なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(18)「わたしを信じなさい」ヨハネ4:16-26

5月21(日)復活節第7主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌   6(つくりぬしを賛美します)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-006.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編105編12-24節(讃美歌交読文113頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書4章16-26節(新約169頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   57(ガリラヤの風かおる丘で)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-057.htm

⑨ 説  教  「わたしを信じなさい」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

宗教改革カルヴァンは、確か『キリスト教綱要』の中で、「神を知ることは自分を知ることである」(神認識=自己認識)ということを言っていたように思います。私たちの中には、神を信じなくとも、自分のことは自分自身よくわかっていると思っている人もいるかも知れませんが、そのような自己認識は真の自己認識と言えるのでしょうか。

 

私たちキリスト者は、少なくともイエス・キリストを信じるようになって、自分が如何に自己中心で、的を外した存在であるか、すなわち罪人であるかに気づかされ、罪赦されて生きる道を与えられて、その道を生きているのではないでしょうか。

 

ヨハネによる福音書4章のイエスサマリアの女の出会いにおいて、サマリアの女も、イエスとの対話の中で、イエスを信じる者へと変えられていくことによって、彼女自身も変わっていく様子がはっきりと記されているのであります。

 

エスサマリアの女との対話の前半は(4:7-15)、前回の説教で扱いましたが、井戸に水を汲みに来た女に、イエスの方から「水を飲ませてください」と声をかけるところから始まっていました。そこから「生きた水」をめぐる対話があって、女はイエスに「生きた水」を求めるところで終わっています。

 

今日の箇所(4:16-26)のイエスサマリアの女の対話の後半も、イエスが女に「行って、あなたの夫を呼んで、ここにいらっしゃい」(16節、田川訳)という、唐突とも思えるイエスの語りかけで始まっています。その後の二人の対話はこのように続きます。<女は答えて彼に言った、「私には夫はいません」。彼女にイエスが言う、「夫がいないと、はっきりおっしゃいましたね」。あなたは五人の夫がいたのに、今あなたにいるのは夫ではありません。そのことをあなたはまっ直ぐにおっしゃいました>(17,18節、田川訳)。すると女は、「ご主人、あなたは預言者であると思われます」と、イエスに言うのです(19節、田川訳)。

この16節から19節について、G・R・オデイは、このように言っています。この個所は、「従来一貫して誤った解釈を施され、その結果この女を罪人として描く通説が広まった。だがこのテキストは、大多数の解釈者が想定するように、この女の不品行の証拠を持ち出しているのではない。イエスはこの女を裁いてはいない。道徳的判断はいずれも解釈者がこのテキストに持ち込んだものである。(ちなみに森野善右衛門さんは、「あなたは五人の夫がいたのに、今あなたにいるのは夫ではありません」というイエスの言葉から、「イエスは、このような不倫の女の本質を見透かしてズバリと言いあてる」と言っています)。彼女の結婚歴の理由としては、彼女の道徳的なだらしなさ以外にいろいろな可能性がある。おそらくこの女は、創世記38章のタマルのように、レビラト婚〔子供のないやもめが夫の兄弟と行う義務的結婚〕の慣習に縛られ、そのうえ一家の最後の血筋の男性に結婚を拒否されたのであろう。この女の結婚歴の理由は解釈者の興味を引くが、意義深いことに、イエスはそれを全く気にかけていない」(NIB)と。

 

このサマリアの女は、レビラト婚によって、最初の夫が早死にし、その夫の弟と結婚を強いられますが、弟たち4人も次々に早死にし、五人の男兄弟と結婚した後、おそらく6番目の夫の兄弟と、その兄弟が結婚を望まなかったので、同棲していたと思われます。イエスと出会う前のそのようなこのサマリアの女の人生を考えると、この女の痛み、苦しみを思わざるを得ません。「イエスは、事実を事実として語っておられるに過ぎないのです。しかし、イエスの言葉は、彼女の心を刺し貫きます。この言葉によって、彼女がこれまで歩んできた何十年かの生涯が、ちょうどサーチライトで照らされたように照らし出されるわけです。恥と汚辱に満ちた生涯、心も体もすりへらして来た生涯、人々の非難とあざけりの眼の下に生きて来た生涯、しまも何の喜びも慰めも平安もない生涯――そういう彼女の現実の一切が、彼女の目の前に展開されたに違いありません」(井上良雄、以下もほぼ井上良雄さんによる)。

 

女は、イエスが旅に疲れ切って井戸端に座り、彼女に水を求め憐れな旅人であったことも、サマリア人である彼女とは敵対関係にあるユダヤ人であるということも、忘れたかのように、自分の苦しみ、悲しみを言い当てたイエスに向かって、19節でこのように叫んでいるのです。「ご主人、あなたは預言者であると思われます」(田川訳)と。これは言うまでもなく、イエスに対する十分に正しい呼び名ではありません。イエスはもちろん単なる預言者ではないからです。しかしこの呼びかけは、彼女にとっては、この時点における精一杯の告白であったということができるでしょう。

 

これまで彼女は、自分はサマリア人であり、相手はユダヤ人であるという壁のこちら側に立って、相手を見ていました。そしてこれまでの自分の悲惨な生涯の思い出の中で、相手を猜疑心と敵意をもって眺めていました。しかし彼女が、ここで初めて心を開き、新しい目で相手を見るわけです。そしてイエスの背後にいます神に目を向けるのです。暗い悲惨な過去を持った自分に対して厳しさと憐れみの目を向け給う方の方に、その目を向けるのです。

 

そこで彼女は20節で、「私たちの先祖はこの山で礼拝しました。そしてあなた方は、礼拝すべき場所があるのはエルサレムだ、と言っています」(田川訳)と申します。この女の言葉は私たちにとっては、何か唐突な感じを与える言葉です。なぜこういう大事な時に、そういう問題を持ち出すのだろうかと、私たちは思うかも知れません。しかし、それは現在の私たちの考えることであって、彼女にとっては、それはやはり、真剣な問題であったに違いありません。彼女は今、イエスの言葉によって、新しく目が開かれ、新しい悔い改めの思いを与えられ、神の前に立とうとしているのです。つまり、新しく神を崇め、神を礼拝しようとしているのですが、しかし、どこで礼拝をするのかという問題が、直ちに大きな問題として彼女の心に浮かんできたのは、当然のことです。

 

20節で「この山で・・・」と彼女が言ったのは、ゲリジム山という山のことです。その山は、彼女の目の前にそびえています。ユダヤ人たちがエルサレムで礼拝をしているのに対して、サマリアの人々は、このゲリジム山で礼拝をしていました。それで彼女は、このゲリジム山で礼拝すべきなのか、それともユダヤ人たちが礼拝しているエルサレムで礼拝すべきなのかと、イエスに向かって問うわけです。今新しい生活を始めようとしている彼女にとって、それは非常に大きな問題であったに違いありません。ともかく彼女がそのように問う場合、相手がユダヤ人であることを、彼女はもちろん知っているのですから、当然相手は「エルサレムで礼拝すべきである。ゲリジム山での礼拝はやめなければならない」と答えるであろうと、予想していたと思います。しかし、彼女は、イエスから思いがけない答えを聞きます。すなわち、次の21節を読みますと、<彼女にイエスが言いう、「私を信じなさるがよい、女の人よ。あなた方がこの山でもエルサレムでも父を礼拝しなくなる時が来ます」>(田川訳)。――イエスは、彼女の問いに対して、直ちにゲリジム山での礼拝を退け、エルサレムでの礼拝を正しいとは申されません。彼はそういう対立を越えた終末的な事実に目を注がれます。

 

23節、24節を読みますと、「しかし時が来るのです。今がそうです。真に礼拝する者が霊と真理において父を礼拝する時です。それに父は、このようにして父を礼拝する者を求めておいでなのです。霊なのです、神は。だから神を礼拝する者は霊と真理において礼拝すべきです」(田川訳)。――イエスは、21節で語られた終末の日における礼拝について、もう一度繰り返しておられます。しかも21節の場合よりも、さらに積極的な言い方で繰り返して語っておられます。やがて終わりの日が来たならば、私たちが「霊と真理において」神を礼拝することが起こる。そして、そのことを知っている私たちにとっては、そのような霊と真理において礼拝するというのは、終わりの日に初めて出来事となるようなことではありません。父なる神は、今もう既に、そのような礼拝をする者たちを求めておられる。しかしイエスがここで、「しかし時が来るのです。今がそうです。真に礼拝する者が霊と真理において父を礼拝する時です」と言われる時、この言葉の背後には、彼御自身がそのような終わりの日をもたらす方であるという自覚があります。その彼がここに在す以上、「霊と真理において」神を礼拝すべき終わりの日は、やがて来るというようなことではなく、今すでにここで始まっているという自覚が、彼にはあります。

 

しかし女は、そのことを知りません。ですから、25節で、女は「メシアが来る、ということを私は知っております。つまりキリストですが、メシアが来るときには、私たちに一切のことを告げて下さる、と」(田川訳)と申します。彼女は自分が待ち望んでいる方を目の前にしながら、そのことに気づきません。

 

そういう女にイエスは、「私だ、あなたに語っているこの私」(田川訳)と言われます。このイエスの最後の一言によって、これまでこの物語の始めからちょうど薄暗がりの中を歩いて来たようなサマリアの女に、一挙に強烈な光が注がれ、彼女の歩んで来た道が光の中に置かれます。この女にとってこれまで謎のようであったイエスの言葉が、ここではっきりしたものになります。このイエスの最後の言葉が、サマリアの女にとってどんなに大きな衝撃であったか、それは充分に想像できることです。このイエスの言葉に対して、彼女が何か言ったということは、書いてありありません。――少し先の28節以下を読みますと、<それで女は水瓶を置いて町へと去った。そして人々に言う、「おいでよ。私のしたことをすべて話して告げたにくれた人を見てごらん。あの人こそキリストじゃないかしらん」>(田川訳)と書いてあります。この聖書の簡潔な叙述が、実に活き活きと、女のこの時の感動を、私たちに伝えてくれているのではないでしょうか。女は恐らく、イエスに対して何も言わずに、持って来た水瓶を井戸のわきに放り出したまま、町に走って行き、イエスのことを告げたに違いありません。

 

私たちはそれぞれ、自分なりのイエスとの出会いを経験しているに違いありません。その意味で、このサマリアの女とイエスとの出会いの物語は、私たち自身の物語でもあると言えるのではないでしょうか。イエスによって過去の生活から解放された者は、その後イエスの証言者として生きて行くのです。私たち一人一人も、そのターニングポイントの時を与えられているのではないでしょうか。その時のことを想い起こし、イエスの証言者として日々を生きていきたいと願います。

 

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、イエスサマリアの女に声をかけ、その対話の中でサマリアの女をイエスを信じて生きる者へと招いてくださいました。私たちもまた、イエスとの出会いを経験し、イエスの招きに応えて、サマリアの女と同じようにイエスを信じて生きる者として歩んでいる者です。
  • 神さま、どうか、この時代の只中において、私たちがイエスの証言者として生きることができますように、私たちを導いてください。
  • 今広島でG7サミットが開催されています。ウクライナのゼレンスキー大統領もこのサミットに参加するようです。先進国と言われて来た国々の首脳が平和をつくりだすために正しい選択をすることができますように導いてください。軍事力によらない話し合いによる問題解決をめざす力を与えてください。G7の国々は奪い合いの中で富を蓄積してきましたが、分かち合いによる公正な世界を作り出すために その姿勢を変えさせてください。
  • 今この世界の中で傷つき、苦しみ、命と生活が脅かされている人々をあなたが支えてください。私たちに分かち合う力を与えてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩    456(わが魂を愛するイエスよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-456.htm

⑭ 献  金 

⑮ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑯ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。