(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」
(ローマ5:5)
③ 讃美歌 7(ほめたたえよ、力強き主を)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-007.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編133編1-3節(讃美歌交読文147頁)
⑥ 聖 書 ヨハネによる福音書4章31-42節(新約170頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 353(父・子・聖霊の)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-353.htm
⑨ 説 教 「種まく人、刈る人」 北村慈郎牧師
祈 祷
今日は、ヨハネによる福音書の4章のイエスとサマリアの女との出会いの物語の後半(4:31-42)から語りかけを聞きたいと思います。そのために物語を順を追って振り返ってみたいと思います。その際、皆さんもこの物語の登場人物になったつもりでお聞きください。
前回、イエスとの関りにおいては、イエスにとっては、サマリアの女が、女であるとか、サマリア人であるという彼女の属性は全く問題とはならないということを学びました。イエスは、サマリアの女と出会ったのですが、彼女を、神に愛されているかけがえのないひとりの人間として向かい合っているのだと思います。けれども、弟子たちも、サマリアの町の人たちも、このサマリアの女をその属性で見ていたに違いありません。
他者である人間をどう見るかは、私たちが生きていくときに大変重要な問題です。もう1年4か月近くロシアによるウクライナへの軍事侵攻が続いていて、沢山の人が死んで(殺されて)、生活基盤である町も破壊されています。他者である人間を、イエスのようなまなざしで私たちが観ることができるとすれば、戦争など起こり様がありません。
31節の冒頭に「その間に」とあります。これは、サマリアの女がイエスの証人として、水瓶を井戸の傍らに置いたまま、町に行き、人々に、「わたしが行なったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかも知れません」と伝えます。するとサマリアの町の人々は「町を出て、イエスのところへやって来た」というのです。「その間に」とは、女が町に行き、人々がやってくるまでの間ということです。弟子たちは、町に行って食べ物を買って井戸の所に帰ってきて、イエスに「食事をどうぞ」と勧めたわけです。この弟子たちの行為は、空腹のときに食事をするという、ごく当たり前の日常的な行為と言えます。
するとイエスは、弟子たちにとっては、思いもよらないことを語るのです。「私はあなた方が知らない食べ物を食べることができる」(32節、田川訳)と。弟子たちは、このイエスの言葉を彼らの日常的な感覚から聞いて、「誰かが彼に食べるものを持って来たのかしらん」(33節、田川訳)と互いに言ったというのです。
イエスはサマリアの女との問答においても、のどの渇きを癒す飲み水のことから、「永遠の命に至る水」へと話を転換していますが(ヨハネ4:14)、この弟子たちとの問答においても、空腹を癒す食べ物のことから、34節で「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」と言われているように、話を転換しているのです。イエスの食物とは、神のみ心を行ない、神のみ業を成し遂げることだと言うのです。
空腹の時食べ物を食べることによって、私たちの肉体は健康を維持されます。そういう点で、肉体の健康を維持するには食べ物が必要です。イエスは私たちと同じ人間として、そのことを十分よく知っていたと思われます。弟子たちに祈るように言われた主の祈りの中にも、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」とあるのは、そのことの証左と言えるでしょう。私たち人間が日用の糧を必要なことは、十分よく知ったうえで、それ以上にもう一つ別の食べ物が私たち人間には必要不可欠であることを、ここでイエスは語っているのです。空腹を満たす食べ物から別の食べ物に譬える隠喩法を用いてです。
申命記8章の3節の言葉を想い起こします。この言葉は、荒野の誘惑でイエスが、空腹の極みの中で、誘惑する者に答えたと言われる言葉でもあります。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)。イエスがわたしには別の食物があるというのは、このことです。神の言葉によって初めて人間は、本当の人間として生きることができるのですが、そのことをイエスは言っておられるのです。
イエスは、「わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げること」が「わたしの食物」と言いましたが、それは、神のみ心を行ない、神の御業をなし遂げることが、イエスにとっては本当の人間として生きていくことだと言うことです。
ライルはこのように言っています。「私たちは神のための働きをしているだろうか。どれほどわずかであるにせよ、神のみこころを地上に実現するよう努力し、悪を退け、善を押し進めるようにしているだろうか。もししているとするなら、決して臆することなく、力の限り、全身全霊をもってそうすることにしよう。隣人の魂を救うためなら何でも、持てる力を傾けよう。人々はあざ笑い、私たちを熱狂主義者と呼ぶかも知れない。世の人は、神のための奉仕以外の働きにおける熱心さを称賛し、信仰以外の事柄への熱心さをほめる。だが、私たちは確信をもって行動しよう。人々がどう考え、どう評価しようとも、主イエス・キリストのたどられた道を歩いて行こう。…人はあざけっても、キリストは喜んで下さる(のだから)」と。そのように生きることができれば、それに勝る喜びはありません。
35節以下は、その神のための働きとしての伝道についての展望が述べられています。《あなた方はまだ四ケ月もあって、それから収穫が来る、などと言っているではないか。見よ、あなた方に言う、自分の目を上げ、諸地域を見るがよい。収穫のためにすでに輝いている。刈り入れ人は報酬を受け取る。そして永遠の生命へと至る果実を集める。蒔く者が刈り入れる者と同様に喜ぶためなのだ≫(35,36節、田川訳)。
