なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(17)「生きた水」ヨハネ4:7-15

5月14(日)復活節第6主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌  4(世にあるかぎりの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-004.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編34編1-11節(讃美歌交読文35頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書4章7―15節(新約169頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   287(ナザレの村里)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-287.htm

⑨ 説  教  「生きた水」         北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

前回の繰り返しになりますが、イエスサマリアの女の出会いが起こった状況を、最初にお話ししておきたいと思います。

 

イスラエルのほぼ中央に、海抜869メートルのゲリジム山があり、その山のふもとにヨハネによる福音書4章のイエスサマリアの女の物語に出て来るシカルというサマリアの町がありました。その町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地(シケム)(創世記33:18)の近くにあったということです。そこにはヤコブの井戸があり、伝説によるとこの井戸は、シカルの町から1.5キロ離れたところにあったと言います。ユダヤを去ってガリラヤへの旅の途中、イエスサマリアを通り、〈旅に疲れて、その井戸のそばに座っておられた〉というのです。時は〈正午ごろのことであ〉りました(6節)。

 

そこにサマリア出身の女が水を汲みに来ました。弟子たちは、町へ買い物に出かけていたので、そこにはイエスとその女のほかには誰もいません。彼女にイエスは、「私に水を飲ませてください」と言います。(7節)。ここからイエスサマリアの女との対話が始まります。イエスサマリアの女の対話は13のやり取りからなっていて、これはヨハネによる福音書の中でも最も長い対話の一つになっています。対話は二つの部分からなっていて、どちらもイエスからの語りかけで始まっています。7-15節と16-26節です。今日は前半の7-15節から語りかけを聞きたいと思います。

 

サマリアの女に「私に水を飲ませてください」と言われたイエスは、旅に疲れて、のどの渇きに耐えられなくなっている憐れな旅人として、この女の前に立っているのです。しかも、イエスが声をかけたのは、そこに真昼に(正午ごろ)に水を汲みに来たサマリアの女でした。一人のユダヤ人の男と一人のサマリア人の女の出会いがここに起こっているのです。この出会いは、性別の違いをはじめ、ユダヤ人とかサマリア人という民族的な違いや歴史的・社会的な違いをすべて取り除いた場合、一人の人間と一人の人間の出会いになります。片や旅に疲れて、井戸の傍らに座って、渇きを覚えて水を飲みたいと願っている人間がいます。そこにその井戸に水を汲みに来たもう一人の人間が来て、二人の出会いが起こります。旅に疲れて、のどの渇きを覚えている旅人が、水を汲みに来た人に、「私に水を飲ませてください」と願ったのに対して、水を汲みに来た人が快く井戸から水を汲んで、飲ませて上げたとなれば、二人の間に助けられ、助けるという関係が生まれて、二人は本来の隣人関係を生きているということになるのではないでしょうか。

 

エスサマリアの女に、「私に水を飲ませてください」と声をかけることによって、彼女にそれを求めたのではないでしょうか。けれども、実際にはそうは行きませんでした。イエスサマリアの女に「私に水を飲ませてください」と声をかけると、女は驚いて、イエスに言い返します。「あなたはユダヤ人であるのに、どうしてサマリア女である私に飲ませてくれなどと頼むのですか。ユダヤ人はサマリア人とはつきあわないじゃないですか」(9節、田川訳)と。このサマリアの女の返答には、「自分は女であり、サマリア人なのですよ」とイエスに訴えているところがあります。ユダヤ人とサマリア人が不和で、敵対的な関係にあったということは、「ユダヤ人はサマリア人とはつきあわないじゃないですか」と女も語っていますが、これは前回触れていますので、今日は改めて説明しません。「どうしてサマリアの女である私に飲ませてくれなどと頼むのですか」という点ですが、当時としては、男であるイエスが女に語りかけたとうことが異常なことであったのです。当時の風習として、厳格なラビ(教師)たちは、公の場所で女に挨拶することさえ禁止されていたと言います。そして驚くべきことには、自分の妻や娘に対してさえ、話しかけてはいけなかったというのです。もし公の場所で女にはなしかけているのを人に見られると、それはラビ(教師)としてその人の名誉を失ってしまうことになる。そういう時代であったのです。

