なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(11)「新しく生まれる」ヨハネ3:1-8

3月19(日)受難節第4主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                          (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌   476(あめなるよろこび)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-476.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編29編1-11節(讃美歌交読文30頁)

        (ABは会衆が読む)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書3章1-8節(新約167頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   298(ああ主は誰がため)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-298.htm

⑨ 説  教  「新しく生まれる」           北村慈郎牧師

  祈  祷

 

ニコデモについて

今日のヨハネ福音書の3章1節以下に登場してくるニコデモという人物は、他の福音書には出てきません。ヨハネ福音書だけに出て来る人物です。ニコデモは「パリサイ人のひとり」(口語訳)であり、しかもユダヤ人の「長老」(田川訳、田川によれば、新共同訳の「議員」は誤訳)であると言われています。ニコデモは、ある程度ユダヤ人の代表的な人物の一人と言えるのではないでしょうか。当然ニコデモはユダヤ教徒であります。

 

そのニコデモがイエスを訪問したと、ここには記されています。それは、当時の社会的常識から言って、極めて異例なことであったと思われます。3章2節には、彼はイエス「夜」たずねたというふうに書いてあります。井上良雄さんは、「彼が夜訪ねたのは何故か。また福音書記者は夜という時を何故特に書いているのか、これについてはいろいろ想像できると思います」と言って、このように記しています。[ニコデモは、この訪問が人々の噂のためにならないようにという気づかいから、人目に付かない夜を選んだのかもわかりません。あるいは彼は、イエスとこれから交わそうとしている対話の為には、夜という静かな時がいちばん相応しいと考えたのかもわかりません。また福音書記者がとくに「夜」という言葉を書いているのは、ニコデモがイエスを訪ねたとき、ニコデモの心の状態が、暗い光のない夜のような状態であったということを表現するために、特に「夜」と書いたのかもわかりません。とにかく、ニコデモはイエスを、すがすがしい朝の光の中でではなく、闇があたりを支配している夜に訪問したというふうに、ここには記されています]と言っています。

 

井上良雄さんは、ニコデモが夜イエスを訪問したということを想像して、三つの理由を挙げていますが、通常は最初の理由しか考えられていません。「ニコデモがイエスのもとに来た時、人を恐れる気持ちを抱いていたことは、疑う余地がない。彼は自分がイエスを訪問したことが人に知れたら、人びとはどう思い、何と言い、どんなことをするだろうか、と恐れていた。彼が「夜」来た。それは昼間来るほど、信仰と勇気がなかったからである」というように、です。

 

ところが、このニコデモという人物は、ヨハネ福音書ではここだけではなく、他の二ヶ所にも登場します。一つは、7章50節以下です。そこでは、下役を遣わしてイエスを捕えさせようとした祭司長たちやファリサイ派の人たちが、下役たちがイエスを捕まえないで帰って来て、イエスのことで議論していた時に、ニコデモはイエスのことを弁護しているのです。もう一つは、19章39節ですが、そこでは、ピラトに願い出て、十字架上で殺されたイエスの遺体を取り下ろしたアリマタヤのヨセフと共に、「ニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来」ていて、「彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包ん」で、新しい墓に埋葬したと言われています。

 

ニコデモはイエスの弟子のひとりになったとは言われていませんので、パリサイ人のひとりで、ユダヤ人の長老でありながら、イエスを弁護し、弟子たちが十字架を前にして裏切ったり、イエスを知らないと言ったりして、イエスから離れて行ってしまった時にも、アリマタヤのヨセフとふたりだけでイエスを葬ったというのです。

 

ある人はこのように言っています。「すべての事には、初めがある。しかし最初に燃えるような信仰の告白をする者が、最後まで耐え忍び、最も信仰の確固とした者であることが明らかにされるとは限らない。ニコデモが光に至る道を手探りしていた時、イスカリオテのユダ使徒であった。しかし後になって、ニコデモは、十字架につけられたイエスを葬る手助けを大胆にしたが、イスカリオテのユダはイエスを裏切り、首をつって死んでしまった」と言うのです。

 

つまり、イエスとの関係の密度は、信仰告白して洗礼を受けたキリスト者だから深いのか。キリスト者でなくてもキリスト者以上にイエスとの関係の密度が深い人もいるのかもしれません。私たちはそのことをわきまえておきたいと思います。

 

新生について

「ラビ、あなたが神のところからお出でになった先生である、ということを私たちは存じております。あなたがなさったような徴は、神がその人とともにいまさない限りは、誰もなすことができません」(2節、田川訳)と言うニコデモに答えて、イエスは、「「アーメン、アーメン、汝に告ぐ、人は新たに生まれるのでなければ、神の国を見ることができない」(3節、田川訳)と言ったというのです。

 

するとニコデモは、「すでに年を取っているのに、人が生まれることなどできましょうか。再び母の胎に入って生まれてくるなぞ、できませんよ」(4節、田川訳)と言ったというのです。ニコデモは「新たに生まれる」ということを、もう一度母の胎から生まれることとして受け止めたのです。

 

それに対してイエスは、違う言葉で、「「アーメン、アーメン、汝に告ぐ、人は水と霊から生まれるのでなければ、神の国に入ることができない」(5節、田川訳)と言われたというのです。

 

この「水と霊から生まれる」の「水」を洗礼と解釈する人もいますが、田川さんは、この「水と」は教会的編集者の付加であり、ヨハネ福音書の著者は極めて明瞭に、典礼的儀式に対して無関心だった、と言っています。<強く拒絶するほどの気もなかったかもしれないが、少なくともそんなことにはまったく関心を持っておらず、また少なくともその種の宗教儀礼に重きを置く姿勢についてははっきりと拒絶的である…。彼にとって「霊から生まれる」ということは、もちろん、教会的典礼の儀式を受けてキリスト信者になる、などということではなく、神の子イエスを正しく認識することであった(そのことは福音書全体を通じてこの著者がくどいほどくり返していることである)>と言っています。

