なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(12)「永遠の命を得る」ヨハネ3:9-15

3月26(日)受難節第5主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                          (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌   226(輝く日を仰ぐとき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-226.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編54編1-9節(讃美歌交読文58頁)

         (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書3章9-15節(新約167頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   303(丘の上の主の十字架)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-303.htm

⑨ 説  教  「永遠の命を得る」           北村慈郎牧師

  祈  祷

 

今日のヨハネ福音書の箇所は、イエスとニコデモの物語の続きです。前回の箇所を少し振り返っておきたいと思います。

 

夜イエスを訪ねて来たニコデモは、ファリサイ人の一人であり、ユダヤの長老でもありました。彼がイエスを訪ねて来たのは、徴(奇跡)を行なうイエスが、ユダヤ人が待望していたメシアかも知れないと思ったからでしょう。そのことを確かめるために、イエスの所に夜密かにやってきたのです。しかし、ニコデモは、イエスの語る言葉が理解できませんでした。イエスは、「アーメン、アーメン、汝に告ぐ、人は新たに生まれるのでなければ、神の国を見ることができない」(3節、田川訳)とニコデモに言いました。ところが、ニコデモは、「新しく生まれる」ということが理解できませんでした。ニコデモは、「新たに生れる」ということを、人が再び母親のお腹から生まれると理解して、「年を取った者が、どうしてそんなことができるでしょうか」とイエスに言いました。するとイエスは答えてニコデモに、更にこのように言いました。「「アーメン、アーメン、汝に告ぐ、人は水と霊から生まれるのでなければ、神の国に入ることができない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなた達は新たに生れなければならない、とあなたに言ったとて、驚くことはない。霊はおのれの欲するところに吹き、あなたはその声を聞く。だが、霊がどこから来て、どこへ赴くのか、あなたは知らぬ。霊から生まれた者も皆かくの如し」(5-8節、田川訳)。

 

このイエスの言葉へのニコデモの応答からが今日の箇所で、9節でニコデモは、「「どうしてかようなことが生じえましょうか」(田川訳)と、イエスの言葉に答えて言っているのです。イエスが語った「霊によって新しく生まれる」ということが理解できなかったのです。ニコデモは、2度イエスの言葉が理解できませんでした(4節と9節)。イエスは10節でニコデモにこのように言っています。「あなたはイスラエルの教師であるのに、このことも知らぬのか」(田川訳)と。

 

ここでニコデモは、「イスラエルの教師」と言われています。ニコデモは同胞であるイスラエルユダヤ人を教え導く知を持っていたのです。しかし、そのような知では、イエスが何を言っているのか分からなかったというのです。このことは、イエスの言葉を理解するためには、人間の知では不可能であることを意味していると思われます。イエスが語られることは、私たち人間に語られる神の言葉ですから、神の言葉は人間の生まれながらの知では正しく受け取ることはできないのです。そのことを思う時に、幼子について語られたイエスの言葉を想い起こさざるを得ません。

 

エスは、「だれでも幼子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこに入ることは決してできない」(マルコ10:15,口語訳)と言われました。ニコデモのようなイスラエルの教師ではなく、そのようなこの世の知をまだ身に着けていない幼子の方が神の国を受け入れ、そこに入ることができると言うのです。

 

幼子の特徴は絶対的な信頼です。幼子は生きることにおいて無力です。自分だけでは生きていくことができません。もし幼子が放置されるならば、その命は失われてしまいます。悲しいことですが、そういう事件が起こることがあります。暑い日に幼い子供を駐車場に止めた車の中に放置して、その親がパチンコに熱中して、車に戻って見たら、子どもが死んでいたというような事件です。幼子は無力ですので、自分から車のドアを開けることができません。ですから、幼子は他者への絶対的な信頼と、その信頼に応えてくれる他者の存在によって生きることができるのです。幼子にとってその他者は、身近な両親であり、両親のいない子の場合は親戚であったり、養護施設の職員であったりするのです。イエスが「幼子のように」と言っているのは、この幼子の他者への絶対的な信頼のことではないかと思われます。

ニコデモは「イスラエルの教師」であり、この世的には尊敬に値する人物であったかもしれませんが、神との関係においては、幼子のような絶対的な信頼関係にはなかったということなのでしょう。ですから、10節でイエスから、「あなたはイスラエルの教師であるのに、このことも知らぬのか」(田川訳)と言われてしまったのです。

 

このことは、私たち自身の問題でもあります。

 

さて、11節は、この節だけイエスとニコデモとの会話の人称代名詞が複数になっています。10節では、イエスはニコデモを「あなたは…」と言っていますし、12節でもイエスは自分自身を「わたしが…」と語っています。ところが、11節は「アーメン、アーメン、汝に告ぐ、我々は自分が知っていることを語り、自分が見たことを証言している。そして我々の証言をあなた達は受け入れることをしない」(田川訳)で、「我々」と「あなた達」というように人称代名詞は複数形になっています。これについては、この人称代名詞の複数形は単数形の強調であるとか、いろいろ解釈されていますが、私は、田川さんが言うように、この12節は教会的編集者による加筆とみるのがふさわしいのではないかと思います。ですから、「我々」(新共同訳では「わたしたち」)はヨハネ教団を、「あなた達」(新共同訳では「あなたがた」)はユダヤ教団を指しているのかも知れません。ヨハネ福音書の著者は10節から12節に続けて語っていると思われますので、ここでは11節を除いて読んでいきたいと思います。

 