この言葉がどのような歴史的な背景において語られているのかは明らかではありません。当時種蒔きから収穫までの期間が常識的には4ヶ月と言われていたようです。サマリア人の伝道を開始し種が蒔かれたのですが、その蒔かれた種が実りの時を迎えているということでしょうか。イエスの目から見ると、それは未来のことでなく現在の刈り入れを待っている状況であり、《既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている》と言われているのです。それは≪蒔く者が刈り入れる者と同様に喜ぶためなのだ≫と言うのです。
≪すなわちこの点で、蒔く者と刈り入れる者が別人だ、という言葉は真実なのである。私があなた方を遣わしたのは、あなた方が自分で労苦したわけではないものを刈り入れさせるためである。他の者たちが労苦したのだ。そしてあなた方は彼らの労苦(の成果)の中に入り込んだ≫(37,38節、田川訳)。
これはイエスの言葉ですが、サマリア伝道との関りから理解されなければなりません。その場合「あなたがた」と「他の者たち」は誰を指すのかが問題になります。ヨハネによる福音書4章のこの記事では、サマリア伝道はイエス自身が行ったことになりますので、「他の者たち」はイエスにならざるを得ません。けれども、それはおかしいというので、使徒言行録8章との関連で、この個所が理解されるようになっています。使徒言行録8章には、ステパノの殉教のあと、伝道者《フィリポはサマリアの町を下って、人々にキリストを宣べ伝えた》(5節)こと、また、その後《エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた》(14節)、そして《人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかった》(16節)ので、ペトロとヨハネが聖霊をさずけたという記事があります。この記事と関係づけて、「あなあがた」をペテロとヨハネ(エルサレム教会)に、「他の者たち」を伝道者フィリポのサマリア伝道の地盤をゆずり受けたとされるヨハネの教会(クルマン)ではないかと考えらえているのです。この解釈によるますと、この箇所はある程度理解できるのです。
田川建三さんは、この部分を、ペトロやヨハネを中心とするエルサレム教会が、フィリポによるサマリア伝道を自分の影響下に入れることによって搾取しているのだと言って、ここはエルサレム教会への批判だと言っています。そこまで言えるのかどうかは分かりませんが、私はこの一連の伝道に関わる記述は、神の言葉によって生かされるということが、イエスの、終始肉体的に疲れている時にも飢え渇いている時にも伝道をする姿勢とも関係してここに述べられているのだと、受け止めたいと思います。
そして最後の39節から42節には、このように記されています。≪町の中から、サマリア人の多くが彼を信じた。女が、彼は私がしたことをすべて私に話してくれた、と証言した、その言葉の故に信じたのである。それでそのサマリア人たちは彼のもとに来て、彼に、自分たちのもとに留まってくれるように、と頼んだ。そして彼はそこに二日ほど留まった。そして更にずっと多くの者が彼の言葉の故に彼を信じたのであった。彼らは女に、我々が信じるのはもはやあなたの話のせいではなく、我々自身が聞いて、この人こそまことに世の救い主であると知ったからである、と言った≫(39-42節、田川訳)。
サマリア人たちは、最初にイエスについて証言をした女性に《我々が信じるのはもはやあなたの話のせいではなく、我々自身が聞いて、この人こそまことに世の救い主であると知ったからである》と言っています。間接的な証言を媒介にした信仰でなく、イエス御自身に出会って、直接的な信仰を得て告白しているのです。これは現在でも多くの人々がキリスト者や伝道者を媒介にしてイエス・キリストに導かれ信じるという段階から、自らがイエス・キリストとの出会いを通じてイエス御自身を直接信じると告白するに至るのと同じ事柄であります。
サマリアの女、弟子たち、サマリアの村人たちはすべて今までの彼らの社会通念や固定観念が期待するようにしむけてきたものよりずっと多くのものをイエスから受けました。疑い深いサマリアの女が福音の証人となり、いぶかしげなイエスの弟子たちが共に刈り入れる者となり、軽蔑されていたサマリア人たちが「世の救い主」と共に二日間過ごしました。このテキストは、信じて弟子となる生き方は、イエスの示す現実変革のビジョンにつき従うことによって新たにされ、活性化されるということを示唆しているのです(NIBから)。
「わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げること」が私の食べ物であると言われたイエスとの出会いによって、神との新しい関係に入れられた者(サマリアの女、サマリア人たち、弟子たち)は、その証言である伝道を通して、神の下にある人間同士の新しい関係に入るように招かれているのです。
そのことは私たちにおいても同じではないでしょうか。
祈ります。
- 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
- 神さま、イエスは、「わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げること」が私の食物だと言われました。そして空腹の極限の中で、誘惑者に打ち勝ち、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。同時にイエスは、5,000人の供食の物語の中で、弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われ、パンはまず飢えている人にこそ与えられなければならないと言われました。
- そのイエスの歩まれた道を、私たちもたどたどしくとも歩んでいけますようにお導きください。
- 今この世界の中で傷つき、苦しみ、命と生活が脅かされている人々をあなたが支えてください。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン。
⑩ 405(すべての人に)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-405.htm
⑪ 献 金
⑫ 頌 栄 28
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。