 

「霊によって新しく生まれる」とは、どういうことなのでしょうか。聖書によれば、私たちはみな例外なしに、罪によって堕落したアダムの末裔として生まれて来ます。「肉によって生まれた者は肉である」(6節)と言われているように、肉の思いは神に敵対しています(ローマ8:7)。<私たちは信仰も、愛も、神に対する恐れもなしに生まれてきます。私たちは生まれつきの傾向として、神に仕えることや、神に従うことをしないし、生まれつき神のみこころを行なうことを喜びとしない。生まれつきのまま放置しておくなら、アダムの子孫である人間は、誰も神を信じようとしないであろう>。神の子イエスを正しく認識する者となるためには、私たちは「霊によって新しく生まれ」、180度の方向転換をしなければならないのです。

 

「新しく生まれる」ことは、罪からの解放であり、神の国の住人となることなのですが、しかし、この変化を、私たちは自分自身でもたらすことはできません。イエスは、新しく「生まれる」と言われています。誰も自分で自分自身を生み出すことはできませんし、誰も自分の心にいのちを与えることはできません。死んだ人が自分自身にいのちを与えることができないように、生まれつきの人が自分自身を霊の人とすることは不可能です。世界を造ったのと同じ上からの力が働かなければならなりません。Ⅱコリ4:6で<「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました>と言われている通りです。人間は多くのことができますが、自分自身にも他人にもいのちを与えることはできないのです。いのちを与えることは、神のみが持っておられる力であります。ですから、イエスは私たちが「新しく生まれ」なければならないと言われるのです。

 

「アーメン、アーメン、汝に告ぐ、人は新たに生まれるのでなければ、神の国を見ることができない」(3節、田川訳)。「アーメン、アーメン、汝に告ぐ、人は水と霊から生まれるのでなければ、神の国に入ることができない」(6節、田川訳)。私たちも、このことを深く心にとめておきたいと思います。

 

風は思いのままに吹く

この個所において私たちが最後に注目すべきことは、「イエスが新しく生まれることを説明するために用いておられる比喩」です。イエスは、ニコデモがイエスから聞いたことに当惑し、驚いたことを知っていました。イエスはニコデモが心の中で不思議に思っていることを容易に理解させるために、「風」を譬えとして用いられました。霊の働きを説明するのに、「風」ほど適切なたとえは、ほかにはありません。そもそも「霊」も「風」も原文では同じ言葉(プノイマ)です。

 

風には多くの神秘的で説明できない点があります。「あなたは…それがどこから来てどこへ行くかを知らない」とイエスは言われました。私たちは風を手で捕まえることはできませんし、目で見ることもできません。風が吹く時、私たちはそれがどこから吹いて来たのか指摘することはできませんし、どこまで吹いて行くのか正確に言うことはできません。しかし、それだからといって風の存在を否定することはできません。人が新しく生まれる場合における霊の働きも、まさにそのとおりだと、イエスは言うのです。

 

風には多くの不思議な点があるにしても、風が存在することは常に風の音と効果によって知ることができます。イエスは「あなたはその音を聞く」と言われます。私たちは窓がガタガタと音をたてるのを聞き、雲が動いているのを見るなら躊躇せずに、「風が吹いている」と言います。人が新しく生まれる場合の霊の働きも、これと同じだというのです。霊の働きは驚くべきものであり、理解できないかもしれませんが、常に見ることができ、知ることができるのです。新生は「隠すことのできない」ことであります。霊によって生まれた者には誰でも、常に「霊の実」が見られるのです。

 

新生のしるしが何であるか知りたいと思うなら、ヨハネの手紙第一を学べばわかるでしょう。神から生まれる者は「イエスがキリストであると信じ」、「罪のうちを歩まず」、「義を行ない」、「兄弟を愛し」、「世に打ち勝ち」、「悪い者が触れることができない」(Ⅰヨハネ5:1,3:9,2:29,3:14,5:4,18)のです。これが霊によって生まれた者であると言うのです。これらの実が見られる時、そこにイエスが語っておられる新生が起こっていると言うのです。

 

キリスト者である私たちは、このようにイエスがニコデモに語られた「霊によって新しく生きる」というすばらしい変化が私たち自身に起こっているか、自らに問うてみる必要があるのではないでしょうか。そして自らの中にそのような変化のしるしを見出すことができるとすれば、そのことに勝る幸いはありません。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝ができ、その礼拝に与かることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今私たちは受難節の日々を歩んでいます。イエスを十字架にかけて殺した当時のユダヤ社会は、ローマ皇帝ヘロデ大王のような権力者の横暴によって多くの人々が苦しんでいました。イエスは権力者に逆らって、一人一人の命と生活を大切にして、最も小さくされた人々と共に歩まれました。そのことがイエスを十字架に追いやったのだと思います。神さま、このユダヤ社会の現実は、今も基本的には変わりません。あなたの御心を求めて生きて行こうとすれば、今もイエスと同じように十字架を背負わなければなりません。
  • 神さま、私たちが自分の十字架を背負って歩むことができますように、上からの霊の豊かな命の力を与えてください。
  • 神さま、権力や富をもつ者たちを導いて、多くを奪うのではなく、分かち合う心を与えてください。また、苦しんでいる人々には、その苦しみから立ち上がる手立てを与えてくださいますように。
  • あなたの御国を速やかに来たらせ給え。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

⑩     67(貴きイエスよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-067.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。