そうしますと、ニコデモへのイエスの、「「あなたはイスラエルの教師であるのに、このことも知らぬのか」(10節、田川訳)に続いて、イエスはこのように語っています。「私が地上のことをあなた達に言っても、あなた達は信じることもしない。それなら、天上のことをあなた達に語ったとして、あなた達が信じるだろうか。そして、天から下って来た者、つまり人の子以外には、誰も天に昇ったことがない。そして、モーセが荒野で蛇を高く上げたように、人の子もまた高く上げられねばならぬ」(12-14節、田川訳)。

 

ここには、「地上のこと」と「天上のこと」が対比して語られています。そして、「私が地上のことをあなた達に言っても、あなた達は信じることもしない。それなら、天上のことをあなた達に語ったとして、あなた達が信じるだろうか」と言われています。「地上のこと」を私たち人間のこと、「天上のこと」を神のことと言い換えますと、このイエスの言葉はこうなります。「私が人間のことをあなたに言っても、あなた達は信じることもしない。それなら、神のことをあなた達に語ったとして、あなた達が信じるだろうか」。そして、続けてイエスは、「そして、天から下って来た者、つまり人の子以外には、誰も天に昇ったことがない」と言って、御自身を、天から下って来て、天に昇ったこともある「人の子」として、「天」である神との密接不可分な関係にあることを言い表しています。「そして、モーセが荒野で蛇を高く上げたように、人の子もまた高く上げられねばならぬ」と語っているのです。「モーセが荒野で蛇を高く上げた」とは、民数記21章の8-9節に語られている故事を指しています。そこではこのように記されています。「主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る』。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(新共同訳)と。

 

このところをシュラッターはこのように語っています。「荒野における出来事によって、イエスはただ単に、へびがすべての人の眼前に高く、柱にかけられたことにのみ注目するのではなく、むしろさらに、このへびがしていることに注目されたのである。へびを見上げる信じる者のまなざしは、死んだ者にいのちを与えた。イエスの十字架は、最高度にこのような働きをもつであろう。それゆえ、イエスは、確固とした、全き意志をもって、十字架に向かって行かれる。なぜなら、このようにしてイエスは、信じる者を永遠のいのちに導くことができるようになるからである。十字架によって、イエスは、イエスに呼ばわるすべての願いを聞き、イエスに信頼するすべての者を助け、すべて信じる者に永遠のいのちを授けるようゆるしを行ない、賜物を与える。今、恵みに向かうすべての者に、十字架から、無条件に恵みが示される。それこそ最も栄光に満ち、完成された啓示にほかならない」。ヨハネ福音書のイエスは、人間を照らす命の光であるロゴス(言)イエスなのです。

 

そして、15節で、「彼を信じる者がみな永遠の生命を持つためである」(田川訳)と言われているのです。この15節は新共同訳では「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と訳されています。新共同訳は、田川訳の「彼を信じる者がみな」を「信じる者が皆、人の子(彼)によって」となっています。口語訳も「それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」となっていて、田川訳と同じですが、原文からすると「彼そ信じる者はみな永遠の命を持つためである」訳がふさわしいのではないかと思われます。

 

「永遠の命」はヨハネ福音書が好んで使っている言葉ですが、時間的な意味で「永遠に続く命」ということではありません。永遠に続く命ということは、私たちの生きている者のこの命が永遠に続くということで、死なない命、或いは死ねない命ということになります。私たちはできるだけ長く生きていたいと願うかも知れません。しかし、永遠に死ねないとなったらどうでしょか。想像しただけでも、死ねない命を生き続けるのは地獄ではないでしょうか。

 

そういう意味でも、永遠の命とは永遠に続く命ということではありません。「永遠の」とは、時間的な意味というよりも質的な意味ではないでしょうか。その意味で、永遠の命とは永遠に意味のある命ということではないでしょうか。

 

エスを信じる者は永遠の意味ある生を持つことができると言うのです。私たちは全ての人が神によって与えられた命を喜んで豊かに生きることができる世界を望みます。それが神の国だからです。人間を創造された時に、創世記では神は「産めよ、増えよ」と祝福されたと記されています。そのようなみんなが祝福された生を生きる世界の到来を、私たちは心から願います。そのためには私たち一人一人が、神に造られた者として、一度は神の捨てて自分勝手に生きてしまったが、イエスによって赦されてもう一度神の子として、神のみ心を私たち自身の心として、永遠の命をもって生きる者にならなければなりません。そのような私たちはこの地上では寄留者・旅人でしょうが、そのような者としてこの世を生き抜かなけなりません。

 

ボンフェッファーは、「神の言葉を、神は私に与え続けてくれるであろう。そしてこの神の言葉において、私が神の力を感じ取ることができるようにしてくださるであろう。真の故郷から来た言葉が私のところにある時、私はこの地上で私の歩むべき道を見いだし、不正の中に正しさを、不確かさの中に拠り所をみいだすことになるであろう。そして労働する時には、大きな力、苦しみが襲う時には、忍耐する力を見いだすことになるであろう」と言っています。

 

「彼(イエス)を信じる者がみな永遠の生命を持つ」とは、そのようなことなのではないでしょうか。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を持つことができ、心から感謝いたします。
  • 「イエスを信じる者は皆、永遠の命を持つ」。あなたはそのような方として、イエスを私たちの所に遣わしてくださいました。心から感謝いたします。どうか私たちにイエスを信じる信仰をお与えください。イエスが切り拓いてくださった道を通して、どうかすべての人に解放と救済がもたらされますように。
  • 今世界には様々な抑圧が存在し、そのために苦しむ多くの方々がおられます。人が人を差別抑圧する罪から私たちを解放して下さいますように。イエスの福音を与えられている私たちも、その解放の働きに参与していくことができますように、力を与えてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

⑩    194(神さまは、そのひとり子を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-194.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。