 

この民族間の不和の問題、性差による差別の問題という壁は、今も私たちの中にあって、その克服に私たちは苦しんでいるのではないでしょうか。問題は、誰が、その壁を壊し、乗り越えて、和解の道が開かれるのかということであり、そのことに、この世界の将来がかかっているのではないでしょうか(森野善右衛門)。

「どうしてサマリア女である私に飲ませてくれなどと頼むのですか」という女の質問に、イエスは直接答えることなく、二人の対話は核心に入っていきます。「イエスは答えて彼女に言った、「もしもあなたが神の賜物を知っており、あなたに飲ませて下さいと言っているのが誰であるか知っていたら、あなたの方がその人に頼んだでしょうね。そうすればその人があなたに生きている水を与えてくれたでしょうに」(10節、田川訳)。

 

「生きている水」(新共同訳「生きた水」)とは、オリエント地方の言語習慣では、たまり水と違って、流れる水、または大地からわき出る水(泉や井戸の水)のことをさしています。ここでイエスは、「生きている水」と、もっと深い意味で、すなわち「永遠の命に至る水」(14節)の意味で言っているのですが、女はその意味を悟ることができません。一体どうやって汲む物を持っていないイエスが、井戸の水を汲むのだろうか、と不思議に思うのです。

 

しかしこの「生きている水」というイエスの言葉は、分からないながらに、女の心にある種の感動を呼び起こしたのでしょう。初めはユダヤ人であり、男のイエスに対して警戒していたこのサマリアの女の心が、少しずつ開かれて、イエスに対する畏敬の念が次第に生まれてきます。11節、12節で、サマリアの女はイエスに対して、「ご主人」(田川訳、新共同訳は「主よ」)と呼び掛けて、こう答えています。

 

「ご主人、あなたは汲み桶も持っておいででないし、この井戸は深いんですよ。それでどこからあなたはその生きている水とやらを手に入れるのですか。まさかあなたは我らの父祖ヤコブよりも偉大だなどと。ヤコブは私たちにこの井戸を下さり、ヤコブ自身もここから飲み、ヤコブの子らも、またその家畜もここから飲んだのですよ」。

 

「ご主人」(「主よ」)という、イエスに対する女の呼びかけには、それまでのイエスに対する女の態度とは違って、女の中に心の変化が起こったことを示しているように思われます。なお半信半疑ながら、女はイエスが語っている「生きている水」とは何か、飲み水でないとすれば、それは一体何なのか。この人は一体わたしに何を与えようとしているのか。女は今までに感じたことのない新しい問題にぶつかって、疑い迷いつつ、しかし自分がイエスの言葉に少しずつひきつけられていくのを感じざるを得ませんでした。

 

エスは女に答えて言われます。「この水を飲む者は誰でも再び渇く。しかし私が与える水を飲む者は永遠に渇くことがなく、私がその人に与える水がその人の中で永遠の生命へとむかって湧き出す水の泉となるのです」(13-14節、田川訳)。ここでイエスは、飲み水のことから、渇くことのない、「永遠の生命へとむかって湧き出す水の泉」のことに、女の目を向けさせます。

 

先ずイエスは、「この水を飲む者は誰でも再び渇く」と言われます。つまり、この女が汲みに来た水は、どれ程飲んでも渇きをいやすことのない水であると言うのです。そのことを、私たちはよく知っているのではないでしょうか。それは私たちが、自分が求めているいろいろなもの、私たちの持っているいろいろな欲望、それを考えれば解ることだと思います。私たちは、金銭、名誉、力、その他いろいろなものに対する欲望を持っています。それらのものは、このサマリアの女が汲みに来た水と同様に、人間にとって必要なものかも知れません。しかし、それらのものは「生ける水」ではないために、私たちの渇きをとどめることができません。そればかりか、私たちがそれらのものを自分のものにすればするほど――そういう水を飲めば飲むほど、私たちの渇きは激しくなっていく、ちょうど塩水を飲めば飲むほど、私たちの渇きが烈しくなっていくのと同じように、私たちの欲望は留まるところがないわけです(井上良雄)。

 

それに対してイエスは、「私が与える水を飲む者は永遠に渇くことがなく、私がその人に与える水がその人の中で永遠の生命へとむかって湧き出す水の泉となるのです」と言われます。つまり彼が与えられる水は、死んだ水ではなく、溜水でもないのです。イエスの与えられる水は、その水を飲んだ者の中に、新しい泉となって、こんこんと湧き出てくるとイエスは言われるのです。

 

この女はもともと求道者ではなく、むしろ初めはイエスが女に水を求めたのですが、イエスとの対話が進むにしたがって、女の中に次第に求める心が生まれ、今やここで、求める者と与える者とはその所を変え、イエスに求められた女が、今やイエスに求める者に変わるのです。女はイエスに言います。「ご主人、私にその水を下さい。そうすれば私は乾くことがなく、ここまで水汲みに来ることもなくなりましょう」(15節、田川訳)

 

誰に、何を求めたらよいのかという、求めの内容は、始めからはっきりしているわけではありません。むしろ、この女のように私たちも、最初はキリスト教に対する不信、反感、無理解、偏見に固められ、満たされているでありましょう。私とイエスとは何の関係もないし、したがって何も求めるもとはない、と思っている人が大部分です。しかしそのような私たちに、イエスがまず声をかけ、イエスが私たちに求めたもう。何も求めなかった者に呼びかけ、求める心をよびおこして下さるのです。この女に対してそうであったように、その求めを次第に深く高いものにしてくださるのです。求める心のめばえが、ここに見られます(森田善右衛門)。

 

求める心そのものが、イエスによって呼びかけられ、求められることによって、呼びおこされ、求められる者が求める者になるのです。聖書との出会い、聖書の中のイエスの言葉との出会いの経験は、私たちの心を新しく目覚めさせてくれます。もしイエスを知らず、聖書を知らなかったとしたら、私の心の中にあるものは、眠ったままで終わったかも知れません。イエスとの出会いと対話は、私たちの新しい人生を開く力です。

 

「女はイエスに水を求めます。〈私にその水を下さい。そうすれば私は乾くことがなく、ここまで水汲みに来ることもなくなりましょう〉。この女の求めている水は、まだイエスが与えようとする命に至る水の本当のところをつかんではいません、何かふしぎなもの、一種の魔法の水のような便利なものを期待しているのでしょう。この女の求めの低さを、私たちは笑うことはできません。森野善右衛門さんは、「神も、キリストも、教会も、自分がよりよく、豊かに、しあわせに生きるための手段となるとき、私たちの求めとこの女の求めとの間には、どれだけの違いがあるのでしょうか」と言っています。

 

女がイエスに求めて与えられる「乾くことのない水」とは、「罪赦されて生きる力」です。そのためには女は自らの罪に気づき、悔い改めなければなりません。イエスサマリアの女の対話の後半はそのことを語っているのです。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、サマリアの女にされたように、主イエスは今も私たちに求めて、語りかけて下さっていることを信じます。主イエスが私たちに求めて下さるがゆえに、私たちは主イエスに求めて生きることができるのです。どうぞ主イエスとの対話を、私たちが生きるベースに据えて、現実を生きていくことができるように。そして、何よりもあなたとあなた御国を求めて生きていくことができますようにお導きください。
  • 現実の社会では、私たちはあなたの子どもであるよりも、資本の奴隷にさせられています。そのために私たちは苦しんでいます。神さま、イエスサマリアの女にしてくださったように、一人一人にあなたとの関りを思い起こさせ、あなたの対話の相手に私たちをしてください。そしてあなたの命である生ける水によって生きる者としてください。
  • 今この世界の中で傷つき、苦しみ、命と生活が脅かされている人々をあなたが支えてください。私たちに分かち合う力を与えてください。
  • 神さま、この世界が平和になりますように。軍事力に頼らない平和をつくり出す力をすべての国の人々に与えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩    404(あまつましみず)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-404.htm

⑭ 献  金 

⑮ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑯ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。