死から命に移っているように、未来の最後の審判の時にもそうなのだと、ヨハネは語っていると理解することもできるのではないでしょうか。

 

  • もしそうだとするならば、私たちは、繰り返し、イエスの言葉を聞いて、ただ一人のイエスの神を信じて、永遠の命を得て、死から命に移っている者として、自分を大切にするように隣人を大切にして、互いに愛し合って生きることによって、日々生きることに徹していくことに尽きるのではないでしょか。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、あなたはイエスを通して私たちに真の人間として生きる命を与えてくださっていることを覚えて、感謝いたします。けれども、この世の現実は、そのようなあなたが与えてくださる命ではなく、死に支配された人間の行動が際立っています。ウクライナへのロシアの軍事侵攻は、その最たるものです。今日本の国もその戦争の準備に、更に力を注ごうとしています。神さま、死をもたらす人間の営みから、私たちが解放されますように。
  • そのためにどうぞ命を大切にするキリスト者として、自分の置かれた場でイエスに従って生きていけますように、お導きください。
  • 死の支配の中で苦しんでいる方々を助けてください。私たちもそのあなたの働きに参与させてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

⑩    479(喜びは主のうちに)

 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-479.htm